2008-12-31

どんな年でしたか、2008年

sky
『ようこそ量子』を書くことになった2005年ごろから、優秀な科学者たちと接する機会が増えたのだが、いちばん途惑ったというか、違いを感じたのは、たぶん仕事のしかただったと思う。

大学の先生というのは、ふだんいったい何しているのだろう? と大学の先生でない人は思うに違いない。大学生の経験のある人はなんとなく知っているかもしれない。しかしそれにしてもよくわかんない仕事だよね。そんな感じなんじゃないだろうか。

私の場合、民間で広告という仕事をしていた感覚からすると、正直なところ、どうしてそうなるんだろう、とか、なんでそれでいいんだろう、なんて思うことも多かった。しかし、彼らが(飛躍的に)優秀であることはよくわかる。優秀というのは単に成績がいいのではなくて、難しい問題をわざわざ見つけてはまっさきに解いてしまうスーパーな人たち、という意味である。というわけだからその、一見かなりずれて見えることにも、もしかしたら確固たる理由があるのかもしれない。そう思って、私はしばらく様子を見ることにしたわけだ。

そうは言っても、実際のところ、そこに何か意味のある理由があるとは、あんまり期待していなかった。むしろ彼らは研究においてずばぬけているので、一般の人が手際よくこなすような“簡単な”仕事は(もしかしたら突拍子もなく)ヘタなのかもしれない、と失礼ながら思っていたと振り返る。もちろん、そしてそれは、大間違いだった。

わかるのに時間はかかったけれど、結局彼らのやり方は、実に、まったく正解で、合理的で、たったひとつのまっすぐに冴えたやり方だ、と今では思う。今では、彼らが何か言うたびに、さっそく、なるほどと思えるようになった。

しかもそのような態度なり、ものの見方なり、考え方やアクションの手順といったものは、科学というコンテンツ(中味)そのものとは別に存在するし、異なる分野の科学者でもかなり共通の部分を持っている。つまり、その方法論を採りだして、別に科学でないものにだって適用可能なのであり、しかもたいへん役に立つものだということも次第にわかってきたのである。

2008年、研究の最先端を教えてくださった科学者の皆様、どうもありがとうございました。来年は、科学のコンテンツももちろんだが、そういった発想と活動を支える方法論の部分にもフォーカスできる機会があればと思う。

2008-12-25

宅配はネコ、クリスマスversion



宅配へネコシリーズ、これも長くなりそうな予感。テーマとコピーはもうあるわけですからあとはグラフィックのアイデアというところなんですが、トラックがあのリアリティですから、かえって黄金期のCMっぽくなるというように見える──のは私だけでしょうか。

ところで宅急便のトラックにはドライバーの名前の標札が付いているのですが、いつ見ても同じ名前だったりしませんか? そんな気がするのは……もしかして私だけ?

2008-12-24

merry christmas!


正規の分量を2回に分けて焼いてみました。ろうそく型というかタワー型のショートケーキができあがり。

スポンジも今回は良好。今回は1/2の分量で2回に分けたのですが、例によって焦げます。1/2よりも1/3ずつ焼くほうがいいようでした。

焼けてみたら前回の失敗の原因に思い当たりました。卵の泡立て不足です。底に黄身がとろりと泡立たずに残っているようでは、ぜんぜん泡立て不足。

三度目の正直、と言いたいところですが、まあ10回ぐらいは作ってみないと、まだなんとも、という心境です。

2008-12-23

ケーキとトースター、第二回。

レシピを読んで1回目は成功し、2回目は失敗する、というのは鉄則なんです。しかしまた鉄則通りになるとは。

!!!トースターはせいぜいピザトーストぐらいの高さしか想定していないので、背が高いものを入れるとたいへん危険です。ましてやクッキングペーパーのような燃えやすいものは不可です。科学的な常識と、各人の責任において試してください。!!!

できないことはないし、スポンジの状態もよいのですが、いくらなんでもふくらまなさすぎです。反省。

ショートケーキ

ショートケーキ

さてと予行演習はこのくらいにして、と。明日は本番。

2008-12-22

ケーキをトースターで焼くと、焦げ焦げ、一見ですが。

トースターでケーキを焼く

トースターというのは、家庭用調理器具の中では珍しく単機能の商品である。そこを信頼して、オーブンの代わりを任せてみることにした。ところがパンをトーストすると、一般に上面のほうが下面よりも焦げていませんか? つまりトースターも基本的に(下にもヒーターが入っているのだけれども)やはり上面のほうが焦げやすく、オーブンに比べて庫内も狭い。だから、そうなるかな、と思ったら、やっぱりこうなりました。

これはケーキの台になるスポンジの部分を焼いているところ。(大丈夫、焦げているのは上だけなんです。)分量も少ないし、すぐ焦げる。が、逆に言えばあっという間に完成です。

ケーキできあがり

これは、ほぼ日刊イトイ新聞の「なんでもない日、おめでとう!」の「クリスマスがやってくる。」のレシピを使って、作ってみたもの。このレシピはとりたてて珍しいものではないのですが、「よく泡立て」という表現が、「これでもかというくらいよく泡立て」なのか、「ざっと泡立てればいい」のかというあたりが若干親切なのと、料理を教えている飯島さんという方が、手を抜かない人なのだなあと思わせるところが、なかなか楽しめるので、料理のプロセスがいったいどこまで伝わったかを確認する意味でも時々作っています。また、ケーキを作ったことのある方には、卵白と卵黄を一緒に泡立てるタイプのレシピと言えばわかると思います。

さて、このレシピに必要なもののうち、オーブンとクッキングペーパーとイチゴがない。そこで「ショートケーキ」とは言いにくかったわけなのですが、そこでどうしたかというと、この分量をすべて1/3にして、型はかつて近所にあったケーキ屋さんのベイクドケーキが入っていたハコを流用しました(あくまで非推奨。小さい型のほうがいいと思っただけなんです)。

ところで、粉もののレシピや、お菓子のレシピというのは、原則的に、分量厳守です。勝手に変えると必ず失敗しますし、ちがう状態(しっとりのはずがぱさぱさとか、さらりのはずがねっとりとかですね)になってしまうこともあります。それがどうしたことか、今回はなんだかうまくいったんですよね。だいたい分量を1/3にしてそのままうまくいくとは限らないし、さらに失敗もしました。まず卵を湯煎にかけるときに白身に火をとおしてしまい、白身を差替えた時にすでに分量が変わってしまった。そこでこれに合わせて粉の分量を上げ、ついでにバターが分量分ストックがなかった。めちゃくちゃです。

ただ、結果的には分量を思い切って1/3にしたというところが成功の秘訣だったような気がします。

スポンジの状態が、これまでオーブンで作ったことのあるものと比較しても、市販のケーキと比較しても、かなりいい状態に焼けました。もっとも、まぐれかもしれないので、近々もう一度挑戦してみます。(今度はいちごで!)

ご注意)!!!トースターはせいぜいピザトーストぐらいの高さしか想定していないので、背が高いものを入れるとたいへん危険です。ましてやクッキングペーパーのような燃えやすいものは不可です。本ブログの料理記事を試される場合は、科学的な常識に従い、各人の責任においてお試しください。よろしくお願いいたします。!!!

2008-12-21

粉もの屋の新たなる挑戦、ケーキをトースターで焼く。

ケーキを焼くにはオーブンが必要だ。オーブンは欧米の家庭風景には必ず登場するものであって、クリスマスチキンなんかが具合よく焼けたり、ピザが焼けたり、バターロールが焼けたりする。そして、そのオーブンのかなりの割合を、ガスオーブンが占めているのではないかと思う。

日本でも昔は、欧米のホームドラマに出てくるようなビルトインのオーブンの代わりに、「天火」というものがあった。これは金属のハコに小さな窓と温度計を取り付けてあるもので、ガス台の上に載せて使う。母がよく使っていた。温度調節などは完全に手動だから、温度が下がるから滅多に開けてはいけないと言われる割にはさして中が見えない窓をたまに覗くか、あとは臭いが頼りといった感じもなくはなかった。──おそらく、こんな記憶をお持ちの方も多いのではないでしょうか。

あの「天火」、今日本で買おうと思ってもなかなか見つからない。イギリスへ行った人の話だと、ロンドンあたりでは使っている人も多く、売ってもいるそうである。ただのハコでガスの規格とは関係ないのだから、輸入すればいいじゃないか、と思うが、熱されたオーブンが発する輻射熱というのが問題らしい。

一時期、カセットコンロが、鉄板の輻射熱で爆発する事件が起こって、報道でもよく注意を呼びかけていたが、これは炭火焼きでもそうで、焼ける食べ物のほうにばかり気を取られていると、下側へ逃げる熱のことを忘れてしまう。ちなみに、そんなわけで、下側に水を張って家で炭火焼きを楽しもうという商品がヒットしたりもした。

今日本で手に入る天火は、コールマンともう一社、いずれもアウトドアの製品である。これはまさに昔の天火であり、さらに畳んで収納もできるというアウトドアらしいつくり。ところがコールマンに問い合わせたところ、家庭用ガスコンロの上で使うものではなく、専用のアウトドア用のガス台で使用を、とのこと。

しかしねえ、クリスマスの時期って、かなりの専門店でもケーキがまずい。ですので、オーブンがないけど、なんとかケーキを作りたい。

そこでまたもトースターの登場と相成ったのである。(つづく)

ColemanオーブンII 170-7097
Coleman(コールマン)
amazonの該当ページへ


ご注意)!!!トースターはせいぜいピザトーストぐらいの高さしか想定していないので、背が高いものを入れるとたいへん危険です。ましてやクッキングペーパーのような燃えやすいものは不可です。本ブログの料理記事を試される場合は、科学的な常識に従い、各人の責任においてお試しください。よろしくお願いいたします。!!!

2008-12-19

「脳単」で、「そこ」をばしっとスッキリ。

脳単—ギリシャ語・ラテン語 (語源から覚える解剖学英単語集 (脳・神経編))
原島 広至,河合 良訓
エヌ・ティー・エス
amazonへ

とある方から教えていただいたこの本、おもしろいんです。前頭葉を英語にすると?……なんて、なかなかつぶしがきかない領域ではないかと思います。

以前から、特に子供や中高生などは、何か自分が強いジャンルやとても興味があるテーマについて掘り下げるなかで、英語と出逢うというほうが自然だし、効率がいいように思っていたのだが、そういうふうにも使える一冊。

脳のここがどうなってこうなって、といくつも脳をスキャンしたようなイラストの断片を見ながら、日本語と英語とその意味とを読んでいく。脳についての知識を得ながら、それがもともと外来語から来ている、といったところも同時に学んでしまえるというわけです。

しかも、肉単、骨単、といったシリーズ展開なんだそうです。残念ながらamazonでは現在、新刊は売り切れ。しかし中古がいくつか出されているようです。

2008-12-18

複雑系は何系?


渋谷で研究についてトークをしていて、そのように訊かれたと言っていたのは池上高志先生である(その時の模様はこちら)。ところで、先日家人が、「文系の反対は……体育会系」という趣旨のことを会話に織り交ぜたので、私はそれを発見してほんとうに驚いてしまった。いやあほんとにいろんな考えがあるもんですよねえ。

文系の反対が体育会系などという発想がいったいどこから生まれてくるんだろう、と考えたのだが、どうも高校なんかのクラブやサークルのイメージらしい。本人は吹奏楽部なので、本人としては「文系だけど体育系も入っている」部活だと考えているそうである。

そうなると複雑系は何系というのも──その時は、もう単純におもしろいジョークだと私は受け取ったのだけれど──案外シリアスな話なのだと気がついたわけである。つまり、理系というのは、少なくとも何らかの専門的なスキルが客観的にあるわけであって、むしろはっきりと系と呼んで他と区別できるカテゴリーだろうと思うのだが、これをとりあえずないことにしてしまうと、それ以外のところにはいくらでもいろんな「系」を思い思いに振り当てたって全然構わない。それはつまり感性の問題だから。

そういうのがいわゆる「系」なんだよ、ということになってからやおら理系というものを思い出して、これはいったい何系だったっけ、というわけで、もっと言えばくえない系に見えるらしいというのも状況としてはありそうである。そういう「内輪」が多勢ということなのだろうか。

「系っていうのは、システムのことだよ」
とリョーシカは言ってましたが。

2008-12-17

科学と小説について

なんだか今回もどでかいテーマで恐縮ですが、最後には本の紹介へ辿り着く予定ですので、よろしかったらおつきあいくださいませ。

ライターという仕事は、英語ではwriterというのは作家のことであったりもするわけだが、日本語では(というか日本ではというかどちらがふさわしいかわからないが、ともかく)書くことが仕事ではあるけれども作家ではない、つまり小説家ではない人のことを指す。

ライターは、実は、将来的には小説家になりたいんだろうと思われているが、それは往往にして本当であったりもする。すばらしいノンフィクションの書き手が小説家になってしまうことはよくあるし、それはよかったりもするし、そうでなかったりもする。そうこう言う自分だって、書けるなら、小説家になりたい。未然の事項であるから憧れだとも言えるだろう。

なぜ小説が王様なのかというと、書くことが一次的だからである。小説より以前に事実はない。それがフィクションということだろう。だから書く人は、書くならばフィクションを書きたいのだ、ろうと思う。

さて、科学について書くということは、どうしても二次的になる。広告で言えば、商品あってのコピー(広告文)であるのと同様で、科学の考えがあって、それを言葉にするのが「科学について書く」ということに他ならない。もっとも、もともとの科学の考えが十分言葉になっているとは限らないし、科学に限らずたとえば音楽について書くような場合はどうなのか、と考えると一次的という言い方は必ずしも適切ではないかもしれない。つまり体験として最初に来るもの、ということが言いたかったのである。

しかし、もし、これが科学と広告でなく、科学と小説だったらどうなるのか。

いやまあ、これはほんとうに手に負えなくなるのである。さっき簡単に言ってしまったこともすぐさま、では「再現」という問題はどうするのか、とかいろいろ困るではないですか。

そこで『瀬名秀明ロボット学論集』は、そんな科学と小説をめぐる展望が得られる絶好の機会だと思う。ちなみにこれを少し読むだに、私がいかに小説を書けるというところから遠い地点にいるか、ということも痛切に理解できたのであった。

瀬名秀明ロボット学論集
瀬名秀明
勁草書房

amazonの詳細へ

2008-12-16

「私は科学者ではありません」

他でも言ってることですが、私は科学者ではありません。だけど本物のサイエンティストが快く時間をさいて、専門的な知識を教えてくれたので、この本はできあがったのです。
──ニコラ・モーガン『BLAME MY BRAIN』(2005)より


上の引用は、その冒頭にあるまえがきのようなところに書かれている一文。ポピュラー・サイエンスというか、この本のようにエディケーショナルなものとかのまえがきによく見かける一節だ。しかもそのようなものなかでも最も直截で、感じのいい書き方だと思う。「他でも言ってることですが、」というのは、この人は数十冊の本を出しているとのことなので、無理からぬことと言えよう。

そこでこの本からは離れて、よくよく考えてみると、科学者が時間をさいて専門知識を快く教えてくれるのは、簡単にそういうものだからいいのだ、ということなのだろうか? 最近になって少しわかってきたのだが、科学者の中にはおよそ気前よく、その知見を分けて、教えてくれる人がある。たぶん、研究への情熱が大きい人ほどそうだし、また情熱が大きい人ほど実際の功績も大きいことが多いという事情があって、優れたノンフィクションが日の目を見るわけである。

私がギモンに思うのは、これだとどうも収支が合わない感じがしてしまう点だ。つまり科学者はいつも払うばかりで、一般向けに書く人というのはいつももらうばかりでは、私はたいへんな負債を積み上げてしまう。

そこでひとつには共著という考え方だ。書いてあることが誰の考えかという点で、科学者でない者よりも科学者の考えが載っているほうがいい。もちろん話を聞いて納得したものを書くわけだけれども、もともとといえば科学者の考えにほかならない。だが、それが世の中に対してどのような意味を持つか、あるいはその考えのどの点に世の中は興味を示すだろうか、といったことは、私、つまり一般向けに書く人の仕事である。

この一般向けに書くことに特化し、専門化した分野が広告であり、コピーライターである。たとえば、科学ならいいけれどもこれが技術に寄ってくると、多少宣伝めいてしまうといったことも起こる可能性があるので、見極めが必要だ。

2008-12-14

ドーナツ、残9個の分け合い方。

はらドーナッツ、チョコ
はらドーナッツへ、夫とコドモが行ったらしい。あと9個という時間だったそうだ。はらドーナッツはドーナッツがなくなったら営業終了ということになっていて、6時とか7時にはだいたい終わってしまう。

夫とコドモの後ろに、2組いたそうだ。5個買うと、残りは4つ。次のおばさんは、その後ろで待っているカップルに「2つでいい?」と訊ねて、2つずつ買って行ったそうである。
はらドーナッツ

2008-12-13

どんどんお乗りください、というエレベータ。

今日は、エレベータと、科学者の観察癖の話。エレベータとセレンディピティーと言いたいところだけれども、それじゃあのっけからトホホになってしまいそうなので、自粛することにした。

少し前に量子の研究者がやってきたときに、雑談になって
「そういえばここのエレベータ、どんどんお乗りください、って言う?」

──エレベータが、そんなこと言いますか?

と訊いたら、いや確かに言われたというのである。リョーシカは、「言うかも知れない」と言ったあとで「いや一度も聞いたことはない」と言った。「聞いたことはないけれども、そういう状況に遭ったことがなかったのかもしれない」と。

──そういう状況って何ですか?

「人にどんどん乗って欲しい状況。たくさんの階でボタンが押されているとか……」とリョーシカ。

それにしても「どんどんお乗りください」っていう音声を用意するものかなあ、と私はしばらく疑問に思っていた。そうは思うけれども「確かに言った」と科学者が言うのだから、ちょっとやそっとでは彼が間違っている可能性などないだろうとも思われたのである。

それから約4ヵ月ぐらいたった先日、そうなのだ、私は聞いたのだ、「どんどんお乗りください」を。そして突然気がついたのだ──もしこのことをあらかじめきいていなかったら、私はやっぱり「エレベータがどんどんお乗りくださいと言う」ということを見逃し、聞き逃していただろうなと。

一方で、彼ら科学者は往往にして気付くのだ。ひとりは実際に聞いたのだし、リョーシカは自分で断言したとおり、きっと本当に彼女がいるときにエレベータはそう言わなかったのに違いない。

「聞いたよ」と言いに行ったら、リョーシカは言った。「私もその後何回か聞いたよ」

2008-12-11

1%に満たない科学の成分。

このブログを始める時は、サイエンス・コミュニケーションについて、とても書きたいことが溜まっていて、サイエンスのレクチャーを運営している人にお話を聞いたりしてサイエンス・カフェのあり方にも関心を持っていた。今ももちろんあるのだけれども、気分的にはかなり変化をしてもいる。

たぶん、ブログを書く人には、有名無名にかかわらず、自分の行動をおっかけ、自分で応援したり記録したりするものとしてブログを書く人と、インターネット上にとにかくブログというごくささやかな媒体をつくって、そこに何か、自分がわかったこと、これなら書けるだろうことを書いていく人といて、自分はおそらく後者なのである。語弊はあるけれども、私にとって書くことは常に一次的なものであって、二次的、副次的なものにはなりにくいのだ。

ブログを書くということ──それがいかにしょぼい作業か──ということは、すでに何年かブログを書いてきてわかっていたので、別にアクセス数の浮き沈みなどで書こうとか伝えたいとかいう熱意が減ったりはしないのだけれども、やはりブログにできる規模に見合った話題というのが肝要である。ふしぎなことに、広告の仕事だけをやっていた頃には自分がメーカーではないために少しでも多く売るというところへ力点が行ってしまっていたためか、今あらためて気付いているのだが、何事も市場規模に見合っていることが、最も伝達効率がよい。よく“化ける”というが、万が一化けても、問題なのは、新しい市場規模に合っていないことよりも生産が追いつくかであることのほうがずっと多い。たぶんそれはブログを書いてきて学んだことのひとつで、横道に逸れるがこういう体験がタダでできるというのは、これはやっぱりすばらしいことだ。

そういう次第で、要するに当初の気負いは減ってきたというわけなんだけれども、それはつまり、ブログというのは、自分にできることをできる規模で進めなければ到底、続かないということでもある。そうなってみて振り返ると、しかし、自分の生活の中にある科学の要素というのは、たとえば当初50%50%ぐらいだと思っていたのが、へたすると1%未満というようなことにもなりかねない、なんてしょぼい清涼飲料水の果汁のようなものなのか、とも思えてきた。もちろん私が言っているのは、科学に関係あればカウントするというのではなくて、とっても科学らしいこと、科学のエッセンスが含まれていることとなると、という意味である。たとえばちょうど今、1月に出る科学の本の校正をしているのだけれども、これとて科学について書いてあるから科学なんだとはとても言えなくて、ほとんどが校正という作業に他ならない。

だが悪いことばかりではない。日常のちょっとしたこと、たとえば科学者のちょっとした態度などに、うまく科学のしっぽがつかまりそうに思うことも最近は増えてきている。ただ惜しいかな、すぐに書き留めないと、さっさと忘れてしまう。まだまだ、訓練が足りないらしいのである。

2008-12-10

モーガンさんのたのしい脳

『月曜日は赤』
ニコラ・モーガン
東京創元社
amazonの詳細へ

私はぜんぜん読書家ではないので、こういう読書話は非常に気が引けるのでありますが、図書館で「岩波ジュニア新書」の棚になぜか差し込まれていた『月曜日は赤』をめぐる話を少々。

原題はMondays are red. 。そこで思い出したのがBorn on a blue dayという本(邦題は『ぼくには数字が風景に見える』)。Born on a blue dayは、映画『レインマン』で広く知られるようになったサヴァン症候群と、アスペルガー症候群を持つ著者のノンフィクションなのですが、Mondays are redは、病気ではない「共感覚」というものが幻想の源泉になっているフィクション。

作者は、Nicola Morganさんという方で、この名前、どうも目に覚えがあると思ったら、機関車トーマス本などを書いているイギリスの方。脳についての本を2冊書かれており、これに関連したサイトが開設されている。teen向けを意識していることもあり、入門しやすい。

NICOLA MORGAN'S BRAIN PAGES
http://www.nicolamorgan.co.uk/talkaboutbrains/default.php

2008-12-08

メトロポスター12月は「家でやろう。」


東京メトロの駅には、2008年の4月から、イラストと「○○でやろう。」というキャッチコピー貼りのマナー広告が掲示されていて、月替わりで新しいものに張り替えられるシリーズ広告ともなっている。

そこで科学と広告のブログでもこのメトロ広告を時々とりあげていて、2008年11月04日にはこれらをまとめて、「メトロマナーポスターは「家でやろう。」から始まった。 」というのを書いたのだったが、まさかこの時、12月バージョンが「家でやろう。」になるとは思わなかった。ストーリー的には納得のいく展開だし、もちろん訴求したい内容あっての広告であるわけだからそれが伝わることが第一義であるし、一文字の言葉が品切れということだってあり得るわけだけれども、それでもイラストとの組み合わせという意味ではまだまだ可能性があるし、大局的に言えば、1年足らずで同じ案を使うのは惜しい。使い古してしまう。拙断だが、意外と若い方が作っているのだと感じた。

2008-12-06

異常気象とセレンディピティー

そういえば昨日は、やけに生暖かい日和かと思ったら、夕方に雷が鳴り、短時間とはいえ集中豪雨もあって、かなり変わった天気だったようだ。今朝の朝日新聞には、1面に、雷が空を貫いて走っている写真が掲載されていた。

私はといえばこのところ風邪気味なのかやたらと寒気がするので、窓の外の風の音をきいただけでダウンのコートを着て行ってしまい、午後からさすがに汗が流れてくる始末。

3時ごろになると科学者のひとりが突然席をたって、3時半なのにこんなに暗いのはおかしい、と言い始めた。その場には2、3日前に東京に着いたばかりのビジターしかいなかったので特段興味を示さず、そのままになった。

4時半に別の数学者がやってきて、出かけようとしていた私に「雷雨ですよ」と早口に様子を語るので、まさか、と外を見ると路面が真っ黒に塗れている。ユーレーさえ出そうな街の風景である。

というわけで今朝になって、ああ、あのやたらと気象について語っていたふたりの科学者は、本来は当たり障りのない天気の話を、あいさつ以上の熱意と饒舌さで、「気分で」語っていたわけじゃなく、「おかしい」と本気で感じ取っていたということがわかったわけである。

おふたりは別に気象が専門というわけでもないのに、少なくとも私よりは、気象についての観察が常日頃細かいということが、これでわかる。

しかし、朝日新聞が掲載してくれていたからいいけれど、それが目に留まらなかったら、科学者がおかしいと言っていたということは、私の記憶から消えてしまったかもしれない。そう思うと本当はこういうサンプルが日常生活にはごろごろしているような気もするのである。

Firefoxが更新版をリリース

先日Safariのアップデートが表示されていると思ったら、Firefoxが自動的に更新になって、立ちあがってみたらすっかりSafariみたいなブラウザウィンドウいなっていた。

いやあ、こんなことなら、これまでの表示をキャプチャしておくんだった。こんなに大きな改訂とは知りませんでした。やや古いものになりますが、以前のバージョンはこんな感じだった↓

科学と広告のブログfirefoxキャプチャ

メインのフォントは以前はもうすこし余白のある、角の丸いものにしたつもりだったんですが、更新後はかなり角のふくらんだ、余白の少ないフォントで表示されます。

そういえばGoogle Street Viewも操作が変わりましたね。使い方ビデオがアップされています。私はその時たまたま京都の町に迷い込んでいたのですが、Street Viewの青いラインがないところへ飛び降りてしまうと、うんともすんともしないのでビデオを見て操作を確認する羽目に、というなりゆきでした。(青いラインのあるところへ降りれば大丈夫)

2008-12-05

ユニコーンと架空のオカピ

昔ユニコーンという動物を知って、なんと素敵な動物だと思った人は少なくないだろう。手塚治虫の「ユニコ」の影響もきっと大きい。こんなにありありと描かれているものが想像上の動物だと聞いてもなかなか納得しずらく、何らか「秘境」へ行けば、いるような気がしてしまう。その後「龍」というものもそうだと聞いた時も、では「画竜点睛」はどうなるんだろうと思ったり、一方「タツノオトシゴ」というのは実際に映像なんかも見られるところをみるとあっちは実際の生き物なんだ、と思ったりした。(どっちかって言うと、こちらのほうがおもちゃみたいだけど)

全部ではなくても、似たような記憶を持っている方も多いのではないだろうか。

動物図鑑には必ず、絶滅してしまった過去の動物たち、特に鳥類や哺乳類が見開きで紹介されているページがあるものだ。いまはそれほど呑気なことは言っていられなくてRED BOOKではあと2,000匹、3,000羽を割るような個体数(そのうち半数が動物園)といった種がたくさんあって、そのうちどれがすぐに絶滅してしまうかわかったものではない。多くの専門家が指摘しているように個体数がある数以下になってしまうと、元へ戻すのは難しい。

ではどれだけの哺乳類や鳥類がこれまで絶滅してきたのか、というか、現在までは生き延びなかった種で、人類が目撃したものにはどんなものがあったのだろうか、と考えると、これが案外いろんなバリエーションの生き物がいたとも考えられていて、びっくりする。稀少動物で世界三大珍獣の一つであるオカピがよく俗に「しまうまとキリンを足して2で割ったような動物」と言われるが、現代の限られた種類しか知らない私たちにはそんなふうに見えるもののオンパレードだ。

そうなるとどこまでが人間の想像上の動物で、どこまでが元々目撃したものの古い記憶なのかは、意外と判然としにくいもののような気もする。理想の島とか理想の社会とかと違って、今はない動物や鳥たちは、失われたことを記憶のとどめるために、架空に現れたようにも思えるのである。

2008-12-04

動物さんが演奏していると考える脳

ズーラシアンブラス園内演奏
ズーラシアンブラスという楽団があるのをご存知でしょうか? これはよこはま動物園ズーラシアという横浜市の内陸部にある動物園のマスコットキャラクター楽団なのですが……そこでああそう、こども向けのアトラクションね、と想像されるようなレベルの演奏力ではなくて、ソリストとして一流の主にクラシックの演奏家を集めて、オカピ、インドライオン、スマトラトラ、ドゥクラングール、マレーバク、ホッキョクグマといったズーラシアの稀少動物として(頭が動物になっている)出演・演奏してもらうという趣向になっている。

現在は首都圏だけでなく地方の音楽ホールでの公演も多く、すっかり動物園から出た感があるズーラシアンブラスだが、園内演奏と言って、ズーラシアンの中の出口ゲート付近にあるイベントスペースでも毎月公演を行っている。

このズーラシアンブラスについては私の音楽ブログ「響けブログ」に書いているので、詳しくはそちらをご覧ください。

で、今回、ちょっと注目したいのは、このズーラシアンブラスの園内演奏におけるこどもたちのリアクションである。

こどもたちはその演奏会に遭遇するまでに、動物園のなんとも長い順路を経てやってくる。いずれのルートでも何らかの動物を複数見てからでなくては、そのイベントスペースへは辿り着かない。入口ゲート付近にいるアジアのインドライオン、スマトラトラ、ドゥクラングール、マレーバクはおそらく見ているはずだし、ズーラシア目玉の稀少動物・オカピはさすがに奥まったところにいるが、以前行った時、さすがに盛況であった。

こどもたちは、そうやって動物を目撃していながら(印象ではかなり大きいこどもまでもれなく)この演奏家たちを動物が演奏している、と思うのである。

さっき見た檻(最近はあまり目立った檻は作らないが)の中にいる動物と、見た目がぜんぜん違うことは、さすがにこどもだって明らかであろう。だからおそらく、彼らはさっさと「見立て」るのである。これはつまり絵本モードの動物さんだというふうに。このすばやさが、改めて考えるとかなり知的に高度な気がする。見ていると時々音楽に長けたこどもが、これはいくらなんでもおかしい、と思い始めて周りの大人に質問を始めるという具合である。だが考えてみればこれも不思議で、動物に音楽的に高度なことができるはずがないと思うのだろうか、それとも人間と同じ感性の音楽を奏でるのがへんだと思うのだろうか。

いやはや。だんだんトホホになってきたので、気になりつつ、また別の機会といたします。

隣人としての理系

観覧車の顔

(前回のつづき)
「ずっと前からさ、隣に住んでるのにひどいじゃないか」と、しかし、理系はあんまり言わない。むしろ「科学的整合性というもの」がわからないのだからしかたがないな、と思う人のほうが多い。さらにその内容についてもちゃんと説明しようとしてくれる隣人が多い。

ただ実は理系にも盲点がある。科学技術に関心がない人、科学的整合性にこだわらない人は、世の中大多数なのである。なぜそんなにもたくさんいるのに、それまで気づかないのか、というところがヘンだと思いませんか?

この理由として私が思い当たるのは、まず第一にフォーカスしているものが違うということだ。たとえば科学的整合性を見ているときに、会議に出ている他の人が「ランチに何を食べようか」と考えているかもしれないことは、思いも寄らないだろう。では何にフォーカスするかといえば、語弊はあると思うけれども、簡単に言ってしまえば、解けそうな問題である。それによって科学的な世界が一歩進むことができるようなところへフォーカスしたいわけだ。すると一般にあきらかに、いかにも解けそうもない問題は、日常的にどんどん視野から外れていく運命にある。

したがって、私たち大多数そのものが、理系にとって解けない問題なのかといえば、たぶんその類なのである。でもだからといって早合点してはいけないのは、彼等は何も感じないのかといえばそんなことはあるはずない、という点である。興味がないだけで、それは社会性とは別の話題だ。それに理系だって結局は気付いているのだ、大多数が科学的に考えないし、ほとんど無視してるんだな、ということに。なんだかんだ言って、むしろ、およそのところはわかっているように私は思う。つまり文系の文系たるところは混沌としているけれども、混沌としていることをよしとするなら、だいたいこんなとこなんだろうね、というふうに。

そこへ行くと私たち大多数は、理系が持っているいろんなツールを持っていないし、使い方もわからないし、その当たり前な正しい世界をうまくイメージできない。理系の理系たる中味については、おまかせっきり、というわけである。しかしここでも理系はそれを独占して「あげないよ」と言ってるわけではなく、それどころか「みんなのもの」だからどんどんやってください、と思っている人のほうが多い。

とはいえ、「科学者」ならばともかく、「理系」と括ってしまうと、私にはどうも血液型判定とか兄弟姉妹の性格特性みたいな話にも思えてしまう。理系の中にもおそろしく幅があるし、「日本の理系は」という話なのか、世界じゅうそうなのかという問題もある。そのようにいろいろ難しいので、今回でおしまいにしようと思います。

2008-12-03

文系・理系の間に川は流れる?

観覧車

文系理系という区分は、私にはあまり対称性が感じられない。理系はこういうものだ、という話ならできるかもしれないが、だがそもそも、私は理系ではない。どう考えても、これはあまのじゃくなことになりそうだ。

しかし理系と文系(というものがあるとして)の間に橋がかからなければ、結論から言って、人間というのは困るんじゃないかと思う。たとえば昨日まで隣に暮らしていた外国人のなんとかさんの祖国と、今日から国交断絶なんてことになったらやっぱり居心地悪いことになる。そうなると私の周りにはそんな外国人はいないからいいんだというのは偏狭で、きっと誰かがお隣りさんなんだろうなってことはコドモにだってわかる。

というわけで、前回引用した東野圭吾『さいえんす?』(角川文庫)を読みながら、隣人としての理系、についてちょっと考えてみよう。

この世界、つまり文系の世界に入って痛感したのは、科学技術について関心を持っているのは、世間のごく一部にすぎなかったということだ。無関心などというレベルではない。全く無知といっていいほどだ。
──東野圭吾『さいえんす?』(角川文庫)より

無関心は最大の敵というやつである。科学技術というものの恩恵は受けていても、その重要性を認めなければ、必然、科学技術を担う人も重要視されない。めんどくさいことは誰かがやってくれている、という感覚になるのが轍である。これはかなり技術寄りの話だけれども、いきおい、科学だってそうなる。

科学的整合性というものについて、ほかの人は自分ほどこだわらないのだな、と思ったのはこの時だけではない。
──東野圭吾『さいえんす?』(角川文庫)より

リアリティは、科学的にあり得る、正しいことの中にある。当たり前である。それが世界である。──「ですよね?」と理系が言う。「ええ」と文系が言う。そういいながら文系は続ける……「いや、そうは言ってもね、」というように。

たぶん理系にしてみれば、なかったことにしようとしてるな、と思うだろう。(確かにそうなんだけど。)(つづく)

2008-12-02

無関心につけるクスリはないもので。

さいえんす? (角川文庫)
東野 圭吾
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コピーライターが絶対言ってはいけないことのひとつだ「無関心につけるクスリはない」なんて。直ちにコピーライター失格です。だから正しくは「無関心ほど恐ろしいものはない」となる。つまり目に留まらない広告はないも同然という鉄則である。これでやっと広告の話ができる。

サイエンスを広報とか広告とかしようとすると、潜在的読者といかに接点をつくるのかというのが、いつも難問になる。

問題が解けないのは、自分の頭が悪いからに違いない。そこで、東野圭吾著『さいえんす?』(角川文庫)を読んだ。さて工学部出身の著者は、作家になってたいへん驚いたことがあるそうである。若干引用する。

この世界、つまり文系の世界に入って痛感したのは、科学技術について関心を持っているのは、世間のごく一部にすぎなかったということだ。無関心などというレベルではない。全く無知といっていいほどだ。

科学的整合性というものについて、ほかの人は自分ほどこだわらないのだな、と思ったのはこの時だけではない。

──いずれも、東野圭吾『さいえんす?』(角川文庫)より


この驚き、戸惑いは、及ばずながら私にもよくわかる。そしてこのあたりの事情を上手く伝えるのはとても難しいと感じている。

しかし奥付を見ると、この本はすでに11版を数えている、つまり売れている、読まれているということだ。当代随一ともいえるベストセラー作家は、科学技術について無知な多くのひとに、「さいえんす?」のクスリをつけてくれていたのであった。

2008-12-01

人口ピラミッドと想定読者

日本の人口年齢別比率
先日科学者の先生が、中学生が読めるような本を目指したいといった趣旨のことを話された。本をつくるときにはだいたいこのくらいの人が読んでわかるようにつくろうというラインを考えるのがふつうであり、新聞を読む一般読者というように表現することもある。この場合は科学の本なので、中学校の理科や数学で習うぐらいの基礎知識があれば、ということを言われたわけである。

ちょっと気になったので、あらためて人口ピラミッドを調べてみた。
ネット上にたいへん便利というかずばりな統計資料がある。

国立社会保障・人口問題研究所「人口ピラミッド」
http://www.ipss.go.jp/site-ad/TopPageData/Pyramid_a.html


上記のURLでは、1930年から2050年(2010年から推定)の人口ピラミッドを見ることができる。各年の図版のダウンロードも可能。

視覚的にはわかりやすいが数字になっているほうが操作しやすい。そこで以下から国勢調査(平成17年)の統計表がダウンロードできた。

政府統計の総合窓口
http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?bid=000001007609&cycode=0


この数字をざっくりまとめたのが上掲の円グラフ。日本がもし10人の村だったら、20・30代が3人、40・50代が3人、60代以上の老人が3人、中高生が1人という具合である。

このような現実と併せて考えると、中学生が読めるという内容が、どのように読まれると考えるべきなのかは、なかなか微妙である。たとえば生徒につきものの「進路」という問題にしても、9人はすでに決まっていて、これから科学を志す可能性があるという人は1人しかいないのである。