2008-12-31

どんな年でしたか、2008年

sky
『ようこそ量子』を書くことになった2005年ごろから、優秀な科学者たちと接する機会が増えたのだが、いちばん途惑ったというか、違いを感じたのは、たぶん仕事のしかただったと思う。

大学の先生というのは、ふだんいったい何しているのだろう? と大学の先生でない人は思うに違いない。大学生の経験のある人はなんとなく知っているかもしれない。しかしそれにしてもよくわかんない仕事だよね。そんな感じなんじゃないだろうか。

私の場合、民間で広告という仕事をしていた感覚からすると、正直なところ、どうしてそうなるんだろう、とか、なんでそれでいいんだろう、なんて思うことも多かった。しかし、彼らが(飛躍的に)優秀であることはよくわかる。優秀というのは単に成績がいいのではなくて、難しい問題をわざわざ見つけてはまっさきに解いてしまうスーパーな人たち、という意味である。というわけだからその、一見かなりずれて見えることにも、もしかしたら確固たる理由があるのかもしれない。そう思って、私はしばらく様子を見ることにしたわけだ。

そうは言っても、実際のところ、そこに何か意味のある理由があるとは、あんまり期待していなかった。むしろ彼らは研究においてずばぬけているので、一般の人が手際よくこなすような“簡単な”仕事は(もしかしたら突拍子もなく)ヘタなのかもしれない、と失礼ながら思っていたと振り返る。もちろん、そしてそれは、大間違いだった。

わかるのに時間はかかったけれど、結局彼らのやり方は、実に、まったく正解で、合理的で、たったひとつのまっすぐに冴えたやり方だ、と今では思う。今では、彼らが何か言うたびに、さっそく、なるほどと思えるようになった。

しかもそのような態度なり、ものの見方なり、考え方やアクションの手順といったものは、科学というコンテンツ(中味)そのものとは別に存在するし、異なる分野の科学者でもかなり共通の部分を持っている。つまり、その方法論を採りだして、別に科学でないものにだって適用可能なのであり、しかもたいへん役に立つものだということも次第にわかってきたのである。

2008年、研究の最先端を教えてくださった科学者の皆様、どうもありがとうございました。来年は、科学のコンテンツももちろんだが、そういった発想と活動を支える方法論の部分にもフォーカスできる機会があればと思う。

2008-12-25

宅配はネコ、クリスマスversion



宅配へネコシリーズ、これも長くなりそうな予感。テーマとコピーはもうあるわけですからあとはグラフィックのアイデアというところなんですが、トラックがあのリアリティですから、かえって黄金期のCMっぽくなるというように見える──のは私だけでしょうか。

ところで宅急便のトラックにはドライバーの名前の標札が付いているのですが、いつ見ても同じ名前だったりしませんか? そんな気がするのは……もしかして私だけ?

2008-12-24

merry christmas!


正規の分量を2回に分けて焼いてみました。ろうそく型というかタワー型のショートケーキができあがり。

スポンジも今回は良好。今回は1/2の分量で2回に分けたのですが、例によって焦げます。1/2よりも1/3ずつ焼くほうがいいようでした。

焼けてみたら前回の失敗の原因に思い当たりました。卵の泡立て不足です。底に黄身がとろりと泡立たずに残っているようでは、ぜんぜん泡立て不足。

三度目の正直、と言いたいところですが、まあ10回ぐらいは作ってみないと、まだなんとも、という心境です。

2008-12-23

ケーキとトースター、第二回。

レシピを読んで1回目は成功し、2回目は失敗する、というのは鉄則なんです。しかしまた鉄則通りになるとは。

!!!トースターはせいぜいピザトーストぐらいの高さしか想定していないので、背が高いものを入れるとたいへん危険です。ましてやクッキングペーパーのような燃えやすいものは不可です。科学的な常識と、各人の責任において試してください。!!!

できないことはないし、スポンジの状態もよいのですが、いくらなんでもふくらまなさすぎです。反省。

ショートケーキ

ショートケーキ

さてと予行演習はこのくらいにして、と。明日は本番。

2008-12-22

ケーキをトースターで焼くと、焦げ焦げ、一見ですが。

トースターでケーキを焼く

トースターというのは、家庭用調理器具の中では珍しく単機能の商品である。そこを信頼して、オーブンの代わりを任せてみることにした。ところがパンをトーストすると、一般に上面のほうが下面よりも焦げていませんか? つまりトースターも基本的に(下にもヒーターが入っているのだけれども)やはり上面のほうが焦げやすく、オーブンに比べて庫内も狭い。だから、そうなるかな、と思ったら、やっぱりこうなりました。

これはケーキの台になるスポンジの部分を焼いているところ。(大丈夫、焦げているのは上だけなんです。)分量も少ないし、すぐ焦げる。が、逆に言えばあっという間に完成です。

ケーキできあがり

これは、ほぼ日刊イトイ新聞の「なんでもない日、おめでとう!」の「クリスマスがやってくる。」のレシピを使って、作ってみたもの。このレシピはとりたてて珍しいものではないのですが、「よく泡立て」という表現が、「これでもかというくらいよく泡立て」なのか、「ざっと泡立てればいい」のかというあたりが若干親切なのと、料理を教えている飯島さんという方が、手を抜かない人なのだなあと思わせるところが、なかなか楽しめるので、料理のプロセスがいったいどこまで伝わったかを確認する意味でも時々作っています。また、ケーキを作ったことのある方には、卵白と卵黄を一緒に泡立てるタイプのレシピと言えばわかると思います。

さて、このレシピに必要なもののうち、オーブンとクッキングペーパーとイチゴがない。そこで「ショートケーキ」とは言いにくかったわけなのですが、そこでどうしたかというと、この分量をすべて1/3にして、型はかつて近所にあったケーキ屋さんのベイクドケーキが入っていたハコを流用しました(あくまで非推奨。小さい型のほうがいいと思っただけなんです)。

ところで、粉もののレシピや、お菓子のレシピというのは、原則的に、分量厳守です。勝手に変えると必ず失敗しますし、ちがう状態(しっとりのはずがぱさぱさとか、さらりのはずがねっとりとかですね)になってしまうこともあります。それがどうしたことか、今回はなんだかうまくいったんですよね。だいたい分量を1/3にしてそのままうまくいくとは限らないし、さらに失敗もしました。まず卵を湯煎にかけるときに白身に火をとおしてしまい、白身を差替えた時にすでに分量が変わってしまった。そこでこれに合わせて粉の分量を上げ、ついでにバターが分量分ストックがなかった。めちゃくちゃです。

ただ、結果的には分量を思い切って1/3にしたというところが成功の秘訣だったような気がします。

スポンジの状態が、これまでオーブンで作ったことのあるものと比較しても、市販のケーキと比較しても、かなりいい状態に焼けました。もっとも、まぐれかもしれないので、近々もう一度挑戦してみます。(今度はいちごで!)

ご注意)!!!トースターはせいぜいピザトーストぐらいの高さしか想定していないので、背が高いものを入れるとたいへん危険です。ましてやクッキングペーパーのような燃えやすいものは不可です。本ブログの料理記事を試される場合は、科学的な常識に従い、各人の責任においてお試しください。よろしくお願いいたします。!!!

2008-12-21

粉もの屋の新たなる挑戦、ケーキをトースターで焼く。

ケーキを焼くにはオーブンが必要だ。オーブンは欧米の家庭風景には必ず登場するものであって、クリスマスチキンなんかが具合よく焼けたり、ピザが焼けたり、バターロールが焼けたりする。そして、そのオーブンのかなりの割合を、ガスオーブンが占めているのではないかと思う。

日本でも昔は、欧米のホームドラマに出てくるようなビルトインのオーブンの代わりに、「天火」というものがあった。これは金属のハコに小さな窓と温度計を取り付けてあるもので、ガス台の上に載せて使う。母がよく使っていた。温度調節などは完全に手動だから、温度が下がるから滅多に開けてはいけないと言われる割にはさして中が見えない窓をたまに覗くか、あとは臭いが頼りといった感じもなくはなかった。──おそらく、こんな記憶をお持ちの方も多いのではないでしょうか。

あの「天火」、今日本で買おうと思ってもなかなか見つからない。イギリスへ行った人の話だと、ロンドンあたりでは使っている人も多く、売ってもいるそうである。ただのハコでガスの規格とは関係ないのだから、輸入すればいいじゃないか、と思うが、熱されたオーブンが発する輻射熱というのが問題らしい。

一時期、カセットコンロが、鉄板の輻射熱で爆発する事件が起こって、報道でもよく注意を呼びかけていたが、これは炭火焼きでもそうで、焼ける食べ物のほうにばかり気を取られていると、下側へ逃げる熱のことを忘れてしまう。ちなみに、そんなわけで、下側に水を張って家で炭火焼きを楽しもうという商品がヒットしたりもした。

今日本で手に入る天火は、コールマンともう一社、いずれもアウトドアの製品である。これはまさに昔の天火であり、さらに畳んで収納もできるというアウトドアらしいつくり。ところがコールマンに問い合わせたところ、家庭用ガスコンロの上で使うものではなく、専用のアウトドア用のガス台で使用を、とのこと。

しかしねえ、クリスマスの時期って、かなりの専門店でもケーキがまずい。ですので、オーブンがないけど、なんとかケーキを作りたい。

そこでまたもトースターの登場と相成ったのである。(つづく)

ColemanオーブンII 170-7097
Coleman(コールマン)
amazonの該当ページへ


ご注意)!!!トースターはせいぜいピザトーストぐらいの高さしか想定していないので、背が高いものを入れるとたいへん危険です。ましてやクッキングペーパーのような燃えやすいものは不可です。本ブログの料理記事を試される場合は、科学的な常識に従い、各人の責任においてお試しください。よろしくお願いいたします。!!!

2008-12-19

「脳単」で、「そこ」をばしっとスッキリ。

脳単—ギリシャ語・ラテン語 (語源から覚える解剖学英単語集 (脳・神経編))
原島 広至,河合 良訓
エヌ・ティー・エス
amazonへ

とある方から教えていただいたこの本、おもしろいんです。前頭葉を英語にすると?……なんて、なかなかつぶしがきかない領域ではないかと思います。

以前から、特に子供や中高生などは、何か自分が強いジャンルやとても興味があるテーマについて掘り下げるなかで、英語と出逢うというほうが自然だし、効率がいいように思っていたのだが、そういうふうにも使える一冊。

脳のここがどうなってこうなって、といくつも脳をスキャンしたようなイラストの断片を見ながら、日本語と英語とその意味とを読んでいく。脳についての知識を得ながら、それがもともと外来語から来ている、といったところも同時に学んでしまえるというわけです。

しかも、肉単、骨単、といったシリーズ展開なんだそうです。残念ながらamazonでは現在、新刊は売り切れ。しかし中古がいくつか出されているようです。

2008-12-18

複雑系は何系?


渋谷で研究についてトークをしていて、そのように訊かれたと言っていたのは池上高志先生である(その時の模様はこちら)。ところで、先日家人が、「文系の反対は……体育会系」という趣旨のことを会話に織り交ぜたので、私はそれを発見してほんとうに驚いてしまった。いやあほんとにいろんな考えがあるもんですよねえ。

文系の反対が体育会系などという発想がいったいどこから生まれてくるんだろう、と考えたのだが、どうも高校なんかのクラブやサークルのイメージらしい。本人は吹奏楽部なので、本人としては「文系だけど体育系も入っている」部活だと考えているそうである。

そうなると複雑系は何系というのも──その時は、もう単純におもしろいジョークだと私は受け取ったのだけれど──案外シリアスな話なのだと気がついたわけである。つまり、理系というのは、少なくとも何らかの専門的なスキルが客観的にあるわけであって、むしろはっきりと系と呼んで他と区別できるカテゴリーだろうと思うのだが、これをとりあえずないことにしてしまうと、それ以外のところにはいくらでもいろんな「系」を思い思いに振り当てたって全然構わない。それはつまり感性の問題だから。

そういうのがいわゆる「系」なんだよ、ということになってからやおら理系というものを思い出して、これはいったい何系だったっけ、というわけで、もっと言えばくえない系に見えるらしいというのも状況としてはありそうである。そういう「内輪」が多勢ということなのだろうか。

「系っていうのは、システムのことだよ」
とリョーシカは言ってましたが。

2008-12-17

科学と小説について

なんだか今回もどでかいテーマで恐縮ですが、最後には本の紹介へ辿り着く予定ですので、よろしかったらおつきあいくださいませ。

ライターという仕事は、英語ではwriterというのは作家のことであったりもするわけだが、日本語では(というか日本ではというかどちらがふさわしいかわからないが、ともかく)書くことが仕事ではあるけれども作家ではない、つまり小説家ではない人のことを指す。

ライターは、実は、将来的には小説家になりたいんだろうと思われているが、それは往往にして本当であったりもする。すばらしいノンフィクションの書き手が小説家になってしまうことはよくあるし、それはよかったりもするし、そうでなかったりもする。そうこう言う自分だって、書けるなら、小説家になりたい。未然の事項であるから憧れだとも言えるだろう。

なぜ小説が王様なのかというと、書くことが一次的だからである。小説より以前に事実はない。それがフィクションということだろう。だから書く人は、書くならばフィクションを書きたいのだ、ろうと思う。

さて、科学について書くということは、どうしても二次的になる。広告で言えば、商品あってのコピー(広告文)であるのと同様で、科学の考えがあって、それを言葉にするのが「科学について書く」ということに他ならない。もっとも、もともとの科学の考えが十分言葉になっているとは限らないし、科学に限らずたとえば音楽について書くような場合はどうなのか、と考えると一次的という言い方は必ずしも適切ではないかもしれない。つまり体験として最初に来るもの、ということが言いたかったのである。

しかし、もし、これが科学と広告でなく、科学と小説だったらどうなるのか。

いやまあ、これはほんとうに手に負えなくなるのである。さっき簡単に言ってしまったこともすぐさま、では「再現」という問題はどうするのか、とかいろいろ困るではないですか。

そこで『瀬名秀明ロボット学論集』は、そんな科学と小説をめぐる展望が得られる絶好の機会だと思う。ちなみにこれを少し読むだに、私がいかに小説を書けるというところから遠い地点にいるか、ということも痛切に理解できたのであった。

瀬名秀明ロボット学論集
瀬名秀明
勁草書房

amazonの詳細へ

2008-12-16

「私は科学者ではありません」

他でも言ってることですが、私は科学者ではありません。だけど本物のサイエンティストが快く時間をさいて、専門的な知識を教えてくれたので、この本はできあがったのです。
──ニコラ・モーガン『BLAME MY BRAIN』(2005)より


上の引用は、その冒頭にあるまえがきのようなところに書かれている一文。ポピュラー・サイエンスというか、この本のようにエディケーショナルなものとかのまえがきによく見かける一節だ。しかもそのようなものなかでも最も直截で、感じのいい書き方だと思う。「他でも言ってることですが、」というのは、この人は数十冊の本を出しているとのことなので、無理からぬことと言えよう。

そこでこの本からは離れて、よくよく考えてみると、科学者が時間をさいて専門知識を快く教えてくれるのは、簡単にそういうものだからいいのだ、ということなのだろうか? 最近になって少しわかってきたのだが、科学者の中にはおよそ気前よく、その知見を分けて、教えてくれる人がある。たぶん、研究への情熱が大きい人ほどそうだし、また情熱が大きい人ほど実際の功績も大きいことが多いという事情があって、優れたノンフィクションが日の目を見るわけである。

私がギモンに思うのは、これだとどうも収支が合わない感じがしてしまう点だ。つまり科学者はいつも払うばかりで、一般向けに書く人というのはいつももらうばかりでは、私はたいへんな負債を積み上げてしまう。

そこでひとつには共著という考え方だ。書いてあることが誰の考えかという点で、科学者でない者よりも科学者の考えが載っているほうがいい。もちろん話を聞いて納得したものを書くわけだけれども、もともとといえば科学者の考えにほかならない。だが、それが世の中に対してどのような意味を持つか、あるいはその考えのどの点に世の中は興味を示すだろうか、といったことは、私、つまり一般向けに書く人の仕事である。

この一般向けに書くことに特化し、専門化した分野が広告であり、コピーライターである。たとえば、科学ならいいけれどもこれが技術に寄ってくると、多少宣伝めいてしまうといったことも起こる可能性があるので、見極めが必要だ。

2008-12-14

ドーナツ、残9個の分け合い方。

はらドーナッツ、チョコ
はらドーナッツへ、夫とコドモが行ったらしい。あと9個という時間だったそうだ。はらドーナッツはドーナッツがなくなったら営業終了ということになっていて、6時とか7時にはだいたい終わってしまう。

夫とコドモの後ろに、2組いたそうだ。5個買うと、残りは4つ。次のおばさんは、その後ろで待っているカップルに「2つでいい?」と訊ねて、2つずつ買って行ったそうである。
はらドーナッツ

2008-12-13

どんどんお乗りください、というエレベータ。

今日は、エレベータと、科学者の観察癖の話。エレベータとセレンディピティーと言いたいところだけれども、それじゃあのっけからトホホになってしまいそうなので、自粛することにした。

少し前に量子の研究者がやってきたときに、雑談になって
「そういえばここのエレベータ、どんどんお乗りください、って言う?」

──エレベータが、そんなこと言いますか?

と訊いたら、いや確かに言われたというのである。リョーシカは、「言うかも知れない」と言ったあとで「いや一度も聞いたことはない」と言った。「聞いたことはないけれども、そういう状況に遭ったことがなかったのかもしれない」と。

──そういう状況って何ですか?

「人にどんどん乗って欲しい状況。たくさんの階でボタンが押されているとか……」とリョーシカ。

それにしても「どんどんお乗りください」っていう音声を用意するものかなあ、と私はしばらく疑問に思っていた。そうは思うけれども「確かに言った」と科学者が言うのだから、ちょっとやそっとでは彼が間違っている可能性などないだろうとも思われたのである。

それから約4ヵ月ぐらいたった先日、そうなのだ、私は聞いたのだ、「どんどんお乗りください」を。そして突然気がついたのだ──もしこのことをあらかじめきいていなかったら、私はやっぱり「エレベータがどんどんお乗りくださいと言う」ということを見逃し、聞き逃していただろうなと。

一方で、彼ら科学者は往往にして気付くのだ。ひとりは実際に聞いたのだし、リョーシカは自分で断言したとおり、きっと本当に彼女がいるときにエレベータはそう言わなかったのに違いない。

「聞いたよ」と言いに行ったら、リョーシカは言った。「私もその後何回か聞いたよ」

2008-12-11

1%に満たない科学の成分。

このブログを始める時は、サイエンス・コミュニケーションについて、とても書きたいことが溜まっていて、サイエンスのレクチャーを運営している人にお話を聞いたりしてサイエンス・カフェのあり方にも関心を持っていた。今ももちろんあるのだけれども、気分的にはかなり変化をしてもいる。

たぶん、ブログを書く人には、有名無名にかかわらず、自分の行動をおっかけ、自分で応援したり記録したりするものとしてブログを書く人と、インターネット上にとにかくブログというごくささやかな媒体をつくって、そこに何か、自分がわかったこと、これなら書けるだろうことを書いていく人といて、自分はおそらく後者なのである。語弊はあるけれども、私にとって書くことは常に一次的なものであって、二次的、副次的なものにはなりにくいのだ。

ブログを書くということ──それがいかにしょぼい作業か──ということは、すでに何年かブログを書いてきてわかっていたので、別にアクセス数の浮き沈みなどで書こうとか伝えたいとかいう熱意が減ったりはしないのだけれども、やはりブログにできる規模に見合った話題というのが肝要である。ふしぎなことに、広告の仕事だけをやっていた頃には自分がメーカーではないために少しでも多く売るというところへ力点が行ってしまっていたためか、今あらためて気付いているのだが、何事も市場規模に見合っていることが、最も伝達効率がよい。よく“化ける”というが、万が一化けても、問題なのは、新しい市場規模に合っていないことよりも生産が追いつくかであることのほうがずっと多い。たぶんそれはブログを書いてきて学んだことのひとつで、横道に逸れるがこういう体験がタダでできるというのは、これはやっぱりすばらしいことだ。

そういう次第で、要するに当初の気負いは減ってきたというわけなんだけれども、それはつまり、ブログというのは、自分にできることをできる規模で進めなければ到底、続かないということでもある。そうなってみて振り返ると、しかし、自分の生活の中にある科学の要素というのは、たとえば当初50%50%ぐらいだと思っていたのが、へたすると1%未満というようなことにもなりかねない、なんてしょぼい清涼飲料水の果汁のようなものなのか、とも思えてきた。もちろん私が言っているのは、科学に関係あればカウントするというのではなくて、とっても科学らしいこと、科学のエッセンスが含まれていることとなると、という意味である。たとえばちょうど今、1月に出る科学の本の校正をしているのだけれども、これとて科学について書いてあるから科学なんだとはとても言えなくて、ほとんどが校正という作業に他ならない。

だが悪いことばかりではない。日常のちょっとしたこと、たとえば科学者のちょっとした態度などに、うまく科学のしっぽがつかまりそうに思うことも最近は増えてきている。ただ惜しいかな、すぐに書き留めないと、さっさと忘れてしまう。まだまだ、訓練が足りないらしいのである。

2008-12-10

モーガンさんのたのしい脳

『月曜日は赤』
ニコラ・モーガン
東京創元社
amazonの詳細へ

私はぜんぜん読書家ではないので、こういう読書話は非常に気が引けるのでありますが、図書館で「岩波ジュニア新書」の棚になぜか差し込まれていた『月曜日は赤』をめぐる話を少々。

原題はMondays are red. 。そこで思い出したのがBorn on a blue dayという本(邦題は『ぼくには数字が風景に見える』)。Born on a blue dayは、映画『レインマン』で広く知られるようになったサヴァン症候群と、アスペルガー症候群を持つ著者のノンフィクションなのですが、Mondays are redは、病気ではない「共感覚」というものが幻想の源泉になっているフィクション。

作者は、Nicola Morganさんという方で、この名前、どうも目に覚えがあると思ったら、機関車トーマス本などを書いているイギリスの方。脳についての本を2冊書かれており、これに関連したサイトが開設されている。teen向けを意識していることもあり、入門しやすい。

NICOLA MORGAN'S BRAIN PAGES
http://www.nicolamorgan.co.uk/talkaboutbrains/default.php

2008-12-08

メトロポスター12月は「家でやろう。」


東京メトロの駅には、2008年の4月から、イラストと「○○でやろう。」というキャッチコピー貼りのマナー広告が掲示されていて、月替わりで新しいものに張り替えられるシリーズ広告ともなっている。

そこで科学と広告のブログでもこのメトロ広告を時々とりあげていて、2008年11月04日にはこれらをまとめて、「メトロマナーポスターは「家でやろう。」から始まった。 」というのを書いたのだったが、まさかこの時、12月バージョンが「家でやろう。」になるとは思わなかった。ストーリー的には納得のいく展開だし、もちろん訴求したい内容あっての広告であるわけだからそれが伝わることが第一義であるし、一文字の言葉が品切れということだってあり得るわけだけれども、それでもイラストとの組み合わせという意味ではまだまだ可能性があるし、大局的に言えば、1年足らずで同じ案を使うのは惜しい。使い古してしまう。拙断だが、意外と若い方が作っているのだと感じた。

2008-12-06

異常気象とセレンディピティー

そういえば昨日は、やけに生暖かい日和かと思ったら、夕方に雷が鳴り、短時間とはいえ集中豪雨もあって、かなり変わった天気だったようだ。今朝の朝日新聞には、1面に、雷が空を貫いて走っている写真が掲載されていた。

私はといえばこのところ風邪気味なのかやたらと寒気がするので、窓の外の風の音をきいただけでダウンのコートを着て行ってしまい、午後からさすがに汗が流れてくる始末。

3時ごろになると科学者のひとりが突然席をたって、3時半なのにこんなに暗いのはおかしい、と言い始めた。その場には2、3日前に東京に着いたばかりのビジターしかいなかったので特段興味を示さず、そのままになった。

4時半に別の数学者がやってきて、出かけようとしていた私に「雷雨ですよ」と早口に様子を語るので、まさか、と外を見ると路面が真っ黒に塗れている。ユーレーさえ出そうな街の風景である。

というわけで今朝になって、ああ、あのやたらと気象について語っていたふたりの科学者は、本来は当たり障りのない天気の話を、あいさつ以上の熱意と饒舌さで、「気分で」語っていたわけじゃなく、「おかしい」と本気で感じ取っていたということがわかったわけである。

おふたりは別に気象が専門というわけでもないのに、少なくとも私よりは、気象についての観察が常日頃細かいということが、これでわかる。

しかし、朝日新聞が掲載してくれていたからいいけれど、それが目に留まらなかったら、科学者がおかしいと言っていたということは、私の記憶から消えてしまったかもしれない。そう思うと本当はこういうサンプルが日常生活にはごろごろしているような気もするのである。

Firefoxが更新版をリリース

先日Safariのアップデートが表示されていると思ったら、Firefoxが自動的に更新になって、立ちあがってみたらすっかりSafariみたいなブラウザウィンドウいなっていた。

いやあ、こんなことなら、これまでの表示をキャプチャしておくんだった。こんなに大きな改訂とは知りませんでした。やや古いものになりますが、以前のバージョンはこんな感じだった↓

科学と広告のブログfirefoxキャプチャ

メインのフォントは以前はもうすこし余白のある、角の丸いものにしたつもりだったんですが、更新後はかなり角のふくらんだ、余白の少ないフォントで表示されます。

そういえばGoogle Street Viewも操作が変わりましたね。使い方ビデオがアップされています。私はその時たまたま京都の町に迷い込んでいたのですが、Street Viewの青いラインがないところへ飛び降りてしまうと、うんともすんともしないのでビデオを見て操作を確認する羽目に、というなりゆきでした。(青いラインのあるところへ降りれば大丈夫)

2008-12-05

ユニコーンと架空のオカピ

昔ユニコーンという動物を知って、なんと素敵な動物だと思った人は少なくないだろう。手塚治虫の「ユニコ」の影響もきっと大きい。こんなにありありと描かれているものが想像上の動物だと聞いてもなかなか納得しずらく、何らか「秘境」へ行けば、いるような気がしてしまう。その後「龍」というものもそうだと聞いた時も、では「画竜点睛」はどうなるんだろうと思ったり、一方「タツノオトシゴ」というのは実際に映像なんかも見られるところをみるとあっちは実際の生き物なんだ、と思ったりした。(どっちかって言うと、こちらのほうがおもちゃみたいだけど)

全部ではなくても、似たような記憶を持っている方も多いのではないだろうか。

動物図鑑には必ず、絶滅してしまった過去の動物たち、特に鳥類や哺乳類が見開きで紹介されているページがあるものだ。いまはそれほど呑気なことは言っていられなくてRED BOOKではあと2,000匹、3,000羽を割るような個体数(そのうち半数が動物園)といった種がたくさんあって、そのうちどれがすぐに絶滅してしまうかわかったものではない。多くの専門家が指摘しているように個体数がある数以下になってしまうと、元へ戻すのは難しい。

ではどれだけの哺乳類や鳥類がこれまで絶滅してきたのか、というか、現在までは生き延びなかった種で、人類が目撃したものにはどんなものがあったのだろうか、と考えると、これが案外いろんなバリエーションの生き物がいたとも考えられていて、びっくりする。稀少動物で世界三大珍獣の一つであるオカピがよく俗に「しまうまとキリンを足して2で割ったような動物」と言われるが、現代の限られた種類しか知らない私たちにはそんなふうに見えるもののオンパレードだ。

そうなるとどこまでが人間の想像上の動物で、どこまでが元々目撃したものの古い記憶なのかは、意外と判然としにくいもののような気もする。理想の島とか理想の社会とかと違って、今はない動物や鳥たちは、失われたことを記憶のとどめるために、架空に現れたようにも思えるのである。

2008-12-04

動物さんが演奏していると考える脳

ズーラシアンブラス園内演奏
ズーラシアンブラスという楽団があるのをご存知でしょうか? これはよこはま動物園ズーラシアという横浜市の内陸部にある動物園のマスコットキャラクター楽団なのですが……そこでああそう、こども向けのアトラクションね、と想像されるようなレベルの演奏力ではなくて、ソリストとして一流の主にクラシックの演奏家を集めて、オカピ、インドライオン、スマトラトラ、ドゥクラングール、マレーバク、ホッキョクグマといったズーラシアの稀少動物として(頭が動物になっている)出演・演奏してもらうという趣向になっている。

現在は首都圏だけでなく地方の音楽ホールでの公演も多く、すっかり動物園から出た感があるズーラシアンブラスだが、園内演奏と言って、ズーラシアンの中の出口ゲート付近にあるイベントスペースでも毎月公演を行っている。

このズーラシアンブラスについては私の音楽ブログ「響けブログ」に書いているので、詳しくはそちらをご覧ください。

で、今回、ちょっと注目したいのは、このズーラシアンブラスの園内演奏におけるこどもたちのリアクションである。

こどもたちはその演奏会に遭遇するまでに、動物園のなんとも長い順路を経てやってくる。いずれのルートでも何らかの動物を複数見てからでなくては、そのイベントスペースへは辿り着かない。入口ゲート付近にいるアジアのインドライオン、スマトラトラ、ドゥクラングール、マレーバクはおそらく見ているはずだし、ズーラシア目玉の稀少動物・オカピはさすがに奥まったところにいるが、以前行った時、さすがに盛況であった。

こどもたちは、そうやって動物を目撃していながら(印象ではかなり大きいこどもまでもれなく)この演奏家たちを動物が演奏している、と思うのである。

さっき見た檻(最近はあまり目立った檻は作らないが)の中にいる動物と、見た目がぜんぜん違うことは、さすがにこどもだって明らかであろう。だからおそらく、彼らはさっさと「見立て」るのである。これはつまり絵本モードの動物さんだというふうに。このすばやさが、改めて考えるとかなり知的に高度な気がする。見ていると時々音楽に長けたこどもが、これはいくらなんでもおかしい、と思い始めて周りの大人に質問を始めるという具合である。だが考えてみればこれも不思議で、動物に音楽的に高度なことができるはずがないと思うのだろうか、それとも人間と同じ感性の音楽を奏でるのがへんだと思うのだろうか。

いやはや。だんだんトホホになってきたので、気になりつつ、また別の機会といたします。

隣人としての理系

観覧車の顔

(前回のつづき)
「ずっと前からさ、隣に住んでるのにひどいじゃないか」と、しかし、理系はあんまり言わない。むしろ「科学的整合性というもの」がわからないのだからしかたがないな、と思う人のほうが多い。さらにその内容についてもちゃんと説明しようとしてくれる隣人が多い。

ただ実は理系にも盲点がある。科学技術に関心がない人、科学的整合性にこだわらない人は、世の中大多数なのである。なぜそんなにもたくさんいるのに、それまで気づかないのか、というところがヘンだと思いませんか?

この理由として私が思い当たるのは、まず第一にフォーカスしているものが違うということだ。たとえば科学的整合性を見ているときに、会議に出ている他の人が「ランチに何を食べようか」と考えているかもしれないことは、思いも寄らないだろう。では何にフォーカスするかといえば、語弊はあると思うけれども、簡単に言ってしまえば、解けそうな問題である。それによって科学的な世界が一歩進むことができるようなところへフォーカスしたいわけだ。すると一般にあきらかに、いかにも解けそうもない問題は、日常的にどんどん視野から外れていく運命にある。

したがって、私たち大多数そのものが、理系にとって解けない問題なのかといえば、たぶんその類なのである。でもだからといって早合点してはいけないのは、彼等は何も感じないのかといえばそんなことはあるはずない、という点である。興味がないだけで、それは社会性とは別の話題だ。それに理系だって結局は気付いているのだ、大多数が科学的に考えないし、ほとんど無視してるんだな、ということに。なんだかんだ言って、むしろ、およそのところはわかっているように私は思う。つまり文系の文系たるところは混沌としているけれども、混沌としていることをよしとするなら、だいたいこんなとこなんだろうね、というふうに。

そこへ行くと私たち大多数は、理系が持っているいろんなツールを持っていないし、使い方もわからないし、その当たり前な正しい世界をうまくイメージできない。理系の理系たる中味については、おまかせっきり、というわけである。しかしここでも理系はそれを独占して「あげないよ」と言ってるわけではなく、それどころか「みんなのもの」だからどんどんやってください、と思っている人のほうが多い。

とはいえ、「科学者」ならばともかく、「理系」と括ってしまうと、私にはどうも血液型判定とか兄弟姉妹の性格特性みたいな話にも思えてしまう。理系の中にもおそろしく幅があるし、「日本の理系は」という話なのか、世界じゅうそうなのかという問題もある。そのようにいろいろ難しいので、今回でおしまいにしようと思います。

2008-12-03

文系・理系の間に川は流れる?

観覧車

文系理系という区分は、私にはあまり対称性が感じられない。理系はこういうものだ、という話ならできるかもしれないが、だがそもそも、私は理系ではない。どう考えても、これはあまのじゃくなことになりそうだ。

しかし理系と文系(というものがあるとして)の間に橋がかからなければ、結論から言って、人間というのは困るんじゃないかと思う。たとえば昨日まで隣に暮らしていた外国人のなんとかさんの祖国と、今日から国交断絶なんてことになったらやっぱり居心地悪いことになる。そうなると私の周りにはそんな外国人はいないからいいんだというのは偏狭で、きっと誰かがお隣りさんなんだろうなってことはコドモにだってわかる。

というわけで、前回引用した東野圭吾『さいえんす?』(角川文庫)を読みながら、隣人としての理系、についてちょっと考えてみよう。

この世界、つまり文系の世界に入って痛感したのは、科学技術について関心を持っているのは、世間のごく一部にすぎなかったということだ。無関心などというレベルではない。全く無知といっていいほどだ。
──東野圭吾『さいえんす?』(角川文庫)より

無関心は最大の敵というやつである。科学技術というものの恩恵は受けていても、その重要性を認めなければ、必然、科学技術を担う人も重要視されない。めんどくさいことは誰かがやってくれている、という感覚になるのが轍である。これはかなり技術寄りの話だけれども、いきおい、科学だってそうなる。

科学的整合性というものについて、ほかの人は自分ほどこだわらないのだな、と思ったのはこの時だけではない。
──東野圭吾『さいえんす?』(角川文庫)より

リアリティは、科学的にあり得る、正しいことの中にある。当たり前である。それが世界である。──「ですよね?」と理系が言う。「ええ」と文系が言う。そういいながら文系は続ける……「いや、そうは言ってもね、」というように。

たぶん理系にしてみれば、なかったことにしようとしてるな、と思うだろう。(確かにそうなんだけど。)(つづく)

2008-12-02

無関心につけるクスリはないもので。

さいえんす? (角川文庫)
東野 圭吾
amazonの詳細へ

コピーライターが絶対言ってはいけないことのひとつだ「無関心につけるクスリはない」なんて。直ちにコピーライター失格です。だから正しくは「無関心ほど恐ろしいものはない」となる。つまり目に留まらない広告はないも同然という鉄則である。これでやっと広告の話ができる。

サイエンスを広報とか広告とかしようとすると、潜在的読者といかに接点をつくるのかというのが、いつも難問になる。

問題が解けないのは、自分の頭が悪いからに違いない。そこで、東野圭吾著『さいえんす?』(角川文庫)を読んだ。さて工学部出身の著者は、作家になってたいへん驚いたことがあるそうである。若干引用する。

この世界、つまり文系の世界に入って痛感したのは、科学技術について関心を持っているのは、世間のごく一部にすぎなかったということだ。無関心などというレベルではない。全く無知といっていいほどだ。

科学的整合性というものについて、ほかの人は自分ほどこだわらないのだな、と思ったのはこの時だけではない。

──いずれも、東野圭吾『さいえんす?』(角川文庫)より


この驚き、戸惑いは、及ばずながら私にもよくわかる。そしてこのあたりの事情を上手く伝えるのはとても難しいと感じている。

しかし奥付を見ると、この本はすでに11版を数えている、つまり売れている、読まれているということだ。当代随一ともいえるベストセラー作家は、科学技術について無知な多くのひとに、「さいえんす?」のクスリをつけてくれていたのであった。

2008-12-01

人口ピラミッドと想定読者

日本の人口年齢別比率
先日科学者の先生が、中学生が読めるような本を目指したいといった趣旨のことを話された。本をつくるときにはだいたいこのくらいの人が読んでわかるようにつくろうというラインを考えるのがふつうであり、新聞を読む一般読者というように表現することもある。この場合は科学の本なので、中学校の理科や数学で習うぐらいの基礎知識があれば、ということを言われたわけである。

ちょっと気になったので、あらためて人口ピラミッドを調べてみた。
ネット上にたいへん便利というかずばりな統計資料がある。

国立社会保障・人口問題研究所「人口ピラミッド」
http://www.ipss.go.jp/site-ad/TopPageData/Pyramid_a.html


上記のURLでは、1930年から2050年(2010年から推定)の人口ピラミッドを見ることができる。各年の図版のダウンロードも可能。

視覚的にはわかりやすいが数字になっているほうが操作しやすい。そこで以下から国勢調査(平成17年)の統計表がダウンロードできた。

政府統計の総合窓口
http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?bid=000001007609&cycode=0


この数字をざっくりまとめたのが上掲の円グラフ。日本がもし10人の村だったら、20・30代が3人、40・50代が3人、60代以上の老人が3人、中高生が1人という具合である。

このような現実と併せて考えると、中学生が読めるという内容が、どのように読まれると考えるべきなのかは、なかなか微妙である。たとえば生徒につきものの「進路」という問題にしても、9人はすでに決まっていて、これから科学を志す可能性があるという人は1人しかいないのである。

2008-11-28

DOUTORのウィンター2008すてきな紙袋。


カフェは私が好きな場所なのでそこそこマメに行くわけなのですが、競争的な理由からか、もっと大きなトレンドなのかはわからないが、カフェの中の、サービスの内容を含めたちょっとしたことが、別々のチェーン店舗で同時期に起こるということがよくある。

スターバックスが紙ナプキンの使用を制限する方向に働いたな、と思ったら、(これをカフェと呼ぶかどうかは別にして)マクドナルドもそうなったし、というようなことだ。

今度はドトールのゆきだるま紙袋。バケツの部分がカップになっていて、ちいさくドトールと書いてある。ボタンはコーヒービーンズ。細部のこだわりは昨年のスターバックスとは違って、版画風ではなくアミ点だった。


こちらは昨年のスターバックスの紙袋。

2008-11-27

チャージと不足金額のふしぎな関係。


先日小田急線の新百合ヶ丘駅というところで降り、自分の駅からはその2つ前の駅までしか自販機で買えなかったので、精算機というものに並んだ。私はめずらしくPASMOを忘れたのである。

順番で前に並んでいたおじさんはSUICAだった。「210円」の残高不足だからチャージするように要求されているのだが、その人の周りには「?」が3つぐらい浮遊していた。そこで私に訊ねてきた。

見ると精算機は、不足金額は210円と表示している、おじさんは210円入れた。それなのに機械が動かない。機械は壊れているわけではないようである。ふしぎだなあ、どうなってるんだろう、というわけなのだ。

つまりこの場合には「不足金額の210円を支払うには、SUICAをチャージしてください」というところが、おじさんにはつながらないのである。パソコンを教えるときに「オブジェクトを選んでから、コマンドを選んでください」と10回言っても「コマンドがグレー表示になっていて選べない」という人がいるのとよく似ている。「チャージが先」「オブジェクトが先」というのがわからないのだ。もっともSUICA以外で払う方法が選べてもいいと思うけどね。

こういうのは誰が悪いとも言いにくく、たぶん私ではないし、プログラマーだって自分の持ち分をこなしたのだろうし、開発責任者はクライアントの指示に従って仕事したろうし、クライアントは指示できる範囲ではがんばったのかもしれないし、ましてや新百合ヶ丘の駅員の人たちはクライアントサイドだというだけで、悪いと言われても困るだろう。だからおじさんが怒ったりしなかったのは、かなり幸いだった。

「不足金額は210円なんですけど、先に1000円とか入れて、SUICAにチャージして、その中から210円を払うようにしないとだめなんだと思います」

ああ、なるほど、とおじさんはわかって、当たり前だが無事精算機は作動した。……ふう。

2008-11-26

イケアのAnnaに質問してみた。


イケアのショップへ行ったのだが、書棚などはあまりにも重かったので、インターネットで注文しようと思って帰ってきたのだが、どうもイケアのサイトで注文する方法がわからない。そこで「Annaに質問」してみた。

「Annaに質問」というのは、イケアのサイトにあるメニューで、FAQあるいは「お問い合せ」の別名なんだろうと漠然と思っていたのだが、使ってみたら全然別のシステムで、ほんとうに「Annaに質問」だった。画像のような画面が出て、スカイプでのチャットみたいに、その場で答えが得られるのである。

そうは言っても誰かとオンラインでつながっているわけではなくて、入力文字を解析して、適切な回答を組み合わせて表示しているだろうと思われる。先日のタラジロウさんの「Exite自動翻訳」をまた思い出してしまうが、こうなるとなんとなく、「Anna=機械にわかるように」書いてしまうところが、私もなかなか人間らしいところである。

さて、annaと私の一問一答は以下のとおり↓

rue: こんにちは
anna: こんにちは。イケアに関する質問があれば、どうぞわたしに聞いてください。

rue: クリスマスツリーは好きですか?
anna: 聞いて下さってありがとうございます。でもわたしは今イケアのために働いているので、それ以外のことには関心がありません。

rue: ダウンロードは時間がかかりますか?
anna: 何か質問をしようとされているのはわかりましたが、お答えするにはもう少し情報が必要です。もう一度、別の言い方で質問をお願いします。

rue: キッチンに新しいテーブルが必要です
anna: いまからキッチンキャビネット&設備機器のページを開きます。

rue: 赤はきらいなのですが
anna: ネガティヴな意見ですが、もしイケアに対してご不満がおありでしたら、お手数ですがどうぞ最寄のイケアストアにお申し出願います。

rue: もし壊れていたらどうしたらいいですか?
anna: イケアについてのことでしたらお役に立てますが、それ以外のことはお手伝いできないと思います。

rue: 組み立てに必要な工具を売っていますか?
anna: 多くの商品では、ドライバーが必要になります。電動ドリルやラバーハンマーなどがあればより作業は進めやすくなります。

rue: 力がなくても組み立てられますか?
anna: 申し訳ありませんが、その質問にはお答えできません。

rue: やかんを売っていますか?
anna: ただいま、ティーポット&コーヒーメーカーのページを開いています。

rue: 黄色いカーテンを探しています
anna: 色をお尋ねになっているのは、どちらの商品についてですか?シリーズ名と商品名を以下の例にならってお教えください。(例:BENNO CDタワー)

rue: ありがとうございました
anna: どういたしまして。他に何か質問があれば、どうぞお尋ねください。

ちなみにインターナショナルサイトで他の国のAnnaに質問してみたところ、国によって担当のAnnaさんも違うようだ。画像右はUnited KingdomのAnnaさん。

イケアストアでは椅子を購入。組み立ての模様はこちら↓
[響けブログ] 「イケアの家具を組み立てた。」

2008-11-25

ヒノデ・ファクトリー「水平線」展へ行った。

OPA gallery
本の表紙でお世話になっているタラジロウさんのグループ展へ行ってきました。それは「水平線」と題された展覧会で、久しぶりに青山界隈へ出かけたわけである。またたいへんな雨の日に行ってしまったんですよね。

展覧会の場所はかなりこじんまりとしたスペースで、作品もかなり小さいサイズで、一人一点という展開であったが、共通点は縦位置の画の横に一本、水平線のような線があるということで、これを辿って次々と絵を見ていこうという趣向である。つまりみんなこの展覧会のためにこの一点を描いたのである。中には手作りの小冊子を置いてあったり、ポストカードや掲載誌、名刺なんかを置いている人もいて、とても活発な感じがした。青山らしいという感じもした。

タラジロウさんは水平線ということに特別な思いがあるようだった。

タラジロウさんの平置き作品はカバーにカーペットのような緑のシートを巻いた「東京水平線」という絵本=小冊子で、モノレールと東京タワーが描いてあった。日本語に自動翻訳の英語がついているのも面白かった。連れて行ったコドモがとても欲しがってひきはがすのに苦労しました。

ヒノデ・ファクトリー

会期は明日まで!詳しくはこちらから↓
ヒノデ・ファクトリー
http://www.interq.or.jp/blue/tara/hf.html


場所は「小公園」の前にあるかわいいギャラリーです。
OPA gallery - shop
http://www.geocities.jp/opa_gs/


タラさんのホームページはこちら↓
日の出グラフ
http://www.interq.or.jp/blue/tara/

2008-11-23

はらドーナッツ、行列の傾向と対策


新宿、銀座のドーナツ屋さんの列は相変わらず、○時間待ち、という状態が続いているようだが、比較的近いところに「はらドーナッツ」というお店ができて、こちらもいい具合に毎日混んでいます。若い女性3人組の店員さんは、ほとんどポリリズムを見ているようなてきぱきとしたワーキング姿が印象的で、並ぶといってもせいぜい10人待ちぐらいだし、なにしろてきぱき進んでいくので、気持ちがいいのです。

それでも待つのが苦手なウチの人々は、ドーナツを買いに行くのではなく、はらドーナッツに人が並んでなかったら買う、という戦略。

それにしても昨今痛感するのはドーナツの魅力で、新しいそんないくつかのお店のおかげで、実は多くの人々が(つまりおいしい)ドーナツを食べたかったんだ、でもってその列、列をみるにつけ、ほとんどドーナツ飢餓状態だったのではないかとさえ思えるわけで、ドーナツっていうのは、ああそんなにも魅力ある食べ物だったんだなあと不思議な気持ちです。

2008-11-22

英語本がさかんになるという予測。



土井英司さんのエリエス出版戦略セミナー年末特別のセミナーの案内を読んでいたら、土井さんが2007年の年末に、今年の「英語本ブーム」を予測していたことが書かれていた。その予想へまるで年内に駆け込もうかというように、英語本と言える水村早苗という方の新刊が今アマゾンで特別に売り上げているそうである。この本について書いたブログなども活発で、また新しいベストセラーの流れをつくりそうな勢いを感じさせる。

ところで現実から離れて、なんか遠い未来に、日本語がどうなっているかなあと思うと──その時は私なんかも、もう死んでしまって、自分のひ孫だって生きていないかも知れなくて、というような未来だ──、「木で鼻をくくった」とか「雨後のたけのこ」とかが、案外しぶとく生き残っているんじゃないか、という気が私はする。今はむしろ古くさいような言い回しというか、歌い方で言えば節回しみたいなもの。

というのも、だいたい英語でも日本語でもたいした違いがないものとか、あっても日本人にしかわからないようなものは、淘汰されてしまう可能性がある。残るのは、人間に共通に、なんかこれはきっと重要だ、と思わせる何かに違いない。でもってコトバ相手だからなにが「重要」なのかは必ずしも定かではなく、「なんか気になる」というようないい加減なところで決まる「重要」であることは十分予想されるわけである。「なんか気になる」というのは、まあ「変わっている」ということでもあるんだけど。

2008-11-21

セレンディピティーとトホホ科学。

セレンディピティーと言えばこれ、という一番有名な人は誰だろうか?──と考えて、いまふとそういえばこれ、少し前までは「ユリイカ」の話として語られていたものに近いなあと思った。
つまり、時期によってコトバにかかるアテンションがぐっと伸びたりしぼんだりすることがあって、たとえば

能率的 → 効率的
カウンセリング → コーチング

という具合で、それぞれは元々別の意味だけれども、一般的にはほとんど混同して使われていて、なのにある時期をとってみると、どちらか一方のコトバが流通している──こういうことが意外と多いように私は感じます。以前こういうのをグーグルでサーチして見つかった件数にどのくらい開きがあるかというのをブログで記録していたが(コトバが目にしみる、というブログだったと思う)どこかへ行ってしまってわからなくなってしまった。

というわけで、余談が長くなってしまいました。

セレンディピティー、科学の分野ではペニシリンの発見などが有名かもしれません。要するに毎日そればっかり、非常に高い精度でやっているから、なんか違ったことが起きたときに、科学者は「何かの間違い」とは思わないのである。さらに、そのいつもと違うことが「もし正しいとしたら……」というところに想像力が働くのである。

こういう日常的な科学者の態度を「構えある心(the prepared mind)」というのだそうです(酒井 邦嘉『科学者という仕事』より)。

というわけで、さてここからがトホホ科学なんですが、この構えあるココロにどうも関係ありそうな(なさそうな!?)科学者にかなり共通の「習慣」(この「習慣」も最近すっかりアテンションの高いワードのひとつですが。)に、やや思い当たるふしがあるのです。たとえば──もし科学者の方がいらしたら、ぜひご自分に当てはまるかちょっと考えてみてください──実証癖。数字記憶のよさ。思いつきをすぐ実行に移すこと。まだ使わないけど回線を用意して開けておくこと……等々。

2008-11-19

Googleという巨大な意志について

東大和南公園

「Google Street ViewやGoogle Earthが好きだねえ」とよく夫に言われるのだが、それが本当に私はこれらが好きなのである。

Googleの真のすごさを一般の人にわかるように紹介してくれた『ウェブ進化論』の著者である梅田望夫氏が『ほぼ日刊イトイ新聞』で言っている。

Googleって、
「世界中の情報を整理し尽くす」
という理念において、それを続けるんですよ。
Googleアースの航空写真にしても、
半年で写真を取り替えるべきだということで、
Googleがチャーターした飛行機は
世界中を毎日飛んでるんです。


『ほぼ日刊イトイ新聞』「適切な大きさの問題さえ生まれれば。」その3(2008-11-17)より

「半年で写真を取り替えるべきだ」という点についてはいろいろな意見があるそうだが、ごくシンプルに考えると、空間と来たら時間なんじゃないだろうか。つまり整理の最新版ばかりではなく、2008年での整理、2058年での整理を考える、というわけである。

しかも整理には手際もあるから、その整理は少しずつ改良されていくに違いない。たとえば現在のGoogle Street Viewには、エラーという意味ではなく、データ間隔の理由などで絵が急に変わってしまって、つながりがわからない場合がある。おそらくそこだけトンネルになっているとか、高架になっているとかなのだが、もし道を走っていたら不自然に思わないのに、Google Street Viewだとなめらかに移行しないのだ。

また時系列といえば、クロールというものがすでに時間的な推移を示唆していて、アンチ定点観測的である。もし隣接するA地点とB地点を5時間も違う時刻に撮影したら、絵がつながらなくなってしまう。

こういったことを統合していくと、「最新」ということを少し犠牲にしてなだらかに空間をつないだり、「時系列」に厳密に空間を探訪したりといったことができるのではないか、と思うわけである。それは私が「期待」とかしたりしても仕方がなくて、まったくGoogleがそうするのかどうするのかということに過ぎない。

いくつか自分の関連記事があるので、よかったら併せてご覧ください。
2008-09-10
Google Street View で訪ねる 9/11の記憶


2008-09-11
画像収集車、グランド・ゼロをゆく


[響けブログ] 2008-10-07
2000年4月11日 ケネディ空港、出国ゲートへ。

2008-11-18

SF(サイエンス・フィクション)とは何だろうか?


自分でもびっくりするような大きなタイトルを掲げてしまったが、実は先日、川端裕人氏の講演会がご近所の図書館で開催され、行って参りました。その際、この「SFとは何だろうか?」ということが、なんだかとても、気になったのである。

実は、私が科学者を何人か知るようになって驚いたことのひとつは、科学者の中にはけっこうSciFi好きがいるということだ。しかしこれは(少なくとも英語圏では)当たり前で、サイエンス・フィクションの柱はサイエンスだからなのである。

自分にとってSFといえばどうしたわけかレイ・ブラッドベリじいさんばかりで、あとは星新一のショート・ショートを読みはしたけれどもそれはショート・ショートという形式について興味を持ったからで、SFを読みたいと思ったわけではなかった。ひょっとすると日本(語)ではサイエンス・フィクションの柱がサイエンスだということは、(英語圏に比べて)察知しにくいのではないか?(あるいは私の負け惜しみなんだろうか?)

さて、ここからふたつ飛躍するのだけれども、まずひとつめは「フィクション」というのを、さっぱりと「夢」と置き換える。サイエンスにとって夢とは何かと考えるのである。(もっともサイエンスにとって夢とは、どこまでもサイエンスだ、という気も、かなりする。だから「夢」というのは若干比喩である。)

そこでふたつめの飛躍は、科学(技術)というのは、人間がこれまで蓄積してきた能力や、実践してきた仕事や、潜在的な可能性を維持するためにあるのではないか、という仮定である。そうだとしたらどうなるのか、そうでないとしたらどうなるのか、ということを扱うのがSFなんじゃないだろうか?

動物園にできること (文春文庫)
川端 裕人
文藝春秋
amazonの詳細へ

2008-11-17

マトリョーシカ?


これはクリスマスオーナメントのエンジェルで、それが証拠にパッケージの中味をよく見ると、背中に金色の羽根がついています。毎年このように中味がチョコレートのオーナメントをいくつか買ってツリーにぶら下げて、クリスマスに食べるというのをコドモ向け行事としてやっているのですが、これはかなりマトリョーシカっぽいなあと思って買った今年用。チョコエッグというお菓子では食べると中からおもちゃが出てくるしかけですから、そういうふうに組み込んであったりすると、さらにマトリョーシカな雰囲気に。なわけないか。

2008-11-14

太陽は燃えているか?

今回の話はトホホ科学的にさえ、かなり基礎的なのだけれども、コトバの持つ具体的なイメージ喚起力に力負けする時……という話。

「宇宙には酸素がないのに、どうして太陽は燃えているんですか?」

だって「太陽が燃えている」という言い方はあるし、それにプロミネンスとかフレアは「炎」みたいだし、熱くて、赤くて、まったくもって太陽は「燃えて」いるではないか!──いや、そうではありませんよ。答えは核融合のおおがかりなやつ。酸素と化合する「燃焼」とは違うのでありました。

コトバを真に受けるといえば、そういえば学生さんの中に、スポーツのサプリメントで脂肪燃焼効果があるアミノ酸とやらを飲んで「ああ、燃えてる」「今燃えているのがわかる」という人がいた、という例が挙がった。
「わからないでしょ」
「もし燃えていても、わからないよね」
と科学者たちの意見は一致しているのだが、私からみるとこれなんかもやはり「燃える」というから、そこだけ妙にリアルになってしまうのだろうなと思う。挙げ句の果てに、燃えているのが「わかって」しまうのである。

「燃える」というのは、小さい頃の火災訓練から始まって、花火の導火部がメラメラと燃えていく様子、キャンプで火を起こそうというときなどに新聞紙の赤々と燃える様……といくつもの想い出が生きていて、そういったものはなかなか消火できない。そういった現象の記憶は科学にとっても大事なのだけれども、問題はコトバと強力に結びついてしまっていて、そのことがその先への想像力を妨げてもいるように思うのだ。そこでコトバに「燃えている」と言われてしまうと、自分の記憶のなかの「燃えている」ことになってしまう。

「太陽は燃えているか?」
いいえ、燃えていません。

2008-11-13

「トホホ科学」とは何か。

「トホホ科学」。いったん言い出したのだから、もう少し説明しておくべき、と思った。

日常の体験の中で、ここをなんとか科学的に知りたいなあ、というのがトホホ科学だ。トホホであっても知りたいというところが科学のココロである。

しかし「トホホ科学」にはふたつあって、一つは、先だっての「児童心理学」の話のように、ある問題を見つけてこれを科学的に考えるとこうかなあ、ああかなあとは考えるものの、科学的に考えるには問題が特定できていないとか、対象があいまいだとか、それを分析するツールの持ち合わせがないとか、そういう抜本的な理由で、要するに科学的に取り扱うことができない場合をいう。科学してわかりたいなあ、と思うけれどもできない。科学に辿り着かなくってトホホホホホ……という意味である。

もうひとつはれっきとして科学なんだけれども、専門外の人間には、どことなく滑稽に見える場合をいう。つまり、冥王星が太陽系の惑星なのかそうでないのかがなぜそんなに問題なのか、とか、メバルがシロ・クロ・アカに分かれるというのがどうしてそんなに問題なのか……。いや調べればもしかしたら、一見トホホでも、実は大問題なのかもしれない。だからここはほんとうはよく調べもせずにトホホというのはたいへん失礼なのであるが……、一見、それがどうかしたのか、と突っ込みたくなるような科学を、第一印象でトホホな科学と言ってしまうのである。

ふたつめのトホホな科学は、まず調べる機会があれば、理解したほうがよいと思う。しかし、そういうことをしなくても、そういう大多数の人間にはたいして問題ではないと考えるところを、非常にがんばって研究している人がいるということそのものが、なかなか興味深い。そういうのも含めて人類全体の営みであるからだ。そういう研究がほんとうに必要なのかどうかについて、専門外の人間が判断できることは少ない。しかし「トホホ科学」というかたちであっても関わって楽しめるといいなあ、と思っているのであります。

まだちっとも説明になっていないような、気はしているのでありますが。

2008-11-12

自転車カゴの女の子と児童心理学

今日の話は自転車カゴに乗っていた女の子の話。児童心理学のほうは、たとえば、ということで登場してもらう役です。

おとといバスに乗っていたら、その脇をおかあさんがママチャリを運転し、その前かごの座席には子供が乗っているのが、一陣の風のように、通り過ぎていった。その自転車が私の目に鮮やかだったのは、その女の子がもうかなり大きくて、たぶん小学校の中学年ぐらいで、無理に蹲ったカゴの中から、すこし茶色がかったつやつやした長い髪をなびかせていたからだ。

「ヘルメットをかぶっていないな」と私は思ったが、そこにはなぜか危険な信号は感じられなかった。(でも、ほんとうは被ったほうがいいと思うよ。)

彼女は私の乗っているバスの横を通り過ぎるとき、ちょっと笑った。笑ったというよりも、とても微妙な顔をした。まるで自分の顔にあたる風には、ひとすじ、またひとすじという具合に色がついていて、自由に色を選り分けられるみたいに。彼女はその架空のパレットから、パステルの色ばかりを選んで進んでいった。彼女のまわりには、そんな幸福感が満ちていた。

「おかあさんと出かけるのがひさしぶりで、おかあさんと一緒にいる、そのふつうが楽しいのだな」と私は思った。親が子供を幸せにするのは案外簡単なのだ。(……)

これは私にとって、とても印象的なことであった。ひとつには自転車カゴに乗った女の子の、その表情が。もうひとつは、それをよくもそれだけの情報で解読する私が。

ところがそこからもう一歩、理解を進めようとしても、たぶんどこへも進むことができない。まあ、進めるとしたら、取材だ。バスを降りて、取材だ。しかしそれはばかげている。というのはこの場合に取材というのがミスマッチだからで、もう少し別の方法があるはず、と思う。そんな時にぱっと、科学の出番で、たとえば「児童心理学」なるものに伺えば、教えてくれるんじゃないか、なんて思う。

だが、このようにして科学者に訊いてみても、たいがいうまくいかない。たいがいの人はそういう感じに科学に失望することに慣れてしまって、もう訊きにもいかない。たぶん質問を変えれば、有意義な答えを得られるだろう。だがそれで訊く人は納得するのだろうか? つまり、知りたかったことがわかった気がするのだろうか。──そんな場面が、私には多いような気がします。そこでトホホ科学なるものの出番もあるんじゃないか、と考えています。

2008-11-11

上野動物園の気になるルール。

東京都にある動物園のネットワーク「東京ズーネット(財団法人 東京動物園協会(上野動物園内))」が発行しているメールマガジン「ZooExpress」で、上野動物園が動物の赤ちゃんに名前をつけるルールを紹介していて、面白かった。

命名の「ルール」として、母親の名前から1文字とって、赤ちゃんの1文字目にあてます。たとえば、母親が「プラタナス」の場合、「タ」を取って、子どもは「ダイニュウ」など(濁点・半濁点の付加削除はOK)。
(「メールマガジン ZooExpress No.405 - 2008年11月04日」より)

そして、どのような名前にするかは、毎年ちがう「テーマ」を選んで、その中からつくるのだそう。して、2008年生まれのテーマは、なんと「数学用語」なんだそうです。

そこで今年生まれた赤ちゃんには「スウレツ」「セイゲン」「レイスウ」「トレミー」「ダイニュウ」「シメンタイ」という名前がつけられたという。

さらにこの赤ちゃんたちのうちメスについては、母親になったときにどの文字をコドモに与えるか決めておくのだそう。また1度使ったテーマは2回使わないということもルールに盛り込まれているといいます。なんだかとてもよくできているなあ、と思いました。トホホ的ですが、気になるルールです。

2008-11-10

トホホ科学のこと。

トホホ科学というのはリョーシ猫の用語で「トホホな科学」ということを指します。しかしながら新聞を眺めていたりして、なんだかトホホなニュースだなあと思うとどっこい科学の話題、しかもまじめにただそう言っているだけのことがニュースとして採り上げられているというケースが往々にしてあり、こういうのもトホホな科学なのかもしれない、と失礼なことを思ったりする。

少し前に、これまでめばると呼んでいた魚が実は3つの異なる種類に分類されますよ、というのも、そんなふうに気になったニュースのひとつだ。でもこれはトホホ科学ではありません。だけどなんとなく、トホホ科学のもうひとつのジャンルとして独立させたい、という気持ちにもなるのであった。

メバル、アカ・クロ・シロに独立(朝日)
http://www.asahi.com/science/update/1102/TKY200811020197.html

2008-11-09

ジャグラーと数学者の共通「脳」

今回の講演では、古典物理学をてっとり早く説明するために、ボールを用いた。会場へボールを投げて、その軌跡を見ようというものだ。リョーシカはこういう体験的で、ごちゃごちゃの説明なく行為そのものがすぐ効果を発揮するアイデアに優れている。

ジャグラーが使うような軟らかいものでもよいと言われていたのだが、結局ウレタンみたいなタイプのを2つ購入し、講演の前日に渡しに行くと、受け取ってすぐ片手でお手玉のように、2つの球を順繰りに回し始めた。──これって、そんなに簡単にできるものだっただろうか? と私はいぶかしく思ったのだが、私が球を取り返してやってみると、案の定すぐに取りこぼした。

講演の当日になって、舞台を見ていると、今度はキャパを意識してだろう、ずいぶん高く上げて回している。リョーシカ、もしかして、お手玉もお手の物?といぶかっていたのだが、よくよく考えてみればあのピーター・フランクルさんもそうではないかと気がついた。何がそうかと言えば、数学とジャグリングである、もちろん。

なんか共通の「部位」なんじゃないの? と、トホホ科学を捏造しながらも、もしかして、ひょとしてと思ったのが、フィードバック→フィードフォワードの情報処理の速さである。アドリブに強い人はみんなそうであるような気がする一方で、そのどこを数学に使うのかについてはかなり不明なのだが。

2008-11-08

数学は役に立つ学問でしょうか?

先日、リョーシカの講演会を見学した。その中に、物理を学んでどんなところに役に立つか、という話があった。これはよく「数学」で言われることでもある。「数学を勉強して社会へ出て何か役に立つのでしょうか?」

しかしこういう質問が出るということは、その人には生きていく様々なシーンで、数学が役に立つ場面がひとつも思い浮かばない、ということなのだろうか?

そういえば私が中学か高校の時にも数学の授業で同じ質問が出たことがあった。「みんなはどう思う?」と、先生が質問を教室へ投げ返す。私は、役立つどころか不可欠に決まっている、というようなことを答えたような気がする──「数があるところには数学があり、それを操作するところに数学がある。お金を預ける、利息がつく、全部数の操作じゃない?」と。自分のことなので遠慮なく悪口を言わせてもらえば、活用シーンはいくらでも思いつくが、数学のイメージははなはだ貧相というわけである。ま、「想像力」の点で五十歩百歩と言えよう。

だが当時の生徒たちの言い分は、要するに……数学を勉強するのはこんなにたいへんなのに、そのわりにはやった甲斐があるようには思えないよ、ということだったのだろう。確かにそれなら、ぐっとごもっともである。たとえば、大学を卒業してから「因数分解」が役に立つ場面に遭遇したという人はほとんどいないかもしれないではないか。

しかし数学のように、ある意味「万能」なツールを、社会へ出て使う機会がないということのほうがヘンなのではないか、と考えることもできる。無理に使おうというのではなくて、困っている人が抱えている問題を解決したり、いろんな現象を予測したり、といったことに有効に使うのである。

また物理は──リョーシカの言うように、数学というツールに、リアルな実体をつける。だからいっそう現実に活かせるツールとして活躍する可能性がある。

だがよく考えてみると、いくら活かせるよう準備したとしても、本当に活かせるかどうかは、またしても個々人の想像力にかかっている。一難去ってまた一難である。

2008-11-07

死んでからでも本は出る。という追悼。


昨日、外苑前のLIBROで、池田晶子さんが平積みになっていたのが目のふちに残像のように記録されていて、池田晶子さんが亡くなってしばらくたったというタイミングでなぜだろうな、と思っていたら、ごく最近『人生は愉快だ』という新刊が出版されたのだそうだ。その新聞広告のコピーが「死んでからでも本は出る」というのだった。

しかし哲学というのは、科学にとって、どうもうとましい親戚のようだ。

ところでLIBROは場所柄、アート&ファッション系の品揃えで、別の棚にあって殊に目を引いたのがこの小さな、しかも1,365円と安い画集だった。

「小さなロシア」 LA PICCOLA RUSSIA
ジャンルイジ・トッカフォンド
リトル・モア

amazonの詳細へ

2008-11-06

「はらドーナツ」行列は続いている。

吉祥寺にあるらしい「はらドーナツ」が阿佐ヶ谷にできて、連日人々が列をなして買い求めている。甘い物好きの夫がさっそく求めてきたが、これが予想を超えておいしかったので、なるほどと思った。ドーナツへのニーズはあるが、食べたいようなドーナツが不足していたのだ。

またドーナツといえば、私にはどうも家で作る物というイメージがあって、映画でも母役の小泉今日子がドーナツできたよと言ってもだれも2階から降りてこないというシーンがあるわけだが、家で作るドーナツというものが、そういう──つまり不人気な──ものになりつつあるのかもしれない。

それでもいったいどれだけの違いなのかを確かめようと、「はらドーナツ」の後で、凝りもせず作ってみた。いやあ、なんの共通点もない。よく知っているドーナツの味ではあったが、「はらドーナツ」が近所にあるのに、わざわざ作ることはないと思われた。自分で作ってよいことは、いかに砂糖またはその類似品が投入されているのかを知るよい機会であることぐらいだろう。一方「はらドーナツ」のほうは、まず投入する材料からして違うのだろう。

材料といえば、新橋にあるさぬきの地域物産紹介・物販のスポットで、うどん用の中力粉を売っており、ことうどんについては、この中力粉がたいへんうまくいく。こちらはいかにもうどんに具合のいい伸び具合というところへ、長い時間をかけて調整されてきたのであろう。家で打ってもおいしいものができるので、おすすめです。

2008-11-05

西新宿にオープンなカフェを見つけた。

西新宿

先日、東京言語研究所の公開講座へ行ったことを書いたが、その研究所がある西新宿のビルで、アゴラふうであり、中庭でもあるカフェを見つけた。しかもリッチなことにベリーニ・カフェ、スターバックス、マクドナルドの3つの店が広場を囲むように並んでいて、それぞれの店内、ビル内のオープンスペース、さらにガラス張りのエントランスを隔てて共用テラスへと、テーブルが広がっている。なかなか見事なパースペクティブである。

そのうえ、その日は三連休の初日ということもあって、人は驚くほどまばら。いかにもここを知っているという人たちがそこここで、ノートを広げているのであった。新宿のカフェといえばどこもかしこも満員で、どことなくマナーも悪いような印象があるのだけれど、天使も舞い降りるような、すがすがしい空間でした。

2008-11-04

メトロマナーポスターは「家でやろう。」から始まった。

東京メトロマナーポスター家でやろう
そうそう、始まりは「家でやろう。」だったのだ。それは掲載期間としては比較的長かったと思う。人々が受け入れるのに、少し、時間がかかった。どんなにすごいものも、最初は助走が必要なのである。(実際には月替わりらしい。こちらを参照

今このポスターをみると、迷惑をこうむる役のおじさんは、最初からあの白く曇った眼鏡(!)で画面の隅に立っていることがわかる。

さて、主人公が若い男性だった第一弾に続いて、第二弾がはりだされたのは、私のデジカメの日付によれば、今年の6月頃のようである。絵柄は携帯電話で一喜一憂する女性で、4コマ割になっていた。

東京メトロマナーポスター家でやろう電話

ああ、そういう人ね、いますね、電車の中とか地下鉄の中とかに。そういうなんていうかマナーのシリーズ広告なんだね、これ……というふうに「家でやろう。」の認知が進んでいく。

そこでクォンタムリープ(!)ならぬ「海でやろう。」が掲示されるのである。

それ以降の展開については、掲載済みなので、こちらをご覧ください。
8月:海でやろう。
9月:山でやろう。
10月:庭でやろう。
11月:店でやろう。

また「家でやろう。」で1つ私が撮り損なっているものがあるようだ。
2008年7月の「家でやろう。」はヘッドフォンネタだった。
「家でやろう。」7月

2008-11-03

店でやろう。が出た。

東京メトロポスター「店でやろう。」

ついに出ました、新作・東京メトロポスター。撮影場所は丸ノ内線・西新宿なのですが、どうも今回から掲示点数が増えているように思いました。駅のあちこちに貼ってある。

そこで私が写真を撮ろうとしていたら、そわ、とカップルがやってきて「なになに?」「店でやろうだって」という会話をして去っていく。ふむふむ、注目度がいや増しております。

しかしこうなると、最初はなんだったんだっけ、という関心も湧こうというもの。明日は少し振り返ってみようかと思います。

2008-11-02

東京言語研究所の公開講座へ行った。

複雑系としての言語現象スライドby池上高志氏

西新宿に東京言語研究所というところがあり、一般向けに言語に関するセミナーなども行っているという。その東京言語研究所が主催する2008年度第二回公開講座が開催されるというので、聴きに行った。講師は池上高志氏(東京大学大学院総合文化研究所教授)で、講演のテーマは「複雑系としての言語現象」。

少し前に「科学のはなしが持つ、ほんとうの輝き。」で書いたのだけれど、科学の分野では、出かけていくとやはり収穫が大きい。今回もそうだった。

「物理という分かり方から、複雑系という分かり方に興味を持つようになった」

池上氏は物理出身で、三葉虫の化石のコレクターで、人工生命という分野からぐわーんと──チョムスキーを経て──「クオリア言語進化論」へ。

以前渋谷で講義したときに「複雑系ってどういう系?」と訊かれた! というすごいエピソードには、のっけから会場も大爆笑。

「それから、複雑なものを取り扱っているから複雑系なんじゃなくて、取り扱い方に「複雑」があるのが複雑系」

ざっくりでもバシバシ定義してくれるので、論旨の線が直線で、鋼鉄でできてるかのように芯のある印象を受ける。すなわち、たいへんわかりやすい。

「僕にとって複雑系とは生命の新しい理論であり、自然と人工の違いについて考えること」

私は実は、構成論的アプローチという語を検索していて、このレクチャーを見つけたのだったが、会場の参加者は、東京言語研究所の講座の学生さん、講師の先生たちが半数以上で、あとは私のようにいろいろな接点で集まってきた一般の人という印象で、教室いっぱいに入って50名ぐらい。全般に科学な質問が多く、たいへん盛会でありました。

※文中の引用部は、私の記憶とメモによるものなので、不正確なところもあるかと思います。どうぞご了承ください。

2008-11-01

今日は「冬の初日」のはず。

11月1日は、例年ああもう寒い季節なんだなあ、と思わされることが多い。自分の中では、ここからさきは用心しなければという、境目の日付である。

しかし、今日はまた、ずいぶん晴れてますねえ。

そこで念のため、気象庁のサイトで日ごとの平均気温を調べてみた。──いやはや、人の季節感覚というのは、あてにならないもので。

上記リンク先には1979年から2000年までの平均気温(場所は東京練馬を指定)が掲載されているのですが、これが見事にどこにも段差なく、グラデーションに気温が下がっていく様子が示されている。

ということはおそらく、1979年から2008年を個別に見た時にはどこかに段差のある年があって、それがことさら印象深く記憶されているのかもしれない。

いやはや。天気の話は確率の話のお手本なのである。

確率といえば↓ お暇なときにご覧ください。
『週刊リョーシカ!』
『週刊リョーシカ!』第31週
降水確率「50%の雨」ってどんな雨?
http://www.famipro.com/ryosika/ryosika_031.html

2008-10-31

ベルマークとは何か。

先日、ベルマーク集計というものに参加した。ベルマークのついた商品を買って、ベルマークのところを切って集めて、学校へ持っていって、PTAの人々が数えて、でもって楽器などが買えるという、それです。で、私はそのPTAの人であったわけです。

いやあもう、あれは信じられないほどたいへんです。なんかもうちょっとたいへんでないものにする方法はあると思うのだが。つまり、ベルマークという志と、この目前の作業にはずいぶん開きがあるなあと感じました。

で、それでいったいどれだけの楽器などが買えるのか、というと、1点1円のものを大人が3人以上で3時間「集計」して942円。このうち1割が寄付なので、848円です。すると大人一人の時給換算して、なんと94円!

「あの、みなさん、全員でマクドナルドでバイトしたほうがよくありませんか?」
と私が言ったら
「でも、雇ってもらえるかしら」

2008-10-30

何が出ると思って掘るのだろう。

掘っても何も出ない、とわかっていても掘り続けるような仕事は世の中にはあるだろう。掘ってるほうも、何も出ないことはわかっている。それでも何らかの理由によって掘ることになっているし、掘ればそれだけの仕事にもなる。

だがそれが研究の場合には、研究というのは何をやるかを自分で決めるというのが仕事の一歩であろうから、仕事になるとはわかっていても何もでないところを掘るのはどんなものだろう。

ところで今急に思い出したのだが、掘ると言えば、「芋掘り」という行事はなぜあれほどまでに数多く企画されるのであろうか? コドモが保育園の時に3回、小学生でも2回はあったような気がする。私たちの「掘る」というイメージは、そのうちのどれかへの参加体験で形成されちゃったような気がする。

2008-10-29

大人の手習い。

脳に関する研究に対して、一般に人々の関心が高いのは、やはり自分に身近なことであり、それを知ることで「脳とはさみは使いよう」という知恵が授かるのではないかという期待があるからではないだろうか。

一方で、そういうのは健康に関する知識と同じで、要するに「まゆつば」なんじゃないか、諸説あって変遷もするような、とりあえずの知識なんじゃないかという警戒もあるだろう。

それにつけても思い出すのが、自分の母が、何年か前に突然フランス語を習うと言い始めて、結局のところ、おおかたの予想を裏切って今も続いていることだ。これはかなり彼女の勝利で、今回ばかりは脱帽である。だが、同時に私は深く当惑もしていて……という感覚は、何か始めちゃった親をお持ちの方にはわかると思う。

半年ぐらい前にやはり知り合いのロボット研究の先生が、母親が退職して突然……考古学を学び始めた、と言った。ロボットと考古学だ。

2008-10-28

1年間の書籍購入費用ってどのくらい?

今日たまたま出版年鑑を見ていたら、年にどのくらい本(というのは古本は含みません)を買うのか、一人あたりの購入金額の県別一覧表に目が留まった。額面では、たいがい1万円前後なのだが、たいへん突出している県もあることに気がついた。いったいどこだと思いますか?

これはたぶん雑誌も含まれるであろうし、大学や地方自治体の図書館や企業が買う図書も含まれており、そういうのをおしなべて平均どのくらいか、というものだと思われる。

したがって東京がやや高めというのも、まあなんとなくうなづける。私が目に留まったのは、だからそこではない。ひとつは北海道。そしてもうひとつは香川県でした。別に意外というわけではないですが、なぜだろうと思うと、理由が思いあたらない。うどんを見ると、今後「香川県の人はたくさん本を買う」というイメージが湧いてしまいそう。