ふりかえると、世の中にワープロというものが登場したときに、自分の原稿が「活字で読める」ということに驚喜した人は多かったと思う。私もうれしかった。けれども同時に中学の時に短期間だが交換日記をしていた(なんて過去!)人の、その活気ある伸びやかな筆跡をも思い出さずにはいられなかった。そう、当時、ある意味、筆跡の優劣と文章の質とは何の関係もないことを発見せざるを得なかったからだ。
バンド演奏に比べると、言葉は、とっても簡単にできた気になれる。アスキーコードのおかげというか、たぶんそういうのは言い方がよくなくて、言葉というのがそもそもたいへんに「記号」だというところから、ずるずると導かれてくるものと思う。そういう記号を扱えるのはまこと人間の能力なのだなあと思います。
……ということを、実はいまUSTREAM(「向谷実&和泉宏隆 ピアノ連弾」)を観ていて思った次第。これはリハのベタ収録(ライブ配信のアーカイブ)なのですが、プロセスの配信、部分の配信によって、「で、本番はどうなったんだろう」「で、全体としてはどうなったんだろう?」ということを人は思いますね。
記号と再帰—記号論の形式・プログラムの必然 | |
東京大学出版会 |
Everyone Here Spoke Sign Language: Hereditary Deafness on Martha's Vineyard | |
Harvard University Press |
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