これはちょっと長い話になってしまうかも。
桑沢デザインというデザインではとっても有名な学校が
「くわさわ生活。」
という広告(内容は卒展覧会とか、学生と卒業生の企画展とかいったものだったと思う)を見て、見ればわかるのだけれども、つまり、これは、かつての西武百貨店の名コピー(ほら、アンディ・ウォーホルが掲げていた……)「おいしい生活。」が本歌に間違いない。ちなみにこの「おいしい生活」原本も毛筆の筆跡で、現在イトイ新聞のオフィスに掲げてあるようであることが、ほぼ日刊イトイ新聞の記事を見るとときどきうかがわれる。
なんでそのくわさわ生活に出会ったのかといえば、それは「若林直樹」を検索していたからなのだが、その話はおいておいてと。
本歌の「おいしい生活。」は──ウィキペディアによれば1982-3年──当時、さまざまな媒体に掲載されていた。私は地下鉄──たぶん有楽町線だと思う──で、比較的小さいサイズのものを見たのを記憶している。その世の中にうようよしている何かの「感じ」というものを(若い時というのはそういうものを感じがちなのだ)こんなふうに凝縮してしまうのか、その凝縮ぶりに唖然としながら、立ったまま何駅ぶんも眺めて過ごした。それがたったの(句点を含め)7文字になってしまうのなら(ビジュアルがあるとはいえ)小説なんか要らないよな、と思ったのを覚えている。ちなみに、村上春樹の「羊」の単行本が出たのも1982年、このふたりが『夢で会いましょう』で共著したのが1981年だ。
いやはや、そんなのもウィキペディアのおかげですぐに調べられる(過信している)。
でももう、当時のようにいろいろな媒体がこぞってこの「おいしい生活。」というコトバを、各家庭へ、お茶の間へ、新聞受けへと配達してくれる、といったことは起こらないだろう。それにしても、こういう本歌取りを感じたのはこれで二度目だ、と思った。1つめは
クインシー・ジョーンズの「We are the World」の
ビデオクリップの素人版@YouTube。これはとてもよいと感じたのだけれども、それでもこのそもそもの「We are the World」という取り組みがなかったならば、この
素敵な素人バージョンそのものが「成り立たない」。「We are the World」の場合はリリース当時
世界8,000曲以上のラジオ曲が同時に、この曲を放送したのだそうだ。
コピーとは、新しい事柄、新商品を世に送り出すためのコトバであり、消費者に買ってもらうための工夫である、とまあ、そんなところだろう。そこで例によって、伊東静雄が招聘されるわけである。
くさかげの名もなき花に名をいひし 初めのひとの心をぞ思ふ
ところで、いまウェブがセマンティックになればなるほど、この「名付け」というものがどうも馴染まないように思われてきた。名付けても、偶然にその名をいう別の人が現れないかぎり、出会うことはない。検索エンジンの扱うデータの量を考えると、これは実際問題としてはヒットすることはない。すると「名」は草の根的にひろがるか、最初からある程度まとまったシステムとしてどんと提供される必要がある。とはいえ「おいしい生活。」と比べればごく小規模だろう。すでにあるコモディティなコトバが、注目度というランクを競いながら、意味を運ぶのだ。
一方コトバの使い方そのものは、より変化の速度を速めているように思う。ということはむしろ、名付けは個人によってではなく、usageの変化として多人数によって同時多発的に起こるようなのだ。
すると「名付けること」がコピーライティングならば、コピーはウェブの普及と進化によって終わり、それはマスメディアの機能と関係している、とまとめられることになる。ちなみにコピーと人々がつくった新しいusage、そのいずれにも、著作権がない。