2008-07-31

ランディ・パウシュの「最後の授業」

Youtube:ランディ・パウシュの「最後の授業」2

バーチャルリアリティの研究で知られる、カーネギーメロン大学のランディ・パウシュ教授が、大学恒例の「最後の授業」と題した講演にあたり、直前に肝臓ガンで余命3〜6カ月と宣告され、『子供のころからの夢を本当に実現するために』というテーマで語った講義が話題を呼んでいる。

ランディ・パウシュという人物について、実は私は知らない。先になくなった記事が目にとまり、それでこの講義録を見てみようと思ったのだった。だからほんとうにこの講義に参加された方たちよりも、ずっと生よりも死の印象が強い状態で、講義を聴いたことになる。

このように死ぬとわかっていたり、ほんとうに死んでしまった人の「最後の授業」として聴くと、そのひと言ひと言が心にしみる。この人が最後に言おうとしたこと、そして言外にも、そこに含まれているものを聴こうとする。

そのようにして彼の話を聴いていて、いったい彼と同じ46歳の大人のうちの何人が、死を宣告されて、これだけの人々を前に、これだけの話を語ることができるだろうか、と思った。

彼にそれができたのには、ひとつには、彼の業績とは関係ないと言える。だって明かに彼の業績に匹敵するすべての人がこのような講演ができるとは限らないし、そうしようと思うとは限らないからだ。そのような人格(キャラクター)の持ち主が、サイエンティストであるということに改めて注目したい。

その一方で、この実現には、やはり彼の業績というものが関係している。だってそもそも、すべての人にこのように多くの人の集まる講演の機会があるとは限らないもの。それはやはり、彼の業績を慕ってのことだと思うから。

そこで突然話が飛ぶようだけれども──しかし、どうだろう。町内のおじいさんが、どうも老い先短いらしいと一念発起して、ほんの数名を相手にでも、自分の伝えたいことを語る機会があったら、もし、そんなことがあったら、それは素晴らしいことではないだろうか。そういうキャラクター──あるいは意志と言うべきかもしれないが──さえあれば、それが小規模であるかどうかはささいな問題であるに違いない。

実際、サイエンティストのなかには、このように偉大な意志を持った人がいて、ときどき出逢うことがある。サイエンティストというキャリアと並行して走っている、科学者の人生というものについて、改めて考えさせられる。

"Tuesdays with Morrie" by Mitch Albom
関連して思いだした本。英語も平易で読みやすいです。

2008-07-30

私の好きな料理本をご紹介します

先日「ほぼ日」のアンケートに答えていて、そういえば料理本の書評というものを昔やったことがあったと思いだした。非常にインターネット初期の頃で、たぶん10年ぐらい前だったんじゃないだろうか。

その後、ある方のご紹介で、非常に有名で、かつ志ある若い料理人たちに慕われている、ほんとうに偉大なシェフたちに何人か取材をさせていただき、それはウェブと雑誌の記事になったりした。

そうそう、これは本当に貴重な機会だったなあと思って、また料理というのは、自分自身が毎日行っていることでもあるので、──で、話はどこへいくのかというと、やっぱりブログに書いたほうがいいんじゃないか、と考えて──というわけで料理ブログというものを始めたのだが、実はこれは案外長続きしなかった。

なぜだろうと思うと、料理なんぞは別にネタには事欠かないのだけれど、やはり自分の中でモチベーションがいまいち不足しているということなのだろうと思います。

料理について私が考えているのは、まず実証的な分野であるということ。その意味では理科の実験室とかとも通じるものがあるわけですね。しかし「音楽」にクラシックもあればジャズも邦楽もあるように、「料理」だけではカテゴリーとして広すぎる。優れた料理人は現実には何らかのバックグラウンド──中華で修業したとか、フレンチで修業したというように──を持っています。それでもっておいしい料理をつくる人たちは、みんなかなり「実証的」なヒトビトなんだけど、では「実験」をやっているのかというと、およそ「おいしいもの」を作ろうとしかしていない。そういう意味でこれはたいへんに「応用的」な分野であって、基礎研究のところはもう掘りがいはなくて、で、どうするか、というところに幅広い取り組みがある。そういうふうに感じます。

料理をそういうふうに見ていくと面白いぞ、そして、そのように考えている人もいるんだぞ、と感じ始めたのはいつかなあ、と思い起こしてみると、この本あたりじゃなかったかな、と思います。手元にあるのは「新装版」ではないほうで、初版が1971年。では当てずっぽうに開いたページから引用。

「肉や野菜を炒めるとき、強火で加熱するのはなぜでしょう?」

なかなかいい質問ですよね。アマゾンで谷山田柊雄 (東京都杉並区)さんという方が「類書とは一線を画した良書」として本書を挙げていらっしゃいましたが、私も同感です。


『「こつ」の科学—調理の疑問に答える』
杉田浩一著 柴田書店 詳細へ

2008-07-29

夕焼けに染まるここち。


上の写真は、今日というか月曜の空。実は日曜日もすごい夕焼けだったんです。おまけに、虹もかかったんですよ、南の空から半円を描いて。それとおそらく同じ空を撮った写真をアップしているのをネットで見かけました。そういえば以前にも、おそらく同じ空──その時はたしか、雷だったかも──を撮った写真を、時々読んでいるブログで見かけ、びっくりしたことがあります。実際、その方の住まいは私と同じ沿線で場所的にも近いため、空もほんとうによく似ていたんです。

阿部謹也という方が、世間についての論評のなかで、日本人特有の意識をいくつか挙げたなかに、お互いが同じ時間を生きている感覚、というのが入っています。つたない引用で申し訳ないのですが。

そうかあ、同じ空を見ていたんだなあ。

そう思うのは、私が日本人だから、かもしれないです。でも別々の時間を生きている感覚だとすると、より空が対象化され、時間共有感覚の場合は、より空を見る自分の主観がテーマ化されるような気は、確かにしますよね。

2008-07-28

ほぼ日のアンケートに今年も答えてしまった。

今年のほぼ日アンケートは、音楽は昨年のテーマソングと同じであるが、「写真」をテーマにしていて、自分がほぼ日にでてほしいと思う超有名人のひとりとの記念写真(イラストですが)というものを表示してくれるのが、なかなかうれしい。しかも、これについては気づいたことが2つあって

1
「ほぼ日にでてほしい」と「心から」思っている人を、自分は回答していたんだなあ、ということ。なにしろ、その写真(イラストですが)が、えっ? いいんですかこれ、って感じなのだ。

2
ちょっとまてよ、有名人の似顔絵はともかく、自分、このわたしを、ほぼ日がイラストにできるわけがない(画像を送ったりとかしなきゃ無理ですよね)。そう、私がうつっていたわけではなくて、ほぼ日アンケートのキャラクターが私のかわりにその有名人とツーショットになっていたのである。
そうか、キャラクターというものについて、これまであまり意識していなかったなあ、と思ったのが二つ目。こんなにもスムーズにわたしの代わり、つまり読者となるとは考えていなかった。イカン。

ちなみに2008/8/8まで、受付しているそうです。今年の音のしかけはさほどでもなくて(テーマは写真ですから)、計3回かな? 出てくる「変身」したイトイ氏がアンケートのアクセントになっています。この「変身」したイトイ氏が、また新しいほぼ日を予感させます。

2008-07-25

一長一短な日。

いやあ、今日はなんかひとつ、霧が晴れたというような発見があった。それはそれでよかったのだが、逆にもうひとつ、ふだんどちらかというとぜんぜん問題ないつもりで判断していたことについて、その内容を自分で説明してみたら、実はさほど自信がないことに気がついた。

ま、そんな日もあるんですかね。

2008-07-24

再読『イトイ式コトバ論序説』


もうほんとに80〜90年代っぽい話で、恐縮なのですが。

その昔、「夜中の学校」というシリーズ番組があって、広告批評の編集長(だったと思う)氏がセレクトした講師が、それぞれの持ちネタというか分野について、30分の連続講義を行うというものであり、それをほとんどそのまま本にしたのが、これまたシリーズで刊行されていた。

その一冊が赤い表紙の「イトイ式コトバ論序説」で、それは糸井重里氏がコピーライティングの「原論」のようなものを少なくとも何回か分は大系としてまとめた稀少なものなのである。

先般からこれをちょっと参照したいなと思っていたが、とある経緯で手元に寄せて再読できることになった。読んでみて抱いた感想は、抱いてみて、以前のものとまったく同じだということが改めてわかった。ただ以前はここのところがどうしてもわからないなといういくつかの点があり、今もやっぱりわからないのだが、これを読んだ限りではわからなくてよいということに、今回は気づいたのだった。

もっと言うと、この本は「コトバはコトバの素の集まりである」と要約できる。

そして先を急いじゃうと、このようにどこまでも「コトバ」であると考える──たとえばコトバの素は、「感じ」とか「状態」のそれぞれの内容であって「コトバ以前」という言い方もできるわけだ──の方法は、とても遠くまでいけるということを、改めて実感した。

そうすると、先日書いた「私はことばにしなくちゃいけない。」というのはどうだろう?──ということになるに違いない。サイエンスの最先端で、最初にコトバにしたのは誰か──草陰の名もなき花の名を言いし、その人のことだ──というと、これもやはり科学者なのだということに、断じてなるはず、である。

作りだし、あらしめたのは科学者である。
で?

この「で?」というところを、科学者と一緒に考える。そんなところにもサイエンスコミュニケーション活動に、「広告」的な要素を感じます。

2008-07-23

トラックバックの表示不具合について

このブログは「Blogger」というサービスを利用しているのですが、これにはトラックバックという機能がどうもないようで、その代わりに「バックリンク」という機能があります。

トラックバックというと、
1 私の記事に、どなたかがリンクをはる
2 どなたかの記事に、私のブログからpingを送る

という2つの使い方があるかと思いますが、まずその1について、この「科学と広告のブログ」では、外部のトラックバック表示サービスを組み込んでいます。そのためこのブログにはトラックバックをはることができます。

ところが、これがどうもトラックバックのウィンドウが開くと、文字化けを起こしていて──少なくとも私のマックでは──読めません。そこで文字エンコードを「Unicode(UTF-8)」にすると、日本語で表示します。
たいへんお手間で恐縮ですが、どうぞよろしくお願いいたします。

2のほうは、どうやっていいか、まだわかりません。そのうちに探してみます。

本日も閲覧ありがとうございます。

2008-07-22

宅配の注文を出し忘れたら、


なんとゴミ箱のまわりが、ビニール袋や発泡のトレイでいっぱいになった。ふだんは食料品などの宅配を週1回頼んでいるのだが、たった1回注文を出し忘れただけで、これだけゴミが増えるのだ。こうなると、宅配も悪くない。ゴミについてはいろんな意見があるけれども、とにかく出すゴミが少ないというのは、最もよいことであるに違いない。その点、一般のスーパーマーケットで買うより、宅配のほうがかなりゴミは少なくなるように感じましたよ。

2008-07-21

コップは成長する!?


和の食器はあまり買わないのだが、これは手に付き具合といい、重みといい、厚さといい、そういう使い心地のデザインが気に入って、最初は小さいほうを買ったのだが、ついサイズ違いの大きい方も別途購入してしまった。

そのことを黙っておいて、家族で小さいほうを使っておいてから、しばらくしてコドモにパッと大きい方を見せて、
「ほら、しばらくおいておいたら、コップが大きくなったんだよ」
と言ったら……。

あわてて、父親に報告に行っていました。
夫は……絶句していたようですが。

なあんだ、となってから、
「ではなぜガラスのコップは大きくならないの?」

ナンセンス大会みたいですが、
素朴なきっかけのようなもので遊んでみました。

2008-07-20

サイエンスにとって、コトバって。

そうやってひとつひとつ自分で判断していく生活って、やっぱり気持ちよいと思いますよ……などと前々回書いたのですが、そのあなたの「ひとつひとつ判断」が小うるさい、そういうこともあるよなあ、とも思います。もっと言うとそういうあなた──この場合わたし──こそ、信用できない、というような。

まあ、こう言ってはなんですが、教科書以外のサイエンスものというのは、多かれ少なかれ、そういう疑念を持たれつつ、読み進められていくのではないでしょうか。そんな時に本を書いた人が科学者本人と記されていると「科学者が書いた本らしいんだけどね」と言っていちおう「信じなければならない」という効力が働くし、名実共に、これはかなり絶大です。

「でも、こういうのは別の人が書いていたりするんでしょ」と、最近の方はいろいろご存知であったりして、そうさっと肩書き通りに受け取ってもらえない、ということもある。科学の紹介にはさほど興味がないという科学者が、実際に話したことだけども、要するに誰かがそれをいっしょうけんめいまとめたものであって、科学者はそれほど真剣にチェックしていない、ということもないとは言えない。

しかも実際問題として科学の紹介というのは、科学そのものとは別に一領域というぐらいのボリュームのあるものだから、いわゆる一般向けの科学ものの書き手が科学者や博士で、それぞれ専門分野がある場合でも、その人の中心的な関心がすでに科学の紹介に移っているということも少なくない。

いずれの場合にしても、読者の疑念を晴らせないというのであれば、本としては、かなり致命的だと思う。ふりかえって私と理論物理学者の共著による『ようこそ量子』はどうなのか、というふうに。

サイエンスものにおけるうさんくささ、ストレートでない感じ、筆者が(科学者ではないために)たどたどしくひとつひとつ判断しているめんどくささ、といった問題性は、いったいどこから来るのか──というと、科学するにあたって、さしあたりコトバは要らないことから来る、と私は思う。科学者の頭の中では、その考えは、私たちがよく知っているようなコトバでは構成されていない。だからそれを一般向けにコトバにしようとした途端に、決して小さくはないズレが生じる。これはだから、誰がどうしようと、不可避だと思う。ベストを尽くすべきなのは、そのズレを最小限にくいとめることだ。

そのズレをなんとか最小限にくいとめられたかどうかを判断できるのは、厳密には、やっぱり科学者にしかできないことだと私は思います。だからそれを判断してもらうために、私はことばにしなくちゃいけない。ものすごいボリュームのある今後どう成長していくかわかんない新しいことを、簡単なコトバにするという意味では、コピーライターのメソッドそのままですので、そういう感じに取り組んでいます。

2008-07-19

郵便局の待合いは、路上であった。



私はあまり郵便局に用事がないのだが、いくつか溜まった用ができて、家の近くの郵便局へ行った。夏の郵便局は、かもめーるの季節である。と思っていたところが、昨今はそうでもなくて、店頭はふるさと小包のようなものが一押しであった。決して広くはない──椅子も2つしかない──待合いは、地元の人々で意外にも混雑している。小津映画のような会話が現実に交わされていて、ちょっとした風情さえあった。

と、そこまで言うのは、私がよほど面倒な手続きを頼んだらしく、すっかり待たされたからだ。用事をまとめすぎたのである。そうやって立ったり座ったりして待っている間に、ふと、床面を見ると……な、なんとマンホール?

郵便局の建物内の待合いの床面には、消防庁のマンホールがあったのである。しかもみんな平気でその上を踏んで簡保の申請をしたりはがきを買ったりしているのだ。しかしいったい、ここは室内でないどころか、敷地内でもなくて、路上なのか?

というわけで、郵便局の待合いという「場」について、とくと考えさせられる、マンホールなのであった。

2008-07-18

はじめの定義が受け入れられない。

サイエンスカフェでの参加者の質問や、サイエンスものの読書の感想を聞いていると、読み手が、科学者が最初に提示している「定義」を受け入れないまま、最後まで聞く、または読んでくれていることがある。しかも、どちらかというとよくあることのような気がする。

明言していない人も含めると、実は最初の定義に納得していない人は、ほとんど全部なんじゃないか、と思うことすら、私には少なくない。

しかしこれは実にソンなことであるし、せっかく話を聞いてもそのエッセンスをだいぶ逃してしまうように思うのですよ。

科学者は、はじめに定義を置くことによって、その先に解明すべき道を拓く。そして研究の推進によって、あることがわかる。で、その先になにがあるのか、というところで私たちと出逢う。一般講演でも、サイエンスカフェでも、サイエンスものの書物でも、開かれたこのようなソフトウェアはみんな、基本的にはこの構造をしていると思います。

ところがそのスタートラインの定義が、「わたしの定義」と違うと言ってしまうと、その科学者の上になぜ研究の道が拓かれたのか理解できないし、解明されたことの意味や意義も問うことが出来ない。それは気ままそうに見えて、実はあんまり面白くない聞き方なんじゃないだろうか。

これを逆手に考えれば、定義がちゃんとしていない人の話は、やっぱり信用できない、というふうに確からしさを測るものさしにもなります。そうやってひとつひとつ自分で判断していく生活って、やっぱり気持ちよいと思いますよ。

2008-07-17

取材の録音を聞くと、知らない時間が流れていた。

前回、科学者本人が自分の考えを話すのを直接聞く機会は重要だ、という話を書いたのですが、そのような機会として、最近2,3取材の機会があって、その時の様子を録音したものを聞いてみると……というのが今日の話です。

いわゆるテープ起こしというのは、一般に──って何が一般になのかかなり不明ではあるけれど──あとで聞いてみると、相手の話を自分が少し取り違えていたり、気の利いたことを言えなかったりしているのを発見して、ポリポリって感じに頭を掻いて、まあしょうがないか、というようなものではないだろうか。

ところがその最近の2,3の機会で、テープの中の私は、相手の研究成果に関する説明を聞き、それに応じて、その成果が持つ意味とか意義という一歩踏み込んだ内容について切り返したり、つじつまが合わなく思えることを端的に質問したりして、それが相手にとってもそこが疑問だと思うのはよくわかるという質問になっていることに、とても驚いた。そんな手際のよい取材だったっけな?

こういうのは、かなり自慢に聞こえるかとは思うのですが、実はこれを聞いている現在の自分というものは、テープの中の私の言動をまったく予測できなくて、そこに流れている時間に、ぜんぜんついて行けないのである。

やれやれ。どうなってるんでしょ、一体。

そこでこれがその、例のミラクルじゃないか、と思うわけなのである。科学者の話は直接聞く時、私がいつも考えているのは、この人も人間だから、人間の考えであるからには理解できるはずだ、というそのことであるような気がする。というか、そういう考えによって、私は話の内容に集中することができる。そのようにして相手の考えに入り込んでいくと、おそらくその考えの流れで理解しているために、その時はあるすばらしい速度で、わかるのである。いったんわかれば、その後一瞬わからなくても、よく聞き直せば思いだされることもある、ということもあって都合がよい。

ただまあ、現場の時、本番のツキが過ぎてしまうと、どうしてそこで自分が急にそれを理解できたのか、かなり別人28号、ではある。

2008-07-16

科学のはなしが持つ、ほんとうの輝き。


将来研究者になろうと思っている人は、きっともう気づいていると思うんだけれども、セミナーやレクチャーやワークショップや、つまり科学者本人が自分の考えを話すのを直に聞く機会はたいへん重要で、いいことがいっぱいあるから、逃さない方がいい。

私が科学者によく会うようになった最初のころ、この人たちは忙しいはずなのに、なんて「非効率」なんだろう、と正直、思った。

世の中はビジネス書流行りで、みんな息せき切って、「時間を有効に」するために携帯したり、メールしたり、テレビ会議したり、コピーの裏紙を使うのをやめてみたり、スケジュール帳を工夫したりしているのに、たとえば──というか特に──なんでわざわざカンファランスとか講演だとかなんだかんだで出張するのかな、と。それってメールで済まないの? テレビ会議で済まないの?

「いや、それをしにいくんですよ」と彼らは言った。

そうなのだ。それ、というのはつまり、本人が話すのを聞き、そこで自分が思いつく新しい考えのために、そのようなその貴重な時間のために、地球上の決して小さくはない空間を飛び越えて行くのである。

「メールで済むことは、メールで済ませますよね」

確かに。彼らのことだ、メールで済むならとっくにそうしているはずだった! もとより、彼らはぜんぜんヒマじゃないのである。趣味でわざわざどっかへ行ったりしなし、さらには(おそらく誤解されているのではないかと思うのだけれど)ちょうど商習慣のように、この業界ではそういう習慣だから、という理由でやっているわけでもないのである。

でも、わざわざ本人に会わなければわからないことって何なんだろう?──ところが最近、その時間の持つミラクルが、ほんの少しだけど、私のうえにも降ってきてくれるようになったのである。

そういうわけで、私はこのところ、夫──彼はかなり「ビジネス書実践派」だ──に言っている。なぜ会議中にケータイしなきゃいけないの? なぜメールを即レスするの、1時間、3時間早いって重要? それって「非効率」だよ、と。

2008-07-15

気温が40度を超えると、冷房は効かないらしい。


今日は、初めてのハウスクリーニング、の話です。エアコンの内部を放水で洗浄してくれるというエアコンクリーニング・サービスを申し込んだのである。

約束の日になると、エアコンクリーニングのおにいさんがやってきた。仕事の次第を話しながら、エアコンを長く清潔に使うにはどうしたらいいかを伝授しながら、所定の作業を終えて帰っていた。で、さすが毎日何台もの各家庭のエアコンの実態を目撃しているだけあって、なかなかに豊富な話だったのですよ、これが。

そこでまずエアコンの運用についてまとめると……

・エアコンの内部の状態が悪く原因は、1に湿気、2にホコリ。
・冷房をかけると内部に湿気がたまるので、ドライか暖房をしてから運転停止するとよい
・内部がかびているのは、設置場所の影響
・フィルターは掃除すること。だめなら換気扇用の紙フィルターを貼るだけでも効果あり

うーん、言われてみれば、確かにそうというものばかり。また湿気がたまる原因は屋外機へのチューブが、屋外機へ向かって下降しているかどうかにも拠るのだそう。つまり、あまり何メートルも横ばいになってから落ちるようだと、湿気の排出が悪いわけです。

またいらした日が、今日から夏? っていうような暑さの日で、朝からてんてこまい、という雰囲気の中で。

──とにかく、日本でいま出回っているほとんどのエアコンは40度以上の気候を想定して作っていないから、効かなくなっちゃうんですよ。温暖化でね、そのうちまずいんじゃないかなあ。

そういえば洞爺湖のサミットが閉幕したけれども、もちょっと暑いところでやればまた別の結果が出たのかも、とふと思いました。

2008-07-14

AIBOへのラブ・コール!?


マクドナルドのハッピーセットで、いまついてくる景品がこの犬の形をしたロボット「idog」である。この色は「シャドー」。このほかに「ほのお」「スカイ」「ポテト」があり、全4種類だ。by SEGA TOYS。

実は先だって、ロボカップにずっと取り組んでこられた公立はこだて未来大学の松原仁教授の一般講演を聞いたのだが、その際いくつもの映像を見せてくれて、中でも「四脚リーグ」が印象的だった、そのことを私は思いだした。

「実はこれがいちばん人気があるんですよ」
と松原教授は言った。

そうなのだ。これは要するにAIBOのリーグであって、かわいいAIBOたちがボールのまわりでじゃんじゃん蹴ったり、おおよろこびしたりするのは──それがサッカーかどうかはともかく──こりゃ誰が見たって、相当かわいい。

「だけど、こんどからなくなると思います」
えっ!なぜ? そう。SONYがAIBOをやめるからである。
「残念なんですけれども」

ホームページによると、四脚ロボットリーグは1998年に実機リーグに加わったという。それが第一回の「ロボカップジャパン」としての公式戦@東京・青山なのだそうだ。きっと、ロボットがまだあんまり動けなくて、さぞ立ち往生してしまったりしていた時代から会場を湧かせていたのが、AIBOたちのいる四脚リーグのフィールドだったのであろう。

そう思っていた矢先のidogである。猫型ロボットといえばこれはやっぱりドラえもんで、その地位はゆるがないけれども、犬型ロボットといえばこれはもうかなりAIBOである。その空席に登場したidogは、ロボットとしては特に動いたりしない(ファンクな音楽が鳴って、ライトが点滅する)、いつものマクドナルドのおもちゃである。デザイン的にはちょっとソフトバンクのケータイを思わせ、シャキッとした色遣いだ。(もうちょっとパントーンだと、よりアトラクティブだったかも)


こちらが、バックスタイル

idog(製品版)の公式ホームページはこちら。音が出ます。

2008-07-13

人生の確率と、想像力について。

小島寛之監修『人生の確率』宝島社文庫
を読んだ。おもしろかったですよ。
たとえばですね、

1 オリンピックに出られる確率
2 ミリオンセラー作家になる確率
3 オレオレ詐欺でだまされる確率

のうちどれが一番確率が高いと思いますか?
と私が言うとしますね。本にある答えは

1 0.007%
2 0.0065%
3 0.008%

だそうです。どうです、当たりましたか?

しかしこの本には、どういう統計方法をとったかが明記されていますので、これをいちいち読み上げていくと、きっと「なあんだ」とも思われるんじゃないかとも思うんです。そうすると最初の印象がぼやけたり、逆にある条件下の数字よりは、自分の直感のほうが正しいようにも思えたり……ということになってくると、結局、「まあまあ」統計なんてもんはつかずはなれずにしときゃいいんですよ、てなことにもなりそうです。

しかしホントに、そういうもんなのか?

そこではたと気づいたのですが、アクセス解析のローデータじゃないですけど、やっぱり生の数字を見て、統計としてどうまとめるか、という発信者の立場に立たないと、統計って見えてこないよなと。それを受け取るほうから考えると、役に立って、現実にも合う数字をだしてくれよという、それに尽きるわけですが、そうだからこそ疑心暗鬼になってしまうという部分もあって、その当の数字が真に活かせないのではないか。

出す方の身になって考えると、こうすればこういう数字になるし、ここを何かと「見なせば」やや驚くような、数字にもなるよな。……でもって、この数字全体が語るところと比べて、どの数字を「答え」として選ぶのが近いかな──と、たぶんこう考えるんじゃないですかね。もちろん方法としてはきちんと手続きを踏むのですけれども。

一般に科学的な想像力が育たない原因というのは、自分が科学技術を発信する立場に行くことへの想像力の不足から来るのではないか。そういう気もしつつ、最近、確率統計づいているのであります。

週刊リョーシカ!
「確率の考え方編」

2008-07-12

優雅なティータイム。


行きがけに夫が、私の机の上を見てぎょっとしたのにはわけがある。スウィーツっていうんですか、チョコだのクッキーだのがごっちょり載っていたからなのである。

というのも、私は甘いものが好きじゃない。いやいや、やせ我慢とかいうんじゃないんですよ。で、そういうと必ず酒好きかと訊かれます。しかし、実はそれも違ってですね、ただ単に、甘いものを食べるととても満腹になり、胃がもたれ、全体に活動が鈍くなって、しまいには眠くなる。なんだかよくわかんないけど、まったく食べないとかいうのではないけれども、いけないくちなわけです。

というわけで、夫にしてみれば「どうしたの一体?」と思ったわけですね。

「もしかして、リョーシ??」

そうなんです。ところが、量子の原稿をやるときだけは、この糖分のチャージが欠かせないのだ! なんでか知らない。脳がリクエストするのである。

あんまりチャージしすぎると、やっぱり眠気につながるんですがね。

2008-07-11

日々是ブログ



日々是ブログを書きたいものです。これは、そういう時に着るTシャツ。

[ごあいさつ(再)]
広告活動一般を(広告の世界では)「コミュニケーション」と呼びます。そこで科学の広告人というつもりで「サイエンス・コミュニケーター」と言うと、ところがこの「science communication」という活動は、かなり違ったもののことを指すんですね。具体的にどんな地位や役割で活動しているのかは地域によっても違いますが、一般的にはより大学などに密着した広報セクションのようなイメージかと思います。

そういうわけで、まだ手探りの部分が多いのですが(このところ科学ばっかりやってるコピーライターという意味で)、とりあえずそのまま「サイエンスコピーライター」としました。日々是サイエンス、日々是広告という感じで書いていきたいと思います。

※右欄に掲載していたものを移しました。

2008-07-10

リョーシ猫のふかふか読み。



作家の金井美恵子さんが、そのエッセイの中で、本というのは最初の1、2ページを読めばだいたいわかる(1ページだったか、2ページだったか、……正確には覚えていません。こんど調べておきます)という趣旨のことを書いていた。

ビジネス本が「趣味」という夫に、つい「良書を読むための条件は、悪書を読まないことである」と言ってしまうリョーシ猫であるが、悪書を読まないためには、最初の1、2ページで悪書かどうかが判断できればきっと都合がよいであろう。

私が思うには、最初の1、2ページを読んでもわかるのは、書いた人がどういう人で、この本を書いたについてどういうつもりか、ということである。その人がこの先どういうことをするか(この先何が書いてあるか)は、しかとはわからないが、どういう人かはわかる、というわけだ。どういう人かは、本を読む動機としてはとても大事なことだから、誤解を恐れずに言えば、金井美恵子さんが書かれていることはよくわかる。

だが一旦本を離れてみると、何者かであるよりも、たとえばいわゆる肩書きよりも、その人がなにをするか、その行いのほうが大切だという考え方には、たいへん共感する。でもって本へ戻ってきて、私はこんなやつだけど、これからいろいろ芸するから見てくれよ。見ないで帰ってしまって、おもしろくなかったって言われてもあんまりじゃないか。──ということになりかねないわけだよなと。

だが、あえて言えば、そういうことも含めて、「どういうやつか」というのが、テキストのすべての中に、そして最初の1、2ページには「特に」現れているように思うのだが、どんなものだろう。

ついでに猫が、ちょっと興味を持ったものを、片手の肉球でちょんちょんと触って、それっきりどこかへ行ってしまう、あの仕草をどうも思いだすのだが。(というわけでふかふか読みってば。)

2008-07-09

NPOでやりましょう。



リョーシ猫の分際には荷が重いことであるが、この先NPOでやりましょうなんて言われないとも限らないので、機会のある時にと思って、東京都の区が主催する「NPO会計講座(中級)」に参加してきました。

実際のところ、科学の教育や普及啓蒙はいろいろなことが考えられるので、研究者がふだんの研究とは別にNPOというかたちで活動していることも多いわけなんですね。理科の実験のようなイベントで教えたり、山歩きしたり、といった夏休み向けの催しも、時々NPOが主催しているのを見かけたりします。

さて今日、実際に2時間半というちょっと長めの講座に参加してみて、これまではやはりNPOという立場に特化した会計について考えてこなかったなあという、まあ当たり前といえば当たり前なことに気がつきました。

そして講師の方だけでなく、長年NPOを支援してこられたと察されるイベント担当の職員の方ともちょっと話し込んでしまったりして、いずれも話題になったのは、

NPO会計には「会計基準」がない!

という驚くべきジジツなんです。いやもう、これがいちばんのNPO会計のキモだろうと、リョーシ猫は思いますよ。

「会計基準がない!」んだから、たとえば「一般の企業会計とどこが違うか?」という問題も原則的には立てられない。ってことになります、考え方としては。

現場では、まあそうも言っていられないので、大体以下のどれかに準拠することになるようです。

1現金主義 ※個人の場合はほとんどこれですね
2旧公益法人会計 ※財団法人・社団法人も、現在は3へ移行
3企業会計

このうちどれがいいかというと、もちろんどれでもいいのだが、見本として提示されるのは、2が多いのだそうです。いちばん馴染みのない会計だと思いますけれど、そういうわけで別にどれでもいいわけです。

ちなみに本日の講師脇坂誠也さんのブログ「NPO会計道」はこちら。
のぞいてみたらNPO会計マニュアルのダウンロードもありました。

2008-07-08

軽井沢、よけいに過ごす時間。



今まであまり意識しなかったのだが、出張で国内のどこかへ行って、駅へ降りて、そのなんというか当然駅の中で用が足りると思っていたことができなかったり、ひどくさびれた看板なんかに目が行ったりして、バスが出るまでに、せっかく来たんだからなんかしようとして手持ちぶさたになってしまったりする時間があって、東京へ帰ってきてから、それらのことを一番よく思いだしたりする。なぜかと考えてみると、つまりどうして私はここへ来ちゃったんだろう、もしここで生まれていてここが私のホームタウンだったら、どういうことになっちゃっただろう、と私は思っているのだ。そこで、それらの初めて見た風景がひどく記憶に残ってしまうことになるんじゃないかと思うのだ。

もし駅前のこの看板が見慣れたものだったら、遅刻かも!と思いながらその脇を駆け抜けていた時期があったとしたら、そのようにしてその風景がいつまでもあるものと思っていたとしたら。

旅先にはこういうどうも「よけいに」過ごすような時間があって、このような幻想が発生しやすいようにできている。……と思っていたら、最近たまに科学者と同道するようになったら──科学者みんながそうだというわけじゃもちろんないんだけれども──彼らの道中というのはどうも点と点を結ぶ直線のように明々白々としていることを知った。つまり彼らはどうも、道ばたで名物のだんごを軒並み売っているのに、売り声にさえ気づかず目的地を目指す傾向があるらしいのである。この理由は簡単で、道ばたには彼らの興味を引くものがないからなのだ。ついでに、もし興味を引くものがあればそれについていつまでも話しているというのも、また彼らなのである。

ただまあ、夏の軽井沢へ来たらふつうは駅前にあるアウトレットのモールへ行くことになっているらしい。そこには主にスポーツ用品のアウトレットモールがずらりと並んでいて、しかもひと区画が大きいので、全体としてはなかなか壮大な景観である。軽井沢には北口と南口があり、アウトレットのモールは南口にある。ちなみに線路の上空には通路が架かっているので、北口と南口は自由に往来できる。その北口寄りからふと見下ろすと、在来線のホームがひっそりと電車を待っているのだった。

2008-07-07

街で見かけたマトリョーシカ。

アフタヌーン・ティー(Afternoon Tea)のマトリョーシカ特集



『週刊リョーシカ!』というサイトをやっています。2007年10月の公開時から、ほぼ毎週アップしているので、だいぶ記事がたまってきました。マトリョーシカが出てくる、色遣いも明るめのサイトですが、実は「リョーシカ!」=量子(化)に関する科学コンテンツ。力を抜いて「量子」に親しんでいただこうという趣旨です。

しかし、この夏はいつもの科学コンテンツに加え、「マトリョーシカ」を特集する新連載『ほんとうのマトリョーシカ。』を、開始しました。誕生から世界に知られるようになったきっかけ、語源やロシアでの受け止められ方など、さまざまな角度から「マトリョーシカ」に迫ります。

そんな「マトリョーシカ」ですが、ところで最近は、街でも時折その丸い姿を見かけませんか? お人形としてだけでなく、バッグの柄になっていたり、キーホルダーになっていたり、ポットウォーマーになっていたり……。目に飛び込んでくると、おお、こんなところに! とひとしお感慨深いです。

2008-07-06

情報処理、むかしばなし。



情報処理というと、ふつうはコンピュータを思い浮かべると思う。つまりキカイの中でデータがどう取り扱われて、計算されて、どう答えが出てくるか──という一連の過程が情報(information)を処理する(processing)ということですよね。

情報処理にちなんでその学会「情報処理学会」というものが、1960年に設立されたと、wikiに載っている。それで唐突に思いだしたのだが、私の父はプログラマーで、表紙に「情報処理」と書いてあるその会報誌がかつて、確かに家に郵送されていた。たしか毎月だったと思う。そしてよくあるように、それはただ溜まっていった。ひどいときは袋に入ったままだった。一定期間が過ぎると母がビニールひもで縛って、そのうち物置へ運ぶのだった。要するに、たぶん誰も読んでいなかったんじゃないかと思う。

しかし、その表紙に横書きで書いてある「情報処理」というものに、私は可能性を感じた。「情報処理」なんて言っちゃったら、世の中なんでも「情報処理」じゃん、と私は思ったのだ。「情報処理っていうのはきっと、数学の計算過程みたいなものだけじゃないのよ」と、私は言った。のちに物理学者になった妹がその頃よく読んでいたスヌーピーの漫画の中のルーシーのように。

勉強してテストに備えることそのものだって情報処理だし──そう、情報処理にはかならず「ストレージ(データ保存)」がからんでくる──、母がときどきなんか思いつくのだって情報処理だし、うちの犬──それはスヌーピーと同じビーグル犬で、科学者にちなんで「クーロン」という名前だった──が、人間がおでかけしそうだと判断するのだって、「情報処理」という言い方があるからには、情報処理でないとは言えない。また人によって効率悪そうな情報処理もあれば、少ない手数でかなりいい答えを出す情報処理もあるということにもなるし、聞いている人の反応を見ながら適当に冗談を交えて話せる人なんかは、処理が速くてダブルタスクだよな……等々。

そういう幅広い意味合いで「情報処理」を考えたいと思うわけなのだが、しかしあの大昔の『情報処理』には、いったい何が書いてあったんだろう、と改めて思いもする。以前どこかで読んだ記憶のある「○○についてくさるほど名言を吐いているスーザン・ソンタグ」という言い方を借りれば「情報理論についてくさるほど定義を遺しているクロード・シャノン」のことでも書いてあったのだろうか。

2008-07-05

NIIの市民講座で科学の最先端をキャッチしよう。


昨日、国立情報学研究所(NII)の市民講座に参加してきました。国立情報学研究所の市民講座をはじめて知ったとき「8語でつかむ情報学」という年間共通タイトルで開催していて、こう言われるとほら、忙しいしいけないだろうと思っても、「情報学」って括りのキーワードを8つ知ったら、ちょっと面白いかもな、ということぐらいは伝わる。で、その「情報学」というのがですね、と話の進みようもあるわけだし、実際、その中味はたっぷりありますし、非常に現在の暮らしを未来へ向けてサポートしてくれるような技術も多いのです。

このように活きた科学技術についてその分野の専門家が最近の成果を語るという趣旨がビジネスパースンに合っているからか、国立情報学研究所の市民講座は、毎回ビジネスパースンの参加がとても多いのが他にあまり見られない大きな特徴です。竹橋というアクセスのよさもあるが、これがたとえば幅広い教養目的のようなものだと、なかなか働き盛りの方々には来ていただけないのではないかと思いますね。

さて本年度は「未来へつながる情報学」というシリーズタイトルで、昨日は第2回目の開催。画像処理の話題でした。「画像処理」だけとなるとこれはかなり特殊な話であるわけだが、講師の杉本晃宏(コンテンツ科学研究系)教授が「とにかくいっぱい動画や画像を用意してきました!」とおっしゃるだけあって、参加者はもうとにかく次々観ることによって、画像処理の課題をつかんでいく構成。専門的なものを一般向けに(うそなしに)伝達するには、話題を切り出す技術が欠かせないわけだが、その意味でとっても思い切りのいい、すがすがしい構成でした。

市民講座ではこのあと質疑応答コーナーがあり、ロボットの研究で知られる稲邑哲也准教授が会場の質問(参加者に紙に書いてもらってその場で回収する)をとりまとめて、講演者に質問する。稲邑先生の質問は、会場からの質問をいったん自分の関心に引き寄せて、主体的にギモンを投げかけていくスタイルである。あんまり目立たないかもしれないけど、稲邑先生の「本当に知りたい」ために発せられた質問と、それを満たそうとふんばる答え。これがまた、NII市民講座のもうひとつ、面白いところなんじゃないかと私は思う。

2008-07-04

ベストセラーは駅弁だ論。


一介のサイエンスコピーライターであるリョーシ猫が、ブログで著名な人の名前を書く時に、敬称をつけたもんかどうかは、どうせ悩んでも仕方ないからあんまり悩まないわけなのだけれど、悩ましくはある。イトイ氏は「氏」、糸井重里だとそのまま。勝間和代さんが「さん」になってしまうのは、私は勝間さんの主宰する「ムギ畑」というサークルサイトの会員であることだし、それに今月末にはレクチャーで──つまり勝間さんのレクチャーに参加者として──お会いする予定なので、そういう対面的なインパクトには、人というものは影響を受けやすい、というわけで「さん」なのである。この反対に、たとえばその方が亡くなっていて、生前にお会いしたこともあるわけないような場合は、歴然と対面することがないわけだから、「という人」としか言いようがない。そのようなことがなんとなく自分の基準になっているようである。

ところでそのイトイ氏が、勝間和代さんの新しいベストセラーにエールを送っているらしい。いや、その前に勝間さんは、この前このブログにも書いた土井さん(土井英司さん)のセミナーにもゲスト出演されているのである。どちらかというとこちらのほうが一筋縄なつながりだと思うけれども、どっこいイトイ氏は「担当編集者は知っている。」というコラムを持っている。幅が広いのである。

そういえば先日軽井沢へ行った時に、軽井沢駅では、伝説の駅弁「峠の釜めし」を売っていた。それどころじゃない、「峠の釜めし」は新幹線内にも額面の広告を出していた。うおお、こんなところで、と思ってしまうが、そうじゃない、こっちが本場に決まっている。しかしながら駅弁は昨今、もはや日常的にデパートで買ったりお取り寄せしたりするもののようになってきてしまっているから、わけがわからなくなっているのだ。つまり有名な駅弁は、最近はもうどこへ行ったんだかわからなくなっちゃうくらい、どこへ行っても出逢ってしまうものなのだ……おお、これって勝間さんのことじゃないか。どこへ行っても勝間さんの話。

誰しもが、昨今。

2008-07-03

非力なアーカイブ。



正直なところ、私はあまり読んだり観たりしない。むしろ、広告関連の書く仕事をしている人間にしては読まなすぎる、観なすぎるのだけれども、まあそういうのはその人のキャパであるからして、やむをえないとも思います。そういえば最近、こういう場合の切り返し文句に「そんなことしたって、結局グーグルには負ける」──これを使っています。結構、使えますよ。

そういうわけで今日は珍しくたまたま読んでいる本の話。

いまちょうど阿部謹也という方の「世間」に関する新書を眺めているのだが、驚くのは、このような意識が、明晰に、新書のかたちで、すでに「前世紀に」出版されていたこと。それなのに、私たちは変わったのだろうか? という点でやや唖然としてしまった。

そういえば、私がすばらしい本だと思う、梅田望夫氏の『ウェブ進化論』も──これはもう、おしもおされぬ部数が出たのだから──世の中を一気に変革して、なんて、読みながら大妄想していたのだが、ま、およそ周囲を見回してもとても一気にWeb2.0へ駆け上がった気配はない(ほとんどWeb0.3ぐらい!?)。しかしこうなると、出版のインパクトって、何なんだろう。(いや、そもそも私の妄想のほうがどうかしているのか!?)

ちなみに梅田望夫氏のMy Life Between Silicon Valley and Japanの2008-06-29の投稿に、『ウェブ進化論』のエッセンス香る講演録が載っています。「情報を頭にいっぱいつめこんで……そんなものは、グーグルに必ず負ける」という記述も。

Web0.3の方(だから視力じゃないってば)、今からでも遅くない!『ウェブ進化論』を読もう。実は『ウェブ進化論』については、2006年に以前のブログ「rikeyaのブログ」にいっぱい書いたので、古いものですが、よかったらご覧ください。

2008-07-02

軽井沢から箱根、日光、そしてなぜか高円寺へ


図書館に予約していた福田和美著「日光鱒釣紳士物語」(山と渓谷社)が来ているという。どうして「日光鱒釣紳士物語」なのかというと、2008/06/27付けのニュースで立松和平氏がその作品について、栃木県日光市職員の福田和美氏から記述が類似しているとの指摘を受けたといっており、その福田氏の著作というのが「日光鱒釣紳士物語」(山と渓谷社)だからなんです。

このニュースのおかげで──類似しているかどうかについてはまったく何も知らないのですが──私はこの二つの本に「昭和初期に中禅寺湖で鱒釣りに来ていた外国人と地元ガイドとの交流」が描かれていることを知り、ちょっと読んでみたいと思ったわけなのです。

というのも、そのたった前日の2008/06/28、私は軽井沢へ行って、日本の中にある外国人の避暑地についてちょっと考え、さきほどアップした「ほんとうのマトリョーシカ。」で、かつて箱根にあったロシア正教の教会というものについて(写真画像が現存。というかウェブで見られます)ちょっと考え、しかしまあこのぶんだとなんだな、知りうる道も行き止まりかな、などと思っていた矢先だったからだ。

鱒釣り、外国人、避暑地、地元の人……とくれば、これは矢先の「日光版」かもしれない、いや濃厚にそのようではありませんか!

ただ、こういう「ひもとく」系というのは私にとって盆栽みたいなもので、ごく呑気な趣味性のものです。マン盆栽みたいに仕上がれば素敵なんですがね。

ちなみにリョーシ猫こと私が以前から気になっている、ひもとく系の近所ものがありまして、それが高円寺の遊園地ってやつ。これに関するおすすめリンクはこちら↓
終戦前に出現!? わが町ウォーターシュート物語 
このリンク先にも古い写真がいろいろ掲載されているのですが、この古い写真をウェブで収集し閲覧できるようにするというのは、いろんなことに役立てることができる、とてもいいことのように思います。

2008-07-01

プリンストン大学とKindleの話


ファイルの日付を見ると2008/05/02の、amazon.comのトップページのキャプチャです。ふだんならオススメ図書がずらりというページが、この一通の手紙──経営者からの親書だ──に替えられているのだから、これはきっと、そうとうな意気込み。これ小さくてわかりずらいですが、「Kindle」というツールの出荷準備ができましたというご案内なんです。「Kindle」なんて、日本ではそんなに紹介されていないけどなあと思いながら、カシャっと撮ったキャプチャです。

ところが今日見ると、プリンストン大学、「Kindle」版の教科書を提供へというわけで、イェール大学、オックスフォード大学、カリフォルニア大学バークレー校に続きプリンストン大学(関連した話題を、私の音楽ブログ「響けブログ」に載せています)が対応したのだそう。

まあそれだけであればアマゾンの戦略の話ということにもなるのでしょうが、「Kindle」を使うメリットというのが、学生たちが重い教科書(約5kg)を持ち運ぶより、200冊分の書籍を約300gで運べるほうがいいじゃんというのが、うーん、そうくるかと思いましたね。ついでに、最近の学生は「print」と言わず「copy」と言うんだそうで──なんて言い始めると、一気にジジむさくババくさい話になってしまいそうです。

いや、私が「そうくるか」と思ったのはなぜかというと……初めて「Kindle」を知った時は、こういうツールはエッセイやコラムを読むのにいいな、と思ったんですね。書籍は書籍で読みたいし。つまり棲み分けです。しかし新しい技術が登場する時というのは、まったく別のメリット、まったく別の価値を示すだけで、既存の物との入れ替えを迫るんだなあと。

じゃあま、そういうことならば、個人的には、やはりもう3ステージぐらい大画面だったり(モニターなしで文字を浮かび上がらせるなんていうのもいいなあ)、目に負担がかからなくなったり(脳に直結とかね)なんていう方向も、いいかもしれないです。

しかし使うだけっていう立場はラクだけれども、えてして面白くはないですねえ。(なぜって使うだけだから!)