2008-07-20

サイエンスにとって、コトバって。

そうやってひとつひとつ自分で判断していく生活って、やっぱり気持ちよいと思いますよ……などと前々回書いたのですが、そのあなたの「ひとつひとつ判断」が小うるさい、そういうこともあるよなあ、とも思います。もっと言うとそういうあなた──この場合わたし──こそ、信用できない、というような。

まあ、こう言ってはなんですが、教科書以外のサイエンスものというのは、多かれ少なかれ、そういう疑念を持たれつつ、読み進められていくのではないでしょうか。そんな時に本を書いた人が科学者本人と記されていると「科学者が書いた本らしいんだけどね」と言っていちおう「信じなければならない」という効力が働くし、名実共に、これはかなり絶大です。

「でも、こういうのは別の人が書いていたりするんでしょ」と、最近の方はいろいろご存知であったりして、そうさっと肩書き通りに受け取ってもらえない、ということもある。科学の紹介にはさほど興味がないという科学者が、実際に話したことだけども、要するに誰かがそれをいっしょうけんめいまとめたものであって、科学者はそれほど真剣にチェックしていない、ということもないとは言えない。

しかも実際問題として科学の紹介というのは、科学そのものとは別に一領域というぐらいのボリュームのあるものだから、いわゆる一般向けの科学ものの書き手が科学者や博士で、それぞれ専門分野がある場合でも、その人の中心的な関心がすでに科学の紹介に移っているということも少なくない。

いずれの場合にしても、読者の疑念を晴らせないというのであれば、本としては、かなり致命的だと思う。ふりかえって私と理論物理学者の共著による『ようこそ量子』はどうなのか、というふうに。

サイエンスものにおけるうさんくささ、ストレートでない感じ、筆者が(科学者ではないために)たどたどしくひとつひとつ判断しているめんどくささ、といった問題性は、いったいどこから来るのか──というと、科学するにあたって、さしあたりコトバは要らないことから来る、と私は思う。科学者の頭の中では、その考えは、私たちがよく知っているようなコトバでは構成されていない。だからそれを一般向けにコトバにしようとした途端に、決して小さくはないズレが生じる。これはだから、誰がどうしようと、不可避だと思う。ベストを尽くすべきなのは、そのズレを最小限にくいとめることだ。

そのズレをなんとか最小限にくいとめられたかどうかを判断できるのは、厳密には、やっぱり科学者にしかできないことだと私は思います。だからそれを判断してもらうために、私はことばにしなくちゃいけない。ものすごいボリュームのある今後どう成長していくかわかんない新しいことを、簡単なコトバにするという意味では、コピーライターのメソッドそのままですので、そういう感じに取り組んでいます。

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