今日の話は自転車カゴに乗っていた女の子の話。児童心理学のほうは、たとえば、ということで登場してもらう役です。
おとといバスに乗っていたら、その脇をおかあさんがママチャリを運転し、その前かごの座席には子供が乗っているのが、一陣の風のように、通り過ぎていった。その自転車が私の目に鮮やかだったのは、その女の子がもうかなり大きくて、たぶん小学校の中学年ぐらいで、無理に蹲ったカゴの中から、すこし茶色がかったつやつやした長い髪をなびかせていたからだ。
「ヘルメットをかぶっていないな」と私は思ったが、そこにはなぜか危険な信号は感じられなかった。(でも、ほんとうは被ったほうがいいと思うよ。)
彼女は私の乗っているバスの横を通り過ぎるとき、ちょっと笑った。笑ったというよりも、とても微妙な顔をした。まるで自分の顔にあたる風には、ひとすじ、またひとすじという具合に色がついていて、自由に色を選り分けられるみたいに。彼女はその架空のパレットから、パステルの色ばかりを選んで進んでいった。彼女のまわりには、そんな幸福感が満ちていた。
「おかあさんと出かけるのがひさしぶりで、おかあさんと一緒にいる、そのふつうが楽しいのだな」と私は思った。親が子供を幸せにするのは案外簡単なのだ。(……)
これは私にとって、とても印象的なことであった。ひとつには自転車カゴに乗った女の子の、その表情が。もうひとつは、それをよくもそれだけの情報で解読する私が。
ところがそこからもう一歩、理解を進めようとしても、たぶんどこへも進むことができない。まあ、進めるとしたら、取材だ。バスを降りて、取材だ。しかしそれはばかげている。というのはこの場合に取材というのがミスマッチだからで、もう少し別の方法があるはず、と思う。そんな時にぱっと、科学の出番で、たとえば「児童心理学」なるものに伺えば、教えてくれるんじゃないか、なんて思う。
だが、このようにして科学者に訊いてみても、たいがいうまくいかない。たいがいの人はそういう感じに科学に失望することに慣れてしまって、もう訊きにもいかない。たぶん質問を変えれば、有意義な答えを得られるだろう。だがそれで訊く人は納得するのだろうか? つまり、知りたかったことがわかった気がするのだろうか。──そんな場面が、私には多いような気がします。そこでトホホ科学なるものの出番もあるんじゃないか、と考えています。
2008-11-12
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