2008-12-11

1%に満たない科学の成分。

このブログを始める時は、サイエンス・コミュニケーションについて、とても書きたいことが溜まっていて、サイエンスのレクチャーを運営している人にお話を聞いたりしてサイエンス・カフェのあり方にも関心を持っていた。今ももちろんあるのだけれども、気分的にはかなり変化をしてもいる。

たぶん、ブログを書く人には、有名無名にかかわらず、自分の行動をおっかけ、自分で応援したり記録したりするものとしてブログを書く人と、インターネット上にとにかくブログというごくささやかな媒体をつくって、そこに何か、自分がわかったこと、これなら書けるだろうことを書いていく人といて、自分はおそらく後者なのである。語弊はあるけれども、私にとって書くことは常に一次的なものであって、二次的、副次的なものにはなりにくいのだ。

ブログを書くということ──それがいかにしょぼい作業か──ということは、すでに何年かブログを書いてきてわかっていたので、別にアクセス数の浮き沈みなどで書こうとか伝えたいとかいう熱意が減ったりはしないのだけれども、やはりブログにできる規模に見合った話題というのが肝要である。ふしぎなことに、広告の仕事だけをやっていた頃には自分がメーカーではないために少しでも多く売るというところへ力点が行ってしまっていたためか、今あらためて気付いているのだが、何事も市場規模に見合っていることが、最も伝達効率がよい。よく“化ける”というが、万が一化けても、問題なのは、新しい市場規模に合っていないことよりも生産が追いつくかであることのほうがずっと多い。たぶんそれはブログを書いてきて学んだことのひとつで、横道に逸れるがこういう体験がタダでできるというのは、これはやっぱりすばらしいことだ。

そういう次第で、要するに当初の気負いは減ってきたというわけなんだけれども、それはつまり、ブログというのは、自分にできることをできる規模で進めなければ到底、続かないということでもある。そうなってみて振り返ると、しかし、自分の生活の中にある科学の要素というのは、たとえば当初50%50%ぐらいだと思っていたのが、へたすると1%未満というようなことにもなりかねない、なんてしょぼい清涼飲料水の果汁のようなものなのか、とも思えてきた。もちろん私が言っているのは、科学に関係あればカウントするというのではなくて、とっても科学らしいこと、科学のエッセンスが含まれていることとなると、という意味である。たとえばちょうど今、1月に出る科学の本の校正をしているのだけれども、これとて科学について書いてあるから科学なんだとはとても言えなくて、ほとんどが校正という作業に他ならない。

だが悪いことばかりではない。日常のちょっとしたこと、たとえば科学者のちょっとした態度などに、うまく科学のしっぽがつかまりそうに思うことも最近は増えてきている。ただ惜しいかな、すぐに書き留めないと、さっさと忘れてしまう。まだまだ、訓練が足りないらしいのである。

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