他でも言ってることですが、私は科学者ではありません。だけど本物のサイエンティストが快く時間をさいて、専門的な知識を教えてくれたので、この本はできあがったのです。
──ニコラ・モーガン『BLAME MY BRAIN』(2005)より
上の引用は、その冒頭にあるまえがきのようなところに書かれている一文。ポピュラー・サイエンスというか、この本のようにエディケーショナルなものとかのまえがきによく見かける一節だ。しかもそのようなものなかでも最も直截で、感じのいい書き方だと思う。「他でも言ってることですが、」というのは、この人は数十冊の本を出しているとのことなので、無理からぬことと言えよう。
そこでこの本からは離れて、よくよく考えてみると、科学者が時間をさいて専門知識を快く教えてくれるのは、簡単にそういうものだからいいのだ、ということなのだろうか? 最近になって少しわかってきたのだが、科学者の中にはおよそ気前よく、その知見を分けて、教えてくれる人がある。たぶん、研究への情熱が大きい人ほどそうだし、また情熱が大きい人ほど実際の功績も大きいことが多いという事情があって、優れたノンフィクションが日の目を見るわけである。
私がギモンに思うのは、これだとどうも収支が合わない感じがしてしまう点だ。つまり科学者はいつも払うばかりで、一般向けに書く人というのはいつももらうばかりでは、私はたいへんな負債を積み上げてしまう。
そこでひとつには共著という考え方だ。書いてあることが誰の考えかという点で、科学者でない者よりも科学者の考えが載っているほうがいい。もちろん話を聞いて納得したものを書くわけだけれども、もともとといえば科学者の考えにほかならない。だが、それが世の中に対してどのような意味を持つか、あるいはその考えのどの点に世の中は興味を示すだろうか、といったことは、私、つまり一般向けに書く人の仕事である。
この一般向けに書くことに特化し、専門化した分野が広告であり、コピーライターである。たとえば、科学ならいいけれどもこれが技術に寄ってくると、多少宣伝めいてしまうといったことも起こる可能性があるので、見極めが必要だ。
2008-12-16
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