2009-01-31

『ロボットのおへそ』平積み記念日。

『ロボットのおへそ(稲邑哲也・瀬名秀明・池谷瑠絵著、丸善)』が配本になりました。池谷としては、理論物理学者で、国立情報学研究所准教授の根本香絵(Kae Nemoto)氏との共著『ようこそ量子(丸善)』に続く2冊目の丸善ライブラリー刊行の運びとなり、大変うれしく思っています。

ところでこの『ロボットのおへそ』を鋭意制作中に、ちょうど同じタイミングで、こちらが入稿ならそちらも入稿、こちらが初稿ならあっちも初稿、という具合に進行していたのが、根本香絵著『量子力学の考え方──物理で読み解く量子情報の基礎──』(SGC-68 サイエンス社・1,920円)という一冊。

本日、新宿の大型書店店頭で、いずれもこの2冊が平積みになっているのを目撃いたしました(!)この「平積み」というのは、本屋さんの通常の本棚に入るだけではなく、本棚の前にある低い机のようなところや、新刊書のコーナーなどに、表紙を上にして積んである展示方法のことです。ということはつまり、目にふれる機会が多い展示方法なわけですね。……とまあ、そのようなわけで、勝手に平積み記念日などと呼んでしまった次第。

ちなみに『量子力学の考え方──物理で読み解く量子情報の基礎──』はネット書店での取り扱いがありません。

この2冊、もしも店頭で見かけたら、ぜひちらっとでも読んでみてください。

[ ロボットのおへそ SPECIAL ]
| intro | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | epilogue |

2009-01-30

自分のためのプレゼン

「また引き」で恐縮なのですが、オリンパスのメタルボディのカメラ「O-Product」や日産自動車「Be-1」などを手がけたコンセプターの坂井直樹さんが、ご自身が社長を務める会社「water design」のブログで、アップルのもの作りのプロセスについて採り上げていた。

デザインの扉
「心に留めて置きたいアップルのもの作りプロセス」
http://waterdesignscope.com/


もともと採り上げたのはBusinessWeekで、アップは2008年3月というから、かれこれ1年も前の話である。

私がおもしろかったのは、10のアイデアを出して3つに絞るとき、7つを捨て案として作らない、というところだ。プレゼンのときにABC案とあるのは広告の世界では日常的風景であり、ふつうの会社でもごく一般的に使われている手法だと思う。だけど、あれ、なんのためにやってるんですか、というところが、結構あいまいになっているのではないでしょうか。

作り手は、すぐにそういう状況を反映してしまう。つまり方便になっているのだ。したがって究極的にはいい案は1つしかない。だからあとはそれを際だたせるためにある。と考えがちなのである。省力化には欠かせない手法ではあるけれども、クリエータが自分のためにならないことだけは確実である。

このアップル社の記事を坂井氏が採り上げていることで、デザインで自分にOKを出すということの難しさについて、とても考えさせられた。

2009-01-26

なぜフランスからもアクセスが?


『科学と広告のブログ』いつも閲覧ありがとうございます。
今回はちょっとこの『科学と広告のブログ』というナノ・メディアのご紹介。

このブログは「Blogger」という、現在はGoogleのサービスを利用しており、アクセス解析は「Google Analytics」という現在無料でも有料でもほぼ最強とも言われるツールを利用しています(ちなみに、いずれも無料です)。またRSSはBloggerが提供するものを利用しており、トラックバックとコメントは、外部の無料サービスを組み込んでいます。

でもって、すごく長い前置きになってしまいましたが、このうちの「Google Analytics」では、世界のどの地域で当該のブログが閲覧されているかというのをマップで表示してくれる機能があります。

ある日驚いたのが、そのマップです。当ブログはほぼ全部日本語で書いてあるのにかかわらず、なぜか、かなり広い地域で読まれているようなのです。上掲の図はそのマップ画像の色を濃くして見やすくしたもの(「Google Analytics」では、色の濃さはアクセス数の多さをあらわす仕様になっており、実際にはマップ上の色もずっと薄いです)。アジア・オセアニアから北欧・イギリス・フランス・ドイツ、北米・メキシコ、ブラジルまで!

このブログは2008年の6月に始めたばかりなので、さほどアクセスが多くないことから、ほんの少人数がちらっと見てくれても、ある量として記録が残るということもあるかもしれませんが、なんとも不思議な現象。いったい誰がどうやって読むのでしょうか?

これはもしかして、リョーシカが海外出張の先々で読んでくれているのかも、と思って聞いてみると「いいえ、出張先で読んだことはないですねえ」との答え。ま、先生方も忙しいですからねえ。

2009-01-25

wikiとメーリングリスト、という王道。

少し前になるのだが昨年の7月に、大田区で「PHPカンファレンス2008」なるものが開催されたのだそうだ。そこで例年、ご来場者にアンケートを行っているとのことで、その集計結果が公開されている。

PHPカンファレンス2008レポート
http://www.phppro.jp/article/phpconference2008/question.php


調査対象もサンプル数も明確で、質問の内容もたいへん答えやすいもので、なんというかうらやましいような模範的なアンケートである。ぜひ御一顧。

中でもおもしろかったのが、

Q14. 社内で利用している情報共有/コミュニケーションツールを教えてください(複数選択可)。

というもの。
これが二年連続で、wikiとメーリングリスト強し! という結果。

科学者もほんとこのあたり使う方多いですよね。設問には本当はなんか別の趣旨があるようなんだけれども、こんなところで、すごく納得してしまいましたが。

2009-01-24

マンションの間取り図に思う。

今朝新聞の折り込み広告を畳んでいたら、マンションの広告ばっかりだった。そのうちのひとつが世帯内の家族構成が変わっても「間取りを変えられる構造」というのをウリにしていたのが目にとまった。なんにでも「科学」のしっぽはあるものだ。

目に新鮮だったのは、マンションの一室分がまっさらに描かれていたからだ。私たちに「間取り」が身近なのと対照的に、まっさらの部屋というのは、事務所用物件ぐらいのもので、住居のようには見えないわけである。

もっともそのマンションにしたところで、まったく普通通りの「間取り」になっているのだが、これが不都合になったら変えることもできますよ、というのが宣伝文句である。だがそれだけでも変化だ。私は「部屋は箱」という感覚が賃貸の物件に広がり、借り手が自由に内装を変えることができるようになるといいと思う。

それで思い出したのは、かなり昔になると思うのだが、いつごろからか「リフォーム」というコトバが流行りだしたときに、とんでもないリフォームで構造的に危険な家がいっぱいあるという指摘をするテレビ番組を見たことがあるなあ、ということだった。記憶は確かとは言えないが、木造の家屋の柱なんかをずばずば切ってしまって、その2階にユニットバスなんかを入れちゃうというような、なんだかすごい話だったと思う。そしてそれはひとつの教訓を置いていく番組だった、というのが印象的だったのである。すなわち──

間取りを変えちゃあいけねえよ。(大工さんの口調で!)

そうなのだ。建物が木造である場合は、間取りは簡単に変えられないのである。間取りというのは家そのもの、構造そのものでもあるのだ。そこで建物が鉄筋コンクリートになっても、私たちはどこかで、その「知恵」を適用してしまっているのではないだろうか? と思ったのである。

技術が変わっても、ひとびとの意識が変わらないことで、別の発展を遂げていくということは、案外身近に起こる。これもごく簡単だけれども、そんな一例なのではないかと思いました。

2009-01-23

かっこ構造といえば、マトリョーシカでしょう。

先日、国立情報学研究所の市民講座を聴講した。前回の続き。

スライドを見ながら「かっこ」を探すという、とても能動的に参加できるところが楽しく、終了後、そのスライドが素晴らしいというのが、私の座っていた席の周囲でもちょっと話題になっていた。

ただ欲を言うと、ちょっと並列的すぎて、スライドのページ間の関係が(つまり、想像力がないために)くみ取れなく思うこともあった。そこをつなぐ「だから」を言い始めると長い話になるために切り詰めているのかもしれないと思った。

ところで「かっこ」構造というのは、言うなれば「入れ子」構造であって、「入れ子」構造といえば──マトリョーシカ! である。

今回の市民講座では、このマトリョーシカのオリジナル画像──なんと金沢先生自らポーランドで入手されたものだそうである!──もスライドに入っていて、こんなところでも楽しむことのできた講義でありました。

ところでマトリョーシカといえば──
『週刊リョーシカ!』※2月に再開予定です。

2009-01-22

NII市民講座へ行ってきました。

先日、国立情報学研究所の市民講座を聴講。今回のテーマは「言語情報とコンピュータ − 人間の文法とコンピュータの文法とは何が違うのか?−」というもので、情報学プリンシプル研究系准教授・金沢誠先生の講演でした。

形式文法とは何か、その成立からして、私たちの自然言語とコンピュータのプログラミング言語は同じ数学的基盤を持っている、というお話。事前の概要には記されていないのですが、この説明の際、「かっこ」という構造に注目し、これを柱として参加者がこの「かっこ」を発見できるような組み立てになっていたのが、とても魅力的なスピーチでした。

スライドも1枚1枚が独立した、少ない要素で構成されており、「でかいプレゼン」に通ずる歯切れのよさ。

このスライドを見ながら、参加者は「あ、ここに()があるのか」というように一つ一つ見つけていきながら、「形式文法」に親しんでいきます。

とても寒い日でしたが、ご来場者も多く、盛況に終了しました。

でかいプレゼンというのはこれ。
アンチ・パワポという抜けのよさに教えられるところ大で、時々お勧めしたりしております。。
『でかいプレゼン 高橋メソッドの本』
高橋 征義
ソフトバンク クリエイティブ
amazonへ

2009-01-21

オバマ氏のファースト・ブック

おやすみなさいおつきさま
マーガレット・ワイズ・ブラウン
評論社
amazonへ

昨日近所の駅の2階にある、入口付近に児童書が並んでいるような小さな本屋さんで、ふと見慣れた本に、見慣れないオビがかかっているのが目に入った。

「おやすみなさいおつきさま(原題:Goodnight Moon)」という本なのだが、米国時期大統領のオバマ氏の顔写真がついて、人生最初の本、と書いたオビがかかっていたのだ。

「おやすみなさいおつきさま」は、Margaret Wise Brown(マーガレット・ワイズ・ブラウン)の代表作のひとつで、彼女の作品には他にもRunway Bunnies とか、The Important Book などの素晴らしい本がいろいろあり、いろんな外国語に翻訳されてもいる。別にオバマ氏というおまけが付いても付かなくても、とても高い価値のある本なのだが、まあどういうきっかけでも読んでもらえればよい。

このような本が人生最初の一冊だった、ということがオバマ氏の宣伝文句だろうに、オバマ氏が読んだということが宣伝文句になっているようである。

2009-01-20

最先端への関心

フランスやイギリス、アメリカといった国々から来た人の印象から思うのだが、日本へ来ると「最先端」というものの価値が目減りしてしまうというか、どうもレートが悪いような気がする。だから「最先端」のほうでも、そんなに安いんなら日本へ持って行かなくてもいいか、という具合である。

こと科学ばかりではなく、さまざまな専門的な分野には「最先端」というものがあるわけだから、たとえばアートなども代表的な一例と言えるだろう。そこでアートと科学とを比べると、それがどうしてすごいのか、それがなぜ人類の新しい一歩なのか、という点で、一般の人にとってどちらがわかりやすいだろうか?

この問いには、実際、ぜんぜん答えられそうもないんですが、ただかろうじて思うのは、その価値や理由について、知っている人たちの間で考えを共有しやすいのが科学で、これがアートであれば、まず喧々となるだろうということだ。というよりも、アートに対して別々の解釈が同時に存在してまったく構わないのだし、理解が異なることは問題ですらないかもしれない。

というわけで、実はしつこくも前回のつづき。

マスとスモールな市場のギャップが広がるほど、ここで共有されている価値を、より広い市場へどう出すか、というのが考えどころになる。これはむしろアートの出番である。だからまず何らかのアート的な方法で拓いてもらう──そういえば、私はいつもこれを「ドアをつける」とか「橋をかける」とか「把っ手をつける」とか言っている、月並みな言い方だけど──。

そして、その拓かれた広場で、今度はこれがこういうわけでそういうわけだから、考えてみてくださいよ、と地道な活動をするのがサイエンスのコミュニケーションの出番だと思う。これは実感にも合っている。サイエンスを伝える活動そのものはとても地味なように、私には感じられるからだ(そしてきっと私だけじゃないですよね)。

一方、アート的な方法でマスへ伝えるというのは、ほとんど広告と言っていいに違いない。結論が出てみると、まるで手前みそのようで恐縮ですが──つまり、科学と広告をいっしょにやることで、最先端が上手く伝わるのではないか、と思う次第であります。

(まだつながっていないところがあるように思いますが、またの機会とさせていただきます。この話はひとまずこれにて。)

[SMALLコミュニケーション]
| 1 | 2 | 3 |

2009-01-17

続・SMALLコミュニケーション

昨日は結論を急ぎすぎと反省して、もう一度考えることにいたしました。

たとえば長年人類の難問だった数学的な問題に、画期的な解法が示されたとしよう。

そのような解法が本当に正しいのかどうなのか、ちゃんとジャッジできる人間は世界じゅうを見渡しても何人もいないはずだ。解法を導いた人はどこかで「できた!」というやり方を紹介し、それを見てごく何人かが「世紀の大発明だ!」とわかるわけである。

これについて私たちが「世紀の難問が解けたんだって!」と思うことができるのは、ジャーナリズムのおかげである。アカデミーという信頼できるコミュニティが存在し、それをジャーナリズムが正しいものとして報道してくれるから、私たちが正しいと判断できる。

このように科学者間の(前回の言い方に従えば)極めてスモールなコミュニケーションが、人類にとって、大変な普遍性を持つ場合がある。科学的な細かい進歩のひとつひとつは、むしろそのようにしてできあがっていると言っていいだろう。一方で小説などでは、一般に、オタクなものは一部の読者を持っているに過ぎず普遍的な作品にはなり得ない、と考えられているのだから、

科学 スモールなコミュニケーション → 普遍性・大
小説 スモールなコミュニケーション → 普遍性・小

という違いがある。

続いて、では科学を伝えるというコミュニケーションは、ジャーナリズムしかないのか、というとそんなことはないだろう。(つづく)

[SMALLコミュニケーション]
| 1 | 2 | 3 |

2009-01-16

SMALL コミュニケーション

ウェブが登場して以来、これまでのマス広告とどう違うかというと、これからは大衆ではなく少衆であり、ベストセラーでなくロングテールであり、ターゲットセグメンテーションありきである、というように言われ続けている。説明のしかたはいろいろあり、それぞれに根拠もあると思うので、どれかに拠っていただければと思います。

そこで、ロングテールの先っぽのほうを見ていくと、どうもオタク的な商品になっている。というのも考えてみればもっともで、みんながいいというのではなく、ごく少数の、その商品の価値、もっと言えばその商品の属する世界に精通した人だけがいいと言える商品というわけだからだ。

このようにある意味「専門化」された、スモールな市場へ向けてコミュニケーションすること。これが最近の傾向である。(すごくざっくりですが)

この考えを適用すると、たとえば小説なんかも、そうそう簡単には真似られない技術で、誰もがいいというクオリティを叩き出し、世界の人々に受け入れられて、場合によってはノーベル賞をとることもある、という作家ばかりではなくて、とってもスモールなコミュニケーションだけれども、その世界へ入るとすばらしく輝くような作品も多い、というように変わっていくことが考えられる。現実に、そうなっているのではないだろうか。ただ出版はマスコミュニケーションだから、そういったものが同時にベストセラーであることもあるのだと思う。

そこで、突然ですが「科学」である。

科学はより専門化し、シロウトどころかかなり隣接した領域を研究している人でもにわかには理解不可能であるような精密さを備えていけば行くほど、普遍的になり、より確からしさが高まる、という構造になっているのではないだろうか。というのは、要するに、これまでの話とは「逆に」だ。つまり、世界の大発見といったものは往往にして、同時代的には、ごく少数の人にしかその価値がわからないような発言(=コミュニケーション)だというわけだ。

したがって、科学を伝えるということは、これまでのマスコミュニケーション主流ななかではわかりにくいコミュニケーションだったのだが、言ってみれば「SMALL コミュニケーション」の時代になってみれば、以前からやってましたよ、ということになるのかもしれない。

結論を急ぐようだが、そうなるとサイエンス・コミュニケーションもこれからが旬! なんてことも言えるのかもしれません。(ちょっとまだつながってないように思いますが。。。。とりあえず!)

[SMALLコミュニケーション]
| 1 | 2 | 3 |

2009-01-13

白木のマトリョーシカを購入


『週刊リョーシカ!』の再開準備へ向けて、白木のマトリョーシカを購入。そのことをメールでリョーシカに知らせたところ、さっそく質問が。

「ほんとに描けるんですか?」

リョーシカの意図は、そもそも、マトリョーシカに彩色をほどこすのは難しそうである。そして特に描く面が、曲面になっているのが問題だ。そこへ、シロートが絵なんか描けるものであろうか、というものであった。

「下絵のようなのが描いてあるわけじゃないんですよね?」

描いてないです。描いてないタイプの白木のマトリョーシカを購入したので。

しかし、リョーシカにそう言われると、にわかに心配になるリョーシ猫であった。(トホ)

2009-01-12

空にはてなマーク。Q for Question, or Quantum?


正月のとある夕方、出かけようとすると、西の空に適度な大きさの「?」が浮かんでいました。

ひとり色づいて虚空に突きだし、なにやら正体不明の暗雲を引き連れて浮かぶところも、なかなか質のよい(?)はてなマークでありました。

2009-01-08

サイエンスとコミュニケーション。

初心に帰って、今回のテーマはサイエンスとコミュニケーションです。そこでまずはきっかけとなった年賀状の話から──。

年賀状というものを毎年やりとりしている方は多いと思いますが、私もそのひとりで、年賀状というのはまあひとつの形式(慣習といいますか)なので、個人がどのように運用してもよいわけですが、ただ今年いちねん(今で言えば2008年)を、current directoryから外して、過去の自分の歳月のほうへ束ねる、という効果があるような気がして、今年はちょっと不思議に思ったのです。終わっちゃったから棚から下ろして他の年も眠っている蔵へ移す、みたいな感じ。

自分の蔵を見回すと、だいたいがこんなもんしか入っていなかったか! と思う上に、これまでのコピーライターの活動としてはそれなりに情報家電とかやってきたわりには「文化」ものが多い。仕事でお会いする方々が私を「文化」的でこそすれ「科学」的と思わないのも無理はないな、と思う次第。──しかしながら、今年も私はサイエンスのエッセンスを伝える活動を「広告」的に、どんどんやっていこうと思っています。

そこで科学をやろうとするときに、はた、とこれまでとは違う新しい問題がある。何かというと、どうしても英語のものに手を出さないといけないわけなんですね。特に広告の場合には、一般に日本語を話す日本の消費者へ伝える活動なので、その中にある多様な気持ちを汲み上げていくことになる。その際には、ニューヨークのアートシーンもロンドンのオークションも、火星の土の成分表ぐらいにしか参考になりません(!)。

一方科学の場合には、しいて言えば、科学的な事実、科学的な理論があって、それを担い、運んでいるのが主に英語というような状況があるのではないでしょうか。言語に拠らない、という境地には一万光年ぐらいありそうに私には思えるのですが。

2009-01-05

あ、また「家でやろう。」だ。


メトロの交通広告も昨年の4月にスタートというから、2008年度分は残すところあと3回ですね。1月のポスターは12月に続き「家でやろう。」でした。実は11月には「池でやろう。」とか「夢でやろう。」とかいろいろ内輪で言い合っていたのだが、いやはや、その時「予測」しなくてよかった!

しかしそこまで「家でやろう。」が痛切なメッセージなのだとすると、未来になって現在を振り返ってあの時はこんなポスターを貼っていたんだねえ、なんて思うのかもしれない、つまり、「まだ、この程度で済んでいた」という意味で。

そこまで想像すると、たぶんこういうメッセージは、こういう「態度はイカン」と思う人に訴えるのではまったく無意味である。だが、コミュニケーションとしては「イカン(のじゃない?)」と潜在的に思っている人へこそ、効率よく伝わろうというものだ。だからこの広告が成功しているとすれば、ポスターに描かれているような態度を戒めるのに役立っているわけではなく、そういう態度はよくないと思っている人に深くうなづかせているのだろう。マナーポスターというのは、第一にこれがマナーだということを知らしめるものであるのに違いない。

しかし、実際にマナーがもし向上しているのであれば、戒めの効果もあったことになる。そこはひとつ知りたいところである。

一方、ポスターに描かれているような態度を「減らす」にはどうしたらいいだろう? というところを第一に取り組むという活動があってもよい。それは広告というよりもむしろ教育ということになりそうだけれども。

2009-01-04

ロボットの現在を見渡す記事

『ロボットウォッチ』に2008年のロボットの動きをまとめた記事がアップされていました。2006年のまで、ウェブで読むことができるようですよ。

[ロボットシーン総括 Reported by 森山和道]

2008年の総括
http://robot.watch.impress.co.jp/cda/column/2008/12/26/1538.html


2007年の総括
http://robot.watch.impress.co.jp/cda/column/2007/12/27/838.html


2006年の総括
http://robot.watch.impress.co.jp/cda/column/2006/12/27/318.html

2009-01-02

理科の授業で覚えていること。


日本には年賀状という習慣があって、古い友達や小中高校生時代の恩師の方の消息がわかったりする。それで突然、昔むかしの授業の一コマを思い出した。

いくつかあるような気がするが、記憶にある授業というのはどれも、すでにかつて、といっても実際の体験からはだいぶ時が経ってから何度か思い出したことのある授業であって、それを何度も思い出しているうちに、(それを口に出さなくても)いつのまにか自分の中で定着している記憶だったりする。

中でも頻出の記憶であるこれ──中学1年の時の理科の授業だ。担任の先生が理科、なかでも生物、そのなかでも植物が専門で、ある日授業ではOHPかなにかで、黒板の前に白いスクリーンを垂らして、スライドを映していた。画像は、花粉とめしべの顕微鏡写真だ。

授業の趣旨は、さまざまな花粉とめしべのかたちを見せて、植物の名前を一致させ、また花粉のほうへめしべが寄り集まっている様子を見せることにあった。画像はすべてモノクロだった。ふむふむ。とみんなで見ていたわけだ。

と、私の記憶に鮮やかなのは、最後の一枚だ。

それは一見、他の画像と同じように中央に縦に一本めしべがあって、それをとりまくように黒く花粉が集まってきている。ところが、めしべのすぐそばには、まるで“潮が引いたように”まっ白な空間が広がっているのだ。その白さ。

めしべに、違う植物の花粉をふりかけると、めしべの周りにはくるが着床しない。種を守り、継承していくためには不都合なので、植物にそのようなしくみが備わっているのだ、と先生は言った。

2009-01-01

たまには根っこなんかも見たり。


脳の発達を、樹木が枝を伸ばし、剪定によって形を整えていく様子に喩えることがありますが、枝と同様に「根」のほうも、私たちの考えにフィットしていろいろなアナロジーが思い浮かぶイメージのひとつです。しいていえば、枝のほうは見えるのに対して、根のほうは忘れられやすいかもしれません。

写真はたまごなすを引っこ抜いたときの「根」。このようにいつも簡単に観察できるとは限りませんが。

さて2009年が始まりました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。