2008-11-28

DOUTORのウィンター2008すてきな紙袋。


カフェは私が好きな場所なのでそこそこマメに行くわけなのですが、競争的な理由からか、もっと大きなトレンドなのかはわからないが、カフェの中の、サービスの内容を含めたちょっとしたことが、別々のチェーン店舗で同時期に起こるということがよくある。

スターバックスが紙ナプキンの使用を制限する方向に働いたな、と思ったら、(これをカフェと呼ぶかどうかは別にして)マクドナルドもそうなったし、というようなことだ。

今度はドトールのゆきだるま紙袋。バケツの部分がカップになっていて、ちいさくドトールと書いてある。ボタンはコーヒービーンズ。細部のこだわりは昨年のスターバックスとは違って、版画風ではなくアミ点だった。


こちらは昨年のスターバックスの紙袋。

2008-11-27

チャージと不足金額のふしぎな関係。


先日小田急線の新百合ヶ丘駅というところで降り、自分の駅からはその2つ前の駅までしか自販機で買えなかったので、精算機というものに並んだ。私はめずらしくPASMOを忘れたのである。

順番で前に並んでいたおじさんはSUICAだった。「210円」の残高不足だからチャージするように要求されているのだが、その人の周りには「?」が3つぐらい浮遊していた。そこで私に訊ねてきた。

見ると精算機は、不足金額は210円と表示している、おじさんは210円入れた。それなのに機械が動かない。機械は壊れているわけではないようである。ふしぎだなあ、どうなってるんだろう、というわけなのだ。

つまりこの場合には「不足金額の210円を支払うには、SUICAをチャージしてください」というところが、おじさんにはつながらないのである。パソコンを教えるときに「オブジェクトを選んでから、コマンドを選んでください」と10回言っても「コマンドがグレー表示になっていて選べない」という人がいるのとよく似ている。「チャージが先」「オブジェクトが先」というのがわからないのだ。もっともSUICA以外で払う方法が選べてもいいと思うけどね。

こういうのは誰が悪いとも言いにくく、たぶん私ではないし、プログラマーだって自分の持ち分をこなしたのだろうし、開発責任者はクライアントの指示に従って仕事したろうし、クライアントは指示できる範囲ではがんばったのかもしれないし、ましてや新百合ヶ丘の駅員の人たちはクライアントサイドだというだけで、悪いと言われても困るだろう。だからおじさんが怒ったりしなかったのは、かなり幸いだった。

「不足金額は210円なんですけど、先に1000円とか入れて、SUICAにチャージして、その中から210円を払うようにしないとだめなんだと思います」

ああ、なるほど、とおじさんはわかって、当たり前だが無事精算機は作動した。……ふう。

2008-11-26

イケアのAnnaに質問してみた。


イケアのショップへ行ったのだが、書棚などはあまりにも重かったので、インターネットで注文しようと思って帰ってきたのだが、どうもイケアのサイトで注文する方法がわからない。そこで「Annaに質問」してみた。

「Annaに質問」というのは、イケアのサイトにあるメニューで、FAQあるいは「お問い合せ」の別名なんだろうと漠然と思っていたのだが、使ってみたら全然別のシステムで、ほんとうに「Annaに質問」だった。画像のような画面が出て、スカイプでのチャットみたいに、その場で答えが得られるのである。

そうは言っても誰かとオンラインでつながっているわけではなくて、入力文字を解析して、適切な回答を組み合わせて表示しているだろうと思われる。先日のタラジロウさんの「Exite自動翻訳」をまた思い出してしまうが、こうなるとなんとなく、「Anna=機械にわかるように」書いてしまうところが、私もなかなか人間らしいところである。

さて、annaと私の一問一答は以下のとおり↓

rue: こんにちは
anna: こんにちは。イケアに関する質問があれば、どうぞわたしに聞いてください。

rue: クリスマスツリーは好きですか?
anna: 聞いて下さってありがとうございます。でもわたしは今イケアのために働いているので、それ以外のことには関心がありません。

rue: ダウンロードは時間がかかりますか?
anna: 何か質問をしようとされているのはわかりましたが、お答えするにはもう少し情報が必要です。もう一度、別の言い方で質問をお願いします。

rue: キッチンに新しいテーブルが必要です
anna: いまからキッチンキャビネット&設備機器のページを開きます。

rue: 赤はきらいなのですが
anna: ネガティヴな意見ですが、もしイケアに対してご不満がおありでしたら、お手数ですがどうぞ最寄のイケアストアにお申し出願います。

rue: もし壊れていたらどうしたらいいですか?
anna: イケアについてのことでしたらお役に立てますが、それ以外のことはお手伝いできないと思います。

rue: 組み立てに必要な工具を売っていますか?
anna: 多くの商品では、ドライバーが必要になります。電動ドリルやラバーハンマーなどがあればより作業は進めやすくなります。

rue: 力がなくても組み立てられますか?
anna: 申し訳ありませんが、その質問にはお答えできません。

rue: やかんを売っていますか?
anna: ただいま、ティーポット&コーヒーメーカーのページを開いています。

rue: 黄色いカーテンを探しています
anna: 色をお尋ねになっているのは、どちらの商品についてですか?シリーズ名と商品名を以下の例にならってお教えください。(例:BENNO CDタワー)

rue: ありがとうございました
anna: どういたしまして。他に何か質問があれば、どうぞお尋ねください。

ちなみにインターナショナルサイトで他の国のAnnaに質問してみたところ、国によって担当のAnnaさんも違うようだ。画像右はUnited KingdomのAnnaさん。

イケアストアでは椅子を購入。組み立ての模様はこちら↓
[響けブログ] 「イケアの家具を組み立てた。」

2008-11-25

ヒノデ・ファクトリー「水平線」展へ行った。

OPA gallery
本の表紙でお世話になっているタラジロウさんのグループ展へ行ってきました。それは「水平線」と題された展覧会で、久しぶりに青山界隈へ出かけたわけである。またたいへんな雨の日に行ってしまったんですよね。

展覧会の場所はかなりこじんまりとしたスペースで、作品もかなり小さいサイズで、一人一点という展開であったが、共通点は縦位置の画の横に一本、水平線のような線があるということで、これを辿って次々と絵を見ていこうという趣向である。つまりみんなこの展覧会のためにこの一点を描いたのである。中には手作りの小冊子を置いてあったり、ポストカードや掲載誌、名刺なんかを置いている人もいて、とても活発な感じがした。青山らしいという感じもした。

タラジロウさんは水平線ということに特別な思いがあるようだった。

タラジロウさんの平置き作品はカバーにカーペットのような緑のシートを巻いた「東京水平線」という絵本=小冊子で、モノレールと東京タワーが描いてあった。日本語に自動翻訳の英語がついているのも面白かった。連れて行ったコドモがとても欲しがってひきはがすのに苦労しました。

ヒノデ・ファクトリー

会期は明日まで!詳しくはこちらから↓
ヒノデ・ファクトリー
http://www.interq.or.jp/blue/tara/hf.html


場所は「小公園」の前にあるかわいいギャラリーです。
OPA gallery - shop
http://www.geocities.jp/opa_gs/


タラさんのホームページはこちら↓
日の出グラフ
http://www.interq.or.jp/blue/tara/

2008-11-23

はらドーナッツ、行列の傾向と対策


新宿、銀座のドーナツ屋さんの列は相変わらず、○時間待ち、という状態が続いているようだが、比較的近いところに「はらドーナッツ」というお店ができて、こちらもいい具合に毎日混んでいます。若い女性3人組の店員さんは、ほとんどポリリズムを見ているようなてきぱきとしたワーキング姿が印象的で、並ぶといってもせいぜい10人待ちぐらいだし、なにしろてきぱき進んでいくので、気持ちがいいのです。

それでも待つのが苦手なウチの人々は、ドーナツを買いに行くのではなく、はらドーナッツに人が並んでなかったら買う、という戦略。

それにしても昨今痛感するのはドーナツの魅力で、新しいそんないくつかのお店のおかげで、実は多くの人々が(つまりおいしい)ドーナツを食べたかったんだ、でもってその列、列をみるにつけ、ほとんどドーナツ飢餓状態だったのではないかとさえ思えるわけで、ドーナツっていうのは、ああそんなにも魅力ある食べ物だったんだなあと不思議な気持ちです。

2008-11-22

英語本がさかんになるという予測。



土井英司さんのエリエス出版戦略セミナー年末特別のセミナーの案内を読んでいたら、土井さんが2007年の年末に、今年の「英語本ブーム」を予測していたことが書かれていた。その予想へまるで年内に駆け込もうかというように、英語本と言える水村早苗という方の新刊が今アマゾンで特別に売り上げているそうである。この本について書いたブログなども活発で、また新しいベストセラーの流れをつくりそうな勢いを感じさせる。

ところで現実から離れて、なんか遠い未来に、日本語がどうなっているかなあと思うと──その時は私なんかも、もう死んでしまって、自分のひ孫だって生きていないかも知れなくて、というような未来だ──、「木で鼻をくくった」とか「雨後のたけのこ」とかが、案外しぶとく生き残っているんじゃないか、という気が私はする。今はむしろ古くさいような言い回しというか、歌い方で言えば節回しみたいなもの。

というのも、だいたい英語でも日本語でもたいした違いがないものとか、あっても日本人にしかわからないようなものは、淘汰されてしまう可能性がある。残るのは、人間に共通に、なんかこれはきっと重要だ、と思わせる何かに違いない。でもってコトバ相手だからなにが「重要」なのかは必ずしも定かではなく、「なんか気になる」というようないい加減なところで決まる「重要」であることは十分予想されるわけである。「なんか気になる」というのは、まあ「変わっている」ということでもあるんだけど。

2008-11-21

セレンディピティーとトホホ科学。

セレンディピティーと言えばこれ、という一番有名な人は誰だろうか?──と考えて、いまふとそういえばこれ、少し前までは「ユリイカ」の話として語られていたものに近いなあと思った。
つまり、時期によってコトバにかかるアテンションがぐっと伸びたりしぼんだりすることがあって、たとえば

能率的 → 効率的
カウンセリング → コーチング

という具合で、それぞれは元々別の意味だけれども、一般的にはほとんど混同して使われていて、なのにある時期をとってみると、どちらか一方のコトバが流通している──こういうことが意外と多いように私は感じます。以前こういうのをグーグルでサーチして見つかった件数にどのくらい開きがあるかというのをブログで記録していたが(コトバが目にしみる、というブログだったと思う)どこかへ行ってしまってわからなくなってしまった。

というわけで、余談が長くなってしまいました。

セレンディピティー、科学の分野ではペニシリンの発見などが有名かもしれません。要するに毎日そればっかり、非常に高い精度でやっているから、なんか違ったことが起きたときに、科学者は「何かの間違い」とは思わないのである。さらに、そのいつもと違うことが「もし正しいとしたら……」というところに想像力が働くのである。

こういう日常的な科学者の態度を「構えある心(the prepared mind)」というのだそうです(酒井 邦嘉『科学者という仕事』より)。

というわけで、さてここからがトホホ科学なんですが、この構えあるココロにどうも関係ありそうな(なさそうな!?)科学者にかなり共通の「習慣」(この「習慣」も最近すっかりアテンションの高いワードのひとつですが。)に、やや思い当たるふしがあるのです。たとえば──もし科学者の方がいらしたら、ぜひご自分に当てはまるかちょっと考えてみてください──実証癖。数字記憶のよさ。思いつきをすぐ実行に移すこと。まだ使わないけど回線を用意して開けておくこと……等々。

2008-11-19

Googleという巨大な意志について

東大和南公園

「Google Street ViewやGoogle Earthが好きだねえ」とよく夫に言われるのだが、それが本当に私はこれらが好きなのである。

Googleの真のすごさを一般の人にわかるように紹介してくれた『ウェブ進化論』の著者である梅田望夫氏が『ほぼ日刊イトイ新聞』で言っている。

Googleって、
「世界中の情報を整理し尽くす」
という理念において、それを続けるんですよ。
Googleアースの航空写真にしても、
半年で写真を取り替えるべきだということで、
Googleがチャーターした飛行機は
世界中を毎日飛んでるんです。


『ほぼ日刊イトイ新聞』「適切な大きさの問題さえ生まれれば。」その3(2008-11-17)より

「半年で写真を取り替えるべきだ」という点についてはいろいろな意見があるそうだが、ごくシンプルに考えると、空間と来たら時間なんじゃないだろうか。つまり整理の最新版ばかりではなく、2008年での整理、2058年での整理を考える、というわけである。

しかも整理には手際もあるから、その整理は少しずつ改良されていくに違いない。たとえば現在のGoogle Street Viewには、エラーという意味ではなく、データ間隔の理由などで絵が急に変わってしまって、つながりがわからない場合がある。おそらくそこだけトンネルになっているとか、高架になっているとかなのだが、もし道を走っていたら不自然に思わないのに、Google Street Viewだとなめらかに移行しないのだ。

また時系列といえば、クロールというものがすでに時間的な推移を示唆していて、アンチ定点観測的である。もし隣接するA地点とB地点を5時間も違う時刻に撮影したら、絵がつながらなくなってしまう。

こういったことを統合していくと、「最新」ということを少し犠牲にしてなだらかに空間をつないだり、「時系列」に厳密に空間を探訪したりといったことができるのではないか、と思うわけである。それは私が「期待」とかしたりしても仕方がなくて、まったくGoogleがそうするのかどうするのかということに過ぎない。

いくつか自分の関連記事があるので、よかったら併せてご覧ください。
2008-09-10
Google Street View で訪ねる 9/11の記憶


2008-09-11
画像収集車、グランド・ゼロをゆく


[響けブログ] 2008-10-07
2000年4月11日 ケネディ空港、出国ゲートへ。

2008-11-18

SF(サイエンス・フィクション)とは何だろうか?


自分でもびっくりするような大きなタイトルを掲げてしまったが、実は先日、川端裕人氏の講演会がご近所の図書館で開催され、行って参りました。その際、この「SFとは何だろうか?」ということが、なんだかとても、気になったのである。

実は、私が科学者を何人か知るようになって驚いたことのひとつは、科学者の中にはけっこうSciFi好きがいるということだ。しかしこれは(少なくとも英語圏では)当たり前で、サイエンス・フィクションの柱はサイエンスだからなのである。

自分にとってSFといえばどうしたわけかレイ・ブラッドベリじいさんばかりで、あとは星新一のショート・ショートを読みはしたけれどもそれはショート・ショートという形式について興味を持ったからで、SFを読みたいと思ったわけではなかった。ひょっとすると日本(語)ではサイエンス・フィクションの柱がサイエンスだということは、(英語圏に比べて)察知しにくいのではないか?(あるいは私の負け惜しみなんだろうか?)

さて、ここからふたつ飛躍するのだけれども、まずひとつめは「フィクション」というのを、さっぱりと「夢」と置き換える。サイエンスにとって夢とは何かと考えるのである。(もっともサイエンスにとって夢とは、どこまでもサイエンスだ、という気も、かなりする。だから「夢」というのは若干比喩である。)

そこでふたつめの飛躍は、科学(技術)というのは、人間がこれまで蓄積してきた能力や、実践してきた仕事や、潜在的な可能性を維持するためにあるのではないか、という仮定である。そうだとしたらどうなるのか、そうでないとしたらどうなるのか、ということを扱うのがSFなんじゃないだろうか?

動物園にできること (文春文庫)
川端 裕人
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2008-11-17

マトリョーシカ?


これはクリスマスオーナメントのエンジェルで、それが証拠にパッケージの中味をよく見ると、背中に金色の羽根がついています。毎年このように中味がチョコレートのオーナメントをいくつか買ってツリーにぶら下げて、クリスマスに食べるというのをコドモ向け行事としてやっているのですが、これはかなりマトリョーシカっぽいなあと思って買った今年用。チョコエッグというお菓子では食べると中からおもちゃが出てくるしかけですから、そういうふうに組み込んであったりすると、さらにマトリョーシカな雰囲気に。なわけないか。

2008-11-14

太陽は燃えているか?

今回の話はトホホ科学的にさえ、かなり基礎的なのだけれども、コトバの持つ具体的なイメージ喚起力に力負けする時……という話。

「宇宙には酸素がないのに、どうして太陽は燃えているんですか?」

だって「太陽が燃えている」という言い方はあるし、それにプロミネンスとかフレアは「炎」みたいだし、熱くて、赤くて、まったくもって太陽は「燃えて」いるではないか!──いや、そうではありませんよ。答えは核融合のおおがかりなやつ。酸素と化合する「燃焼」とは違うのでありました。

コトバを真に受けるといえば、そういえば学生さんの中に、スポーツのサプリメントで脂肪燃焼効果があるアミノ酸とやらを飲んで「ああ、燃えてる」「今燃えているのがわかる」という人がいた、という例が挙がった。
「わからないでしょ」
「もし燃えていても、わからないよね」
と科学者たちの意見は一致しているのだが、私からみるとこれなんかもやはり「燃える」というから、そこだけ妙にリアルになってしまうのだろうなと思う。挙げ句の果てに、燃えているのが「わかって」しまうのである。

「燃える」というのは、小さい頃の火災訓練から始まって、花火の導火部がメラメラと燃えていく様子、キャンプで火を起こそうというときなどに新聞紙の赤々と燃える様……といくつもの想い出が生きていて、そういったものはなかなか消火できない。そういった現象の記憶は科学にとっても大事なのだけれども、問題はコトバと強力に結びついてしまっていて、そのことがその先への想像力を妨げてもいるように思うのだ。そこでコトバに「燃えている」と言われてしまうと、自分の記憶のなかの「燃えている」ことになってしまう。

「太陽は燃えているか?」
いいえ、燃えていません。

2008-11-13

「トホホ科学」とは何か。

「トホホ科学」。いったん言い出したのだから、もう少し説明しておくべき、と思った。

日常の体験の中で、ここをなんとか科学的に知りたいなあ、というのがトホホ科学だ。トホホであっても知りたいというところが科学のココロである。

しかし「トホホ科学」にはふたつあって、一つは、先だっての「児童心理学」の話のように、ある問題を見つけてこれを科学的に考えるとこうかなあ、ああかなあとは考えるものの、科学的に考えるには問題が特定できていないとか、対象があいまいだとか、それを分析するツールの持ち合わせがないとか、そういう抜本的な理由で、要するに科学的に取り扱うことができない場合をいう。科学してわかりたいなあ、と思うけれどもできない。科学に辿り着かなくってトホホホホホ……という意味である。

もうひとつはれっきとして科学なんだけれども、専門外の人間には、どことなく滑稽に見える場合をいう。つまり、冥王星が太陽系の惑星なのかそうでないのかがなぜそんなに問題なのか、とか、メバルがシロ・クロ・アカに分かれるというのがどうしてそんなに問題なのか……。いや調べればもしかしたら、一見トホホでも、実は大問題なのかもしれない。だからここはほんとうはよく調べもせずにトホホというのはたいへん失礼なのであるが……、一見、それがどうかしたのか、と突っ込みたくなるような科学を、第一印象でトホホな科学と言ってしまうのである。

ふたつめのトホホな科学は、まず調べる機会があれば、理解したほうがよいと思う。しかし、そういうことをしなくても、そういう大多数の人間にはたいして問題ではないと考えるところを、非常にがんばって研究している人がいるということそのものが、なかなか興味深い。そういうのも含めて人類全体の営みであるからだ。そういう研究がほんとうに必要なのかどうかについて、専門外の人間が判断できることは少ない。しかし「トホホ科学」というかたちであっても関わって楽しめるといいなあ、と思っているのであります。

まだちっとも説明になっていないような、気はしているのでありますが。

2008-11-12

自転車カゴの女の子と児童心理学

今日の話は自転車カゴに乗っていた女の子の話。児童心理学のほうは、たとえば、ということで登場してもらう役です。

おとといバスに乗っていたら、その脇をおかあさんがママチャリを運転し、その前かごの座席には子供が乗っているのが、一陣の風のように、通り過ぎていった。その自転車が私の目に鮮やかだったのは、その女の子がもうかなり大きくて、たぶん小学校の中学年ぐらいで、無理に蹲ったカゴの中から、すこし茶色がかったつやつやした長い髪をなびかせていたからだ。

「ヘルメットをかぶっていないな」と私は思ったが、そこにはなぜか危険な信号は感じられなかった。(でも、ほんとうは被ったほうがいいと思うよ。)

彼女は私の乗っているバスの横を通り過ぎるとき、ちょっと笑った。笑ったというよりも、とても微妙な顔をした。まるで自分の顔にあたる風には、ひとすじ、またひとすじという具合に色がついていて、自由に色を選り分けられるみたいに。彼女はその架空のパレットから、パステルの色ばかりを選んで進んでいった。彼女のまわりには、そんな幸福感が満ちていた。

「おかあさんと出かけるのがひさしぶりで、おかあさんと一緒にいる、そのふつうが楽しいのだな」と私は思った。親が子供を幸せにするのは案外簡単なのだ。(……)

これは私にとって、とても印象的なことであった。ひとつには自転車カゴに乗った女の子の、その表情が。もうひとつは、それをよくもそれだけの情報で解読する私が。

ところがそこからもう一歩、理解を進めようとしても、たぶんどこへも進むことができない。まあ、進めるとしたら、取材だ。バスを降りて、取材だ。しかしそれはばかげている。というのはこの場合に取材というのがミスマッチだからで、もう少し別の方法があるはず、と思う。そんな時にぱっと、科学の出番で、たとえば「児童心理学」なるものに伺えば、教えてくれるんじゃないか、なんて思う。

だが、このようにして科学者に訊いてみても、たいがいうまくいかない。たいがいの人はそういう感じに科学に失望することに慣れてしまって、もう訊きにもいかない。たぶん質問を変えれば、有意義な答えを得られるだろう。だがそれで訊く人は納得するのだろうか? つまり、知りたかったことがわかった気がするのだろうか。──そんな場面が、私には多いような気がします。そこでトホホ科学なるものの出番もあるんじゃないか、と考えています。

2008-11-11

上野動物園の気になるルール。

東京都にある動物園のネットワーク「東京ズーネット(財団法人 東京動物園協会(上野動物園内))」が発行しているメールマガジン「ZooExpress」で、上野動物園が動物の赤ちゃんに名前をつけるルールを紹介していて、面白かった。

命名の「ルール」として、母親の名前から1文字とって、赤ちゃんの1文字目にあてます。たとえば、母親が「プラタナス」の場合、「タ」を取って、子どもは「ダイニュウ」など(濁点・半濁点の付加削除はOK)。
(「メールマガジン ZooExpress No.405 - 2008年11月04日」より)

そして、どのような名前にするかは、毎年ちがう「テーマ」を選んで、その中からつくるのだそう。して、2008年生まれのテーマは、なんと「数学用語」なんだそうです。

そこで今年生まれた赤ちゃんには「スウレツ」「セイゲン」「レイスウ」「トレミー」「ダイニュウ」「シメンタイ」という名前がつけられたという。

さらにこの赤ちゃんたちのうちメスについては、母親になったときにどの文字をコドモに与えるか決めておくのだそう。また1度使ったテーマは2回使わないということもルールに盛り込まれているといいます。なんだかとてもよくできているなあ、と思いました。トホホ的ですが、気になるルールです。

2008-11-10

トホホ科学のこと。

トホホ科学というのはリョーシ猫の用語で「トホホな科学」ということを指します。しかしながら新聞を眺めていたりして、なんだかトホホなニュースだなあと思うとどっこい科学の話題、しかもまじめにただそう言っているだけのことがニュースとして採り上げられているというケースが往々にしてあり、こういうのもトホホな科学なのかもしれない、と失礼なことを思ったりする。

少し前に、これまでめばると呼んでいた魚が実は3つの異なる種類に分類されますよ、というのも、そんなふうに気になったニュースのひとつだ。でもこれはトホホ科学ではありません。だけどなんとなく、トホホ科学のもうひとつのジャンルとして独立させたい、という気持ちにもなるのであった。

メバル、アカ・クロ・シロに独立(朝日)
http://www.asahi.com/science/update/1102/TKY200811020197.html

2008-11-09

ジャグラーと数学者の共通「脳」

今回の講演では、古典物理学をてっとり早く説明するために、ボールを用いた。会場へボールを投げて、その軌跡を見ようというものだ。リョーシカはこういう体験的で、ごちゃごちゃの説明なく行為そのものがすぐ効果を発揮するアイデアに優れている。

ジャグラーが使うような軟らかいものでもよいと言われていたのだが、結局ウレタンみたいなタイプのを2つ購入し、講演の前日に渡しに行くと、受け取ってすぐ片手でお手玉のように、2つの球を順繰りに回し始めた。──これって、そんなに簡単にできるものだっただろうか? と私はいぶかしく思ったのだが、私が球を取り返してやってみると、案の定すぐに取りこぼした。

講演の当日になって、舞台を見ていると、今度はキャパを意識してだろう、ずいぶん高く上げて回している。リョーシカ、もしかして、お手玉もお手の物?といぶかっていたのだが、よくよく考えてみればあのピーター・フランクルさんもそうではないかと気がついた。何がそうかと言えば、数学とジャグリングである、もちろん。

なんか共通の「部位」なんじゃないの? と、トホホ科学を捏造しながらも、もしかして、ひょとしてと思ったのが、フィードバック→フィードフォワードの情報処理の速さである。アドリブに強い人はみんなそうであるような気がする一方で、そのどこを数学に使うのかについてはかなり不明なのだが。

2008-11-08

数学は役に立つ学問でしょうか?

先日、リョーシカの講演会を見学した。その中に、物理を学んでどんなところに役に立つか、という話があった。これはよく「数学」で言われることでもある。「数学を勉強して社会へ出て何か役に立つのでしょうか?」

しかしこういう質問が出るということは、その人には生きていく様々なシーンで、数学が役に立つ場面がひとつも思い浮かばない、ということなのだろうか?

そういえば私が中学か高校の時にも数学の授業で同じ質問が出たことがあった。「みんなはどう思う?」と、先生が質問を教室へ投げ返す。私は、役立つどころか不可欠に決まっている、というようなことを答えたような気がする──「数があるところには数学があり、それを操作するところに数学がある。お金を預ける、利息がつく、全部数の操作じゃない?」と。自分のことなので遠慮なく悪口を言わせてもらえば、活用シーンはいくらでも思いつくが、数学のイメージははなはだ貧相というわけである。ま、「想像力」の点で五十歩百歩と言えよう。

だが当時の生徒たちの言い分は、要するに……数学を勉強するのはこんなにたいへんなのに、そのわりにはやった甲斐があるようには思えないよ、ということだったのだろう。確かにそれなら、ぐっとごもっともである。たとえば、大学を卒業してから「因数分解」が役に立つ場面に遭遇したという人はほとんどいないかもしれないではないか。

しかし数学のように、ある意味「万能」なツールを、社会へ出て使う機会がないということのほうがヘンなのではないか、と考えることもできる。無理に使おうというのではなくて、困っている人が抱えている問題を解決したり、いろんな現象を予測したり、といったことに有効に使うのである。

また物理は──リョーシカの言うように、数学というツールに、リアルな実体をつける。だからいっそう現実に活かせるツールとして活躍する可能性がある。

だがよく考えてみると、いくら活かせるよう準備したとしても、本当に活かせるかどうかは、またしても個々人の想像力にかかっている。一難去ってまた一難である。

2008-11-07

死んでからでも本は出る。という追悼。


昨日、外苑前のLIBROで、池田晶子さんが平積みになっていたのが目のふちに残像のように記録されていて、池田晶子さんが亡くなってしばらくたったというタイミングでなぜだろうな、と思っていたら、ごく最近『人生は愉快だ』という新刊が出版されたのだそうだ。その新聞広告のコピーが「死んでからでも本は出る」というのだった。

しかし哲学というのは、科学にとって、どうもうとましい親戚のようだ。

ところでLIBROは場所柄、アート&ファッション系の品揃えで、別の棚にあって殊に目を引いたのがこの小さな、しかも1,365円と安い画集だった。

「小さなロシア」 LA PICCOLA RUSSIA
ジャンルイジ・トッカフォンド
リトル・モア

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2008-11-06

「はらドーナツ」行列は続いている。

吉祥寺にあるらしい「はらドーナツ」が阿佐ヶ谷にできて、連日人々が列をなして買い求めている。甘い物好きの夫がさっそく求めてきたが、これが予想を超えておいしかったので、なるほどと思った。ドーナツへのニーズはあるが、食べたいようなドーナツが不足していたのだ。

またドーナツといえば、私にはどうも家で作る物というイメージがあって、映画でも母役の小泉今日子がドーナツできたよと言ってもだれも2階から降りてこないというシーンがあるわけだが、家で作るドーナツというものが、そういう──つまり不人気な──ものになりつつあるのかもしれない。

それでもいったいどれだけの違いなのかを確かめようと、「はらドーナツ」の後で、凝りもせず作ってみた。いやあ、なんの共通点もない。よく知っているドーナツの味ではあったが、「はらドーナツ」が近所にあるのに、わざわざ作ることはないと思われた。自分で作ってよいことは、いかに砂糖またはその類似品が投入されているのかを知るよい機会であることぐらいだろう。一方「はらドーナツ」のほうは、まず投入する材料からして違うのだろう。

材料といえば、新橋にあるさぬきの地域物産紹介・物販のスポットで、うどん用の中力粉を売っており、ことうどんについては、この中力粉がたいへんうまくいく。こちらはいかにもうどんに具合のいい伸び具合というところへ、長い時間をかけて調整されてきたのであろう。家で打ってもおいしいものができるので、おすすめです。

2008-11-05

西新宿にオープンなカフェを見つけた。

西新宿

先日、東京言語研究所の公開講座へ行ったことを書いたが、その研究所がある西新宿のビルで、アゴラふうであり、中庭でもあるカフェを見つけた。しかもリッチなことにベリーニ・カフェ、スターバックス、マクドナルドの3つの店が広場を囲むように並んでいて、それぞれの店内、ビル内のオープンスペース、さらにガラス張りのエントランスを隔てて共用テラスへと、テーブルが広がっている。なかなか見事なパースペクティブである。

そのうえ、その日は三連休の初日ということもあって、人は驚くほどまばら。いかにもここを知っているという人たちがそこここで、ノートを広げているのであった。新宿のカフェといえばどこもかしこも満員で、どことなくマナーも悪いような印象があるのだけれど、天使も舞い降りるような、すがすがしい空間でした。

2008-11-04

メトロマナーポスターは「家でやろう。」から始まった。

東京メトロマナーポスター家でやろう
そうそう、始まりは「家でやろう。」だったのだ。それは掲載期間としては比較的長かったと思う。人々が受け入れるのに、少し、時間がかかった。どんなにすごいものも、最初は助走が必要なのである。(実際には月替わりらしい。こちらを参照

今このポスターをみると、迷惑をこうむる役のおじさんは、最初からあの白く曇った眼鏡(!)で画面の隅に立っていることがわかる。

さて、主人公が若い男性だった第一弾に続いて、第二弾がはりだされたのは、私のデジカメの日付によれば、今年の6月頃のようである。絵柄は携帯電話で一喜一憂する女性で、4コマ割になっていた。

東京メトロマナーポスター家でやろう電話

ああ、そういう人ね、いますね、電車の中とか地下鉄の中とかに。そういうなんていうかマナーのシリーズ広告なんだね、これ……というふうに「家でやろう。」の認知が進んでいく。

そこでクォンタムリープ(!)ならぬ「海でやろう。」が掲示されるのである。

それ以降の展開については、掲載済みなので、こちらをご覧ください。
8月:海でやろう。
9月:山でやろう。
10月:庭でやろう。
11月:店でやろう。

また「家でやろう。」で1つ私が撮り損なっているものがあるようだ。
2008年7月の「家でやろう。」はヘッドフォンネタだった。
「家でやろう。」7月

2008-11-03

店でやろう。が出た。

東京メトロポスター「店でやろう。」

ついに出ました、新作・東京メトロポスター。撮影場所は丸ノ内線・西新宿なのですが、どうも今回から掲示点数が増えているように思いました。駅のあちこちに貼ってある。

そこで私が写真を撮ろうとしていたら、そわ、とカップルがやってきて「なになに?」「店でやろうだって」という会話をして去っていく。ふむふむ、注目度がいや増しております。

しかしこうなると、最初はなんだったんだっけ、という関心も湧こうというもの。明日は少し振り返ってみようかと思います。

2008-11-02

東京言語研究所の公開講座へ行った。

複雑系としての言語現象スライドby池上高志氏

西新宿に東京言語研究所というところがあり、一般向けに言語に関するセミナーなども行っているという。その東京言語研究所が主催する2008年度第二回公開講座が開催されるというので、聴きに行った。講師は池上高志氏(東京大学大学院総合文化研究所教授)で、講演のテーマは「複雑系としての言語現象」。

少し前に「科学のはなしが持つ、ほんとうの輝き。」で書いたのだけれど、科学の分野では、出かけていくとやはり収穫が大きい。今回もそうだった。

「物理という分かり方から、複雑系という分かり方に興味を持つようになった」

池上氏は物理出身で、三葉虫の化石のコレクターで、人工生命という分野からぐわーんと──チョムスキーを経て──「クオリア言語進化論」へ。

以前渋谷で講義したときに「複雑系ってどういう系?」と訊かれた! というすごいエピソードには、のっけから会場も大爆笑。

「それから、複雑なものを取り扱っているから複雑系なんじゃなくて、取り扱い方に「複雑」があるのが複雑系」

ざっくりでもバシバシ定義してくれるので、論旨の線が直線で、鋼鉄でできてるかのように芯のある印象を受ける。すなわち、たいへんわかりやすい。

「僕にとって複雑系とは生命の新しい理論であり、自然と人工の違いについて考えること」

私は実は、構成論的アプローチという語を検索していて、このレクチャーを見つけたのだったが、会場の参加者は、東京言語研究所の講座の学生さん、講師の先生たちが半数以上で、あとは私のようにいろいろな接点で集まってきた一般の人という印象で、教室いっぱいに入って50名ぐらい。全般に科学な質問が多く、たいへん盛会でありました。

※文中の引用部は、私の記憶とメモによるものなので、不正確なところもあるかと思います。どうぞご了承ください。

2008-11-01

今日は「冬の初日」のはず。

11月1日は、例年ああもう寒い季節なんだなあ、と思わされることが多い。自分の中では、ここからさきは用心しなければという、境目の日付である。

しかし、今日はまた、ずいぶん晴れてますねえ。

そこで念のため、気象庁のサイトで日ごとの平均気温を調べてみた。──いやはや、人の季節感覚というのは、あてにならないもので。

上記リンク先には1979年から2000年までの平均気温(場所は東京練馬を指定)が掲載されているのですが、これが見事にどこにも段差なく、グラデーションに気温が下がっていく様子が示されている。

ということはおそらく、1979年から2008年を個別に見た時にはどこかに段差のある年があって、それがことさら印象深く記憶されているのかもしれない。

いやはや。天気の話は確率の話のお手本なのである。

確率といえば↓ お暇なときにご覧ください。
『週刊リョーシカ!』
『週刊リョーシカ!』第31週
降水確率「50%の雨」ってどんな雨?
http://www.famipro.com/ryosika/ryosika_031.html