2008-08-31

オリンピックも高橋秀実さんに聞こう。


駅の棚に『R25』があれば、なんとなく習慣的に手に取ってしまい、おしまいへきて、そうだ高橋秀実さんの「結論はまた来週」が読みたくて、この雑誌を持ってきてしまうんだった、と毎度思うのだが、そう思うのは私だけではないだろう。

今回のネタはオリンピックだった。そう、さしものオリンピックである。だけれども、だからこそ、これといって読んでよかったというようなものは少ないものだというのは、私がへそ曲がりということかもしれない。そんなへそ曲がりにも、そうだよ、オリンピックということならば、こういう記事が読みたかったよーと、私はただ膝を打つのである、電車の中で。

少しだけ引用しよう。

興奮も一種の時差ボケから生まれるのかもしれない。今後のオリンピックも東京に誘致するより、地球の裏側でやっていただきたいものである。

でもまあ、これくらいにしておこう。なにしろこのエッセイは毎回、要約というものができかねる。ほとんどがハイライトで出来ているからである。

2008-08-30

集中豪雨のときに橋渡るのってけっこう怖いんだよ。

雨がすごいですね。今日は雷もやたらとパワフル。

先日も、たまたま私の両親が来るときに、集中豪雨になった。ワイパーをかけても前がみえないので、渋滞していたという話をしていて、父が言った。

集中豪雨のときに橋渡るのってけっこう怖いんだよ。

実は、父がいるときにはこの手の話が多くて、こういった物理現象は、こういう危険な現象の原因になるとか、災害の前兆であったりするから、世間の人はどうともなく(無防備に)過ごしているけれども、物の理のとーぜんとして実に注意すべきである、という話なのである。

私も長年家族をやっていてそのことは知っているので、またちょうど運良く──というよりは運悪く──突然ゴーゴーと降ってきた雨にちなんで、そういう話を始めたのであった。

父の故郷には大きな川があったので、川を遊び場に育った、らしい。川の話はいきいきとして、うずを巻いた濁流が見えるようである。

集中豪雨というのは本当にあなどれないのだよ。と私もすごく思うのだ。

遠くの空で雷がごろごろ言い始めたら、オレならすぐ川から上がる。

これも彼らしい。しかしサバイブする人というのは、無鉄砲のようで(傘という傘を店へ忘れてくる)、非情に用心深い。

しかし、彼がリアルに描けるブツリの世界は、惜しいかな、古典的なブツリに限る。妹のリョーシブツリは彼には手に余るのだ。

古典的な家族は、海外出張で不在の妹=リョーシカを欠いたまま、さっさと雨の上がった夏空を、がやがやと言いながら眺めるのであった。

2008-08-29

シロウトの道。

浜松に素敵なカフェを備えた自家焙煎コーヒーの店がある。とても素敵なので、以前そのホームページを作成させてもらったりして、以来、浜松へ行った時には必ずと言っていいほど立ち寄っている。お店の名前は「noncrante(ノンクランテ)」。豆はネットでも注文できる。

さて、前回そのノンクランテへ行った時に、新作のシフォンケーキがあるからというのでいただいたのだけれども、それがほんとにすごい完成度で、心底びっくりした。そんなに驚かなくてもいいのに、と周りは思っただろうが、私はほんとうにびっくりした。

何事も、このようにしてプロとアマチュアの違いを目の当たりにすることは多い。コーヒー豆焙煎やドリップについてはもう毎回行くたびに、なるほどなあ、と思うことが必ずひとつはあるほどなのだが、今回はシフォンケーキだ。いや、もしも私が最近「粉ものやコレクション」と称して、粉もの料理にはまっていなかったら、さほど気づかなかったのかもしれないのだけれど。

さきほども粉ものレパートリーの「プチパン」をこねていて、それでふと気づいたのだが、アナログなものは数をこなせばそれなりに上達するし、イノベーションだってあるし、いちおう実験結果を積み重ねているつもりだ。だが、ここには──プロのように──目標がない。どこまで行けば自分で「GO」が出せるのか、出したいからこそどういう工夫をすべきなのか、というあたりがあいまいなままだ。だからこそ、逆に言えば、ここには「終わり」がない。そこでハタッと、そうかアマチュアというのは終わりがないことを言うんだな、と思った。それ自体、決して悪くはない。単にそういう道なのだ。

2008-08-27

細かいことの改良よりも、大きな良し悪し

コドモの時になんで大人はうまくハサミが使えて、コドモの自分はきれいに紙が切れないんだろうと思った。その時母は大人になれば使えるようになる、と言ったが、その通り、大人になってみたらかなりきれいに切れるようになっていた。

大人といっても若くはないぐらいの部類に入ってくると、そういった生活の細かなことについては、およそ器用になるものだと思う。言葉遣いについてだって、うまく言えないことなんかほとんどないような気さえするし、たいがいのことを始める前に多少の手順を考えてから行うようになっている。いろいろと個人差はあると思うけど、中高生の頃とは雲泥の差であることは間違いないだろう。

そうなってから、その細かな事々について、正解なやり方を説明するのはたやすい。いや、正解にやることも、そのやり方を説明することもたやすい。そういう得意で当たり前なものをとくとくと説いている大人が見苦しいのももっともだ。いや、私が往々にしてそうなのだ。

コドモがその細かいことをやるたいへんさと同じくらいたいへんなことを、大人は大人でやればいい。それはもう少し難しいこと、たとえばもう少し未来へ向けてパースペクティブを広げたものなどはどうだろうか。

2008-08-26

昔の原稿に遭遇して、昔の名前を思いだした。

とても昔にウェブ用の料理本の書評というものを10書いた。細かい仕事を覚えているのは仕事量が少ないせいに違いないけれども、料理本の書評だけを10も書くというのは面白いと思ったし、だいたい書評を書くのも初めてだったので、そのおいそれとした気持ちを、よく憶えているのである。

しかしそれっきりウェブで見たことはないなと思っていたら、旧姓だったためにサーチに引っかからなかったのだった。こないだエゴサーチ(自分の名前等の固有名詞を検索すること)したら、ひとつだけネット上に残っていた原稿が見つかった。転載しても問題ないだろう。

書評の掲載URLはこちら
TEBA MADNESS—男の料理 手羽
西川 治
マガジンハウス

詳細へ

『TEBA MADNESS 男の料理 手羽』
西川治/マガジンハウス/1996年/1359円

 料理というのは、ホント、人柄である。いや「舌柄」と言うべきなのかも知れない。
 著者の料理はどれも、大皿に大量に盛られ、さまざまな食物が鮮やかに見え隠れしており、あるいはこんがりと色づいており、味もしつこくない程度に濃密だ。そして、およそ蓼食う虫の好きずきを超え、誰もに必ずや「うまい!」と言わせるレシピなのである。
 今こんなことを言うのもナンだが、私は昔、こういう本をばかにしていた。
 こういう、というのは、まず本職の料理人じゃない(著者は高名な写真家である)。また国内外に師弟関係などがあって技を継承しているのでもない(というのはウソで、実際には世界各地の料理人と交流をお持ちである)。来る日も来る日もだしをとるだけの修業時代や、「素晴らしい」と言われるまでソースを練ったなどという逸話もない。……詰まるところ、ちょっと器用な素人じゃないか。
 しかし、である。そういった偏見は「うまい!」という動かしがたい現実のまえで、粉々に砕け散った。さらにそこから一歩進んで、「西川治の料理は必ずうまい」(すべての料理を試したわけでもないのに)と言い切ってしまおう、と私は思う。
 なぜか。
 彼はまず、人が気になる、うまそうな食材を見逃さない。そもそも「手羽」という食材そのものが料理ごごろをくすぐるわけだが、それに取り合わせるものも味噌、オイスターソース、高菜、にんにく……と、ちょっと目につくような食材は、必ずどこかのページで盛り込んでくれている。しかも、一度にひとつとは限らない。
「(パルミジャーノを)マスタードと一緒にオーブンで焼いてみた。このふたつが出あうのだから、まずいはずはない」
 次に調理法もカレー、鍋、煮込みご飯、ラーメン、炭焼きと、ロングランの人気者が目白押しだ。しかも一品中にして、濃厚さとみずみずしさ、脂っこさとさっぱりが共存する。そしてまたもや、一度にふたつとは限らない。
「栗だけでは味も単調だし、料理にリズムがない。ならば里芋を入れてみようとおもった。おなじような形でおもしろい。だが口に入れたときの感触が違う。一つは舌に滑らかでやわらかい。一つは、ホクホクとさらりとした歯応えがある。その二つのリズムに手羽の粘りつくような感じがおもしろい」
 言うなれば、うまいものの合議制。著者は素材から調理まで、すべての段階において「うまい」を選びとっているのだ。そして、著者の追求の旅は、さらに続く。
「単純だとはいっても、そこには複雑に絡みあった味蕾の神経を充分にたのしませてくれる微妙な味がある。この味覚を感応できるのは、オノレの舌の熟成度しだいだ」

2000-07-02/根本瑠絵

それで、これまでの旧姓というものに関する態度を改めることにした。根本池谷と言ってしまうのである。自然じゃないのは気に入らないけど、私の旧姓は根本で、結婚後は池谷ですと説明するのはもっと面倒だ。これまでは、どちらかを選ばなければと思って現在の池谷を採用してきた。それはいいが、その時、過去を切り捨てる気持ちがあったのはよくなかったと思う。根本瑠絵と池谷瑠絵はつながっている。

子供が保育園のとき、一緒に通う子供の中に素敵なおかあさんがいて、その人が夕暮れの帰り道の雑談で「私、旧姓がタムラというんですけどね」とふと漏らしたときに、いい話だなと思った。ほんとうはその時に気づくべきだった、と思った。

2008-08-25

コピーライター談義@web

イトイ新聞の新連載「仲畑くんと糸井くん」を読んで思ったのだが(ついでに、こりゃ毎日更新でないと耐えられないと思ったらほんとに毎日更新なので驚きました)、糸井重里氏は、コピーライターというものをもうホントに過去のものにしていますね。仲畑さんが自分は「仕事にする」「あなたは仕事にしない」と言っているのですが、仲畑さんは現役にコピーライターで、要するにスタイルとしてももともと商品に寄り添うし、糸井重里は商品から不断に離れていく、より単純化すると仲畑氏は利用価値や効果、糸井氏は商品「存在」・なぜ商品が生まれてきたのか、という注目の違いと言えるかも。いずれにしても糸井氏はファン(という壮大なすそ野を持つ「魔法使いの弟子」たち)にとっては家元返上ということのようです。ついでに、たぶんイトイ氏は未熟(immature)なものが好きなんじゃないでしょうか。半熟卵とか温泉たまごとか。ポニョ、なもの。

しかし──なんというか最早「オールドファンには」というべきか(トリスか!)──横尾忠則氏との会話とか、仲畑貴志氏との対談なんかは、ほんとうにリアリティがあるというか、次回が(また明日)楽しみです。

2008-08-24

土蔵という、乱歩の脳内。

というわけで、とにかくいろんな記憶が交錯してしまったが、問題は蔵である。

イトイ新聞が報じている蔵が、もうとにかくすばらしく整理され、掃除され、分類され、ラベリングされていて、さらにあとでわからなくなった自分(乱歩自身)のためにラベルの読み方まで書いてあって、と図書館のような蔵なのである。

実はせんだって、ロシア民俗学・歴史文化の坂内先生(一橋大学)の研究室へおじゃましたときも、書棚が圧倒的であり、そこはもう「魔女の館」という名がぴったりだった。その印象を思いだすと、乱歩の蔵へ入ったみなさんの気持ちも、そんな感じだったんじゃないかな、なんて他人事ながらに思うのである。

しかしそれにしても、乱歩の整理ぶりは、異常というと失礼ですが、人間ワザによるこんな完璧な整理の実例を私は見たことはない。逆に言うと、これはひょっとして乱歩の「脳内」なのではないか、と訝ってしまうほどだ。

内容的にも資料としても、よく手が入れられていて貴重なものなんだな、ということを、イトイ新聞は伝えている。

だけどなあ、と私は思ったのだ。これを活用できるのは乱歩さんしかいないなあ、と。なんか、ここまで整理されていながら、同時に「ハイ、ここは迷宮です」と札が立っているような感じもするのだ。

すると不思議なことに、ちょっと乱暴な意見なのですが、整理されているのかいないのかということは、案外重要ではないのかもしれない。活かせる人が現れるかどうか。ずっと解き続ける人が現れるかどうか、にかかっているだけのかもしれない。

見学もできるそうですよ。
旧江戸川乱歩邸ホームページ
http://univ.rikkyo.ac.jp/aboutus/profile/facilities/edogawaranpo/index.html

2008-08-23

江戸川乱歩、蔵という書斎。

池袋にある立教大学の裏手のほうにある小さな郵便局をご存知だろうか。グーグルの地図で見ると「立教学院内局」と書いてあるのだが、確かにそんな名前だったかもしれない。つまり「内」というだけあって、大学の敷地に食い込んだような場所に立地しているのである。

立教大学に寄贈(あるいは管理委託?)された、平井太郎こと江戸川乱歩の住居も、こちらはかなり広いのだけれども、やはり立教大学の一部のように建っていて、その裏は、私が単位を落とした体育のテニスコートである。やれやれ。

その家の表札は2つあり、そのひとつが「平井隆太郎」、すなわち学部の先生と同姓同名なのである。そこから先生が出てくるのを見たという目撃情報などが飛び交い、平井先生が江戸川乱歩の息子であるらしいという噂がオドロキから単なる事実へと移行していったのは、いやはや、ほんとうにかなりの昔である。

wikiによれば、平井先生のご子息の平井憲太郎さんは鉄道ファンだそうだ。

ええー、というわけで、「イトイ新聞」の、鈴木慶一が乱歩邸を訪ねる企画「おじさん少年探偵団、江戸川乱歩の家をゆく。」を見ました。

企画のキモは、慶一さんのファーストアルバムのジャケットに使ったのが、乱歩の挿絵だった──ということなのですが……それ、『火の玉ボーイ』ですね。私、箱入りのを持っていますよ(再発のCDですが)!

そういえば確か、平井先生の単位は取れたんじゃなかったかなあ。
日本の新聞発達史(のようなもの)だったと思うんだけど。(つづく)

2008-08-22

Bloggerがアップデート

管理画面が新しくなりました。
あまり使い勝手が変わったようには思いませんけれども。

このところBloggerが倒れていたので、引越を視野に入れて、今一度ブログツールをいろいろ比較してみたのですが、Bloggerのいいところは、なんといっても

複数ブログを広告なしで運営できるところ(しかも無料)

これに尽きます。

ブログを開設しようと思ったらいくらでも選択肢がありそうで、複数ブログ対応というのは、案外少ないのです。候補は他に……と見ると、ココログがそうでした。ニフティのブログですね。安定していそうで、魅力を感じました。

DTIブログも検討しましたが、Bloggerの記事がインポートできませんでした。

というわけで、まだなんとなくBloggerにいます。。。。

2008-08-14

Bloggerがつながらない?

どうも今週はBloggerがつながらない日が多く、ブログの表示そのものがままならない状況でした。スタッフブログでもところどころ障害報告されているようでしたが、私がつながらないと思った状況とは必ずしも一致しておらず、別の障害の話なのかもしれません。

ちょっと、引越も検討中です。。。。

2008-08-13

何事も経験、と言ってしまえば開き直り。

前回のポストで、というか、勝間和代さんのブログにコメントを書いて、かなり初心へ帰りました。

まず──私は「言い訳の多い文書はきらい」と言っていながら、それが自分ではないですか。

そして、「言い訳」でなくて「説得」なんですね、必要なのは。あるいは、私はこの言い訳と説得がうまく分岐していなかったのかもしれないです。「説得」させるに必要な努力を払うということ。私はこれがあやしい。──いや、全部の文章がそうある必要があるということではなくて、書く技術として当たり前にあるべきである。

それからやっぱりミスが多すぎる。落第。いや、これも単に優秀さで片付けちゃいけないんですよ、きっと。そこがミソ。いけないのは、「ミスをしないようにしよう」って思わないからなんです。で、あとは単純です。「ミスをしないためには」……ってつぶしていけばいいんです。

2008-08-12

ブログは実際のビジネスの箱庭である

公認会計士・経済評論家で、現在はなんといってもベストセラー著者の勝間和代さんのブログに(古いポストなんですが)

ブログは実際のビジネスの箱庭である

と書いてあって、コメントというものを書きました。転載します。そういう場合はふつうトラックバックをかけるわけですが、このBloggerというブログはかけられないんですね。しかもこのBlogger、昨日までどうも倒れてたような気がします(ぜんぜん開かなかったので)。

それから、コメントしたはいいけど、htmlが無効でした。大失敗。コメントはやり直せないので、しょうがないからやっぱりここに転載いたします。



私は自営業でライター(最近はサイエンスコピーライターと言っています)です。同業者を見渡しても、我(々)がどうしようもなく苦手だったり、それじゃあしょうもないぞということがあって、それをお互い誰も言わないという状況を感じています。これはかなり、笑いごとではありません。

ひとつには、今日たまたま「ブログは実際のビジネスの箱庭である」を読んで、また情報起業についての勝間さんの記事で、以前の私のブログで趣旨としてはかなり同じことを言おうとしたことを思いだして、2つのことが明々白々、明らかになりました。

1 私はビジネスがヘタである
2 私は物を書くのがヘタである

やっぱり!という結論です。そうなんだよ、ライターっていうのはほんとに優秀じゃないんですよ(私の場合、とお受け取りください)。

1にあるように、私はもともと起業(特に女性、IT系)に興味があって、ブログには当初からビジネスのモデルだと思って取り組んでいたにも拘わらず、内容的にはそういう取り組みに全然なっていない、特に検証の方法が感情的であるような(そういうのは検証とも方法とも言わない)、特に初期の頃はそうなっていたと思います。

そこで2は、すでに露呈しています。1がおこったのが「ブログは実際のビジネスの箱庭である」と明白に理解していなかったから、だからです。そのひと言が書ければ、もっとうまく回せたかもしれない、それは両輪だろうと思うのです。

どうしてそういうことが起こるのかというと──多少日本語の問題もあるかもしれませんが──書くということは誰にでもできるし、ある一定の教養のある人は原則的に書けるということを、我(々)が認めたがらないというところに一因があるのではないかと思います。(うーん、このような「説明」で一体何割を説得できるのか、と思うとおよそ自信がないことにも気づくわけですが)

で、2では特に、私が「同じこと」と称する記事がこちらになります。やれやれ、どこが同じなんでしょう。いろいろ勉強になったお礼に「内容のないブログの例」として献上いたします(笑)。

勝間さんのさらなるご活躍をお祈り申し上げます。

2008-08-11

海でやろう。


東京メトロのマナー広告シリーズ「家でやろう。」は、はじめは確か、車内で、あまりに「at home」にくつろいでいる(寝てる)若者(男)の図案だったと思う。インパクトは強くて、だから憶えているわけなんだけれども、メッセージとしては、「そうかなあ?」という気もした。しかし続いて車内で化粧、車内でケータイしながら泣き始める、というようなシリーズが続いて、「なるほど」と遅ればせながらわかってきた。

車内マナー広告といえば、駆け込み乗車はおやめくださいから始まって、脚を投げ出すな、リュックを棚へ、イヤホン等々まで、定番ずらりのジャンルであって、確かにもう伝わらなくなっていたと思う。そこへ出てきたアイデアだったのだ。

またデザインの雰囲気からタバコのマナー広告も思い出すけれども、逆にそれをパロディしているようなところも感じられる。

なるほどね、「家でやろう。」か。

と固定化していたこちらの頭のカタサをぶちこわしてくれたのが、この節、東京近郊で掲示中の「海でやろう。」というわけである。いやー季節がらスカッといたしました。

2008-08-10

科学者の人生は、誰が考える?

前回の続きです。
これね、ポイントは、さして新しいことも言っていないので、むしろ一般的な話である、ってところだと思うんですよ。

「ある問題を引き起こしたのと同じマインドセット(型にはまったものの考え方)のままで、その問題を解決することはできない」

アインシュタインの言葉です、と言われなければ別にどうということもない。もし、この考え方のオリジネータであるというのなら違ってもくるけれど、そういうわけでもないだろう。

そうなると、むしろ、「アインシュタイン"も"」そう考えていたというところに価値があるんじゃないでしょうか。

そうなるとこれは考えようによっては少々よじれた話で、ふつう名言とか示唆に富む話というものは、そうか、そうだったのかと「発見」または「再発見」して、さて明日から採り入れてみようというわけなのだが、「科学者の話」の場合は、そうか、アインシュタインも"自分と同じように"そう考えていたのか、自分もなかなかイケてるではないか──! と話があべこべに進展していく可能性がある。これ、つきつめると、アインシュタインをサカナに、エライのは自分(読者)って話になりかねないですよね?

もちろん、それだけではなくて、たとえば──科学者の人生というものについて、改めて考えさせられる、という方向へ行くことも多いと思う。でもその場合でも、自分だって既にそう考えていたというところは変わらないし、つまり自分と同じものを発見したオドロキというのが、「へえ、そーなんだ」の中味となっている。

うーん、特にアインシュタインに顕著なのは、彼が有名だからで、科学者ものというのはもしかして、みんなこの基本構造を持っているんじゃないか……という気もしてきます。

2008-08-09

発明家とアインシュタイン

発明家で非電化工房を主宰する藤村靖之氏のメルマガ「非電化工房メールマガジン Vol.31」に、アインシュタインのことばが引用されていた。曰く──
「ある問題を引き起こしたのと同じマインドセット(型にはまったものの考え方)のままで、その問題を解決することはできない」

というのは、まず、辻氏による藤村氏へのインタビューをまとめた『藤村博士のテクテクノロジー』または『テクテクノロジー革命——非電化とスロービジネスが未来をひらく』(藤村靖之+辻信一 大槻書店)というタイトルの本が、9月20日に出版されるのだそうだ。そして、そのまえがきに、辻氏が書いたものの一部に、上述のアインシュタインが載っているというのである。

藤村氏には『愉しい非電化』をはじめとするご著書があるわけだけれども、藤村氏が面白いと思う誰かがインタビューがするのはおもしろいだろうし、辻信一氏は、『ネコとサカナ』の翻訳で、不思議な選球眼を感じていたところだったので、「自分で言うのはおかしいのですが、よくできた本だとゲラを読んで思いました。」と藤村氏が言うのも、言葉通りに受け取ることができる。

それでもって、話はアインシュタインへ戻る。

文脈からすると、辻氏は、藤村氏の発明家としての資質に、新しいマインドセットを感じたということなのだろうと思われる(とにかくまだ世の中的には存在していない本についてなので、もしかしたら違うかもしれません)。そこで辻氏が引用した意図はともかく、これを読んだ「またまたまた」聞きの私が、へえーとか、ふうーんとか思ったのは、なんでだろうというのが少々気になったのだ。(つづく)

愉しい非電化—エコライフ&スローライフのための
藤村 靖之
洋泉社
詳細へ

ネコとサカナ
ジョーン・グラント
アールアイシー出版販売
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2008-08-08

ロボットと勝間さん

勝間和代さんのブログをぼおっと読んでいたら、「スキーム」というコトバが飛び込んできて、さすがにハッと目がさめた。

そうなんだよー。ある現象を見聞きして、その中にあるエッセンスを取りだすというのはひとつの知恵である。見出し得たことはなるほど功績だが、まあそうは言っても、それはもともと対象の中にあるものだ。ところが「スキーム(sheme)」は違う。その対象の中には「ない」ものであり、抽出されて一般的な部品に分解され(break down)、対象を選ばす適用できるよう開発された「システム」なのだ。

だからこれは、まったく新しいものを自分で作っているわけである。こういうものを作ることを、つい「ひねりだす」と言いたくなってしまうのは、私がこの作業に弱いからだ。(ついでに「作業に」は「頭が」と言い換え可能な気がする。。)

エッセンスの作業とどう違うのかな、と考えると、私はおそらく「ツール」にするのがヘタなんだろう。科学者はもちろんツールにも強いわけだけれども、勝間さんは経済活動のような有象無象なアイテムを相手に、ガンガン切り出して「ツール」にしちゃうのである。

なーんて、いろいろ言ってすみません。先般夫のススメで初めての勝間セミナー「人生戦略策定セミナー」に参加して以来、私は勝間さんのいろんなタームをあれこれ使ってみるのが楽しくてしょうがないのである。コトバと概念と話題が見事に切り出されていて──ほら、なんで豆腐のようにぐにゃぐにゃしてものさしをあてたりできなそうなものを正確なひし形に切れるんだろう、というあの感じ──それを積み木のように使えば、誰にでもいろんなシステムが組めたりする。ああ、そういうキットも発売してくれたりするといいなあ、なんて思ったりするほどなのである。

ところで、賢いロボットとはどういうものか?──ということを現在考え中。考えはたぶん停滞していたんでしょうね、そこへ勝間さんがどーんと現れたのだった。やれやれ。

2008-08-07

ほんとうは生活の一部である科学。

石の上にも三年、ブログもまずは1年やるとよいなどといいますが、ちょうど今回の投稿が50回目にあたります。で、だいぶ話をはしょるようですが、週1回の投稿ペースなら、これがざっと一年分に相当するわけなんですね。

なかなか。やはり発見があります。

ブログを始める場合に、特にいわゆる「仕事ブログ」の場合は、それなりにああこれを書こう、あれを書きたいというように思って始めるものだと思うのです。しかも私は本業が書きものであるような場合なわけだから、なおさらそういう思いで始めたはずだったのです。しかしながら、それでもやはり、思いだけでは書けません。

何か手にあまるもの、論理の骨格が露出してこないものがあって、いくら書いても堂々巡りなものになってしまう感じがある。たとえば科学と広告というのは、誰にとっても生活の一部だろうと思うのですが、たったそれだけのことがどうもうまく言えなかったりする。

で、このような動かぬ岩のようなところから(あくまで私にとってですが)あえて攻めていく方法もあるけれども、まあ、やっぱり自分が手に負えるところで、科学ということを見回してみると──とりあえず料理が一番なんです。

料理のことはかつて「東京ごはんブログ」で頓挫しており、また料理でほんとうに追究されていることはおいしさであって科学ではないけれども、……っていろいろあるんだけれども、科学のごくはじっこにある料理ってことで、そのおもしろさを書いてみたいと思います。

科学のごくはじっこにある料理ってことでおもしろいのは何かというと……たぶん「化学反応」です。いろんな味がいつのまにかひとつの味になる。材料が変成する。温度、水、こねるなどのいろんな要素が関係してきます。

そんな意味でも「粉もの」はかなり王道じゃないかと思うのです。

2008-08-05

「粉もの屋は粉だらけ」!?

毎日暑いですねえ。昨日は室内の温度計が気がつけば31.5度! 冷房を使わないわけではないのですが、誰かが冷房を使うと、外の空気がちょっと上がる。そう思うともっとうんざりします。背に腹は代えられない、ってこともありますけれども。

で、続くのが言い訳ですが、こう暑いと、ブツリはきついです。もうブツリとかリョーシとかはできません。考えられないもん。これきっと、ほかのものでもそうですよ、たとえば推理小説とか。やっぱりそよ風のふくビーチ(日陰)とか、キンと冷房の効いたホテルのロビーとかが似合うじゃないですか。ってことは猛暑の中では読まんのですよ、きっと。

というわけで、今回は、料理的ジャンルの話。中でも粉もの、つまり小麦粉とか上新粉とかいろんな粉がありますが、そういう炭水化物の粉ですね。それらを使ってどうする、こうするという話。こういう実践は暑くてもがぜん向いています。

実は、音楽のブログである「響けブログ」に、すでにいくつか掲載しているので、これらからまず画像をふたつご紹介したいと思います。

これらは今のところ「仕事」ではないのですが、科学の生活部的に発表できる機会があるとうれしいです。(今のところはないのですが。しつこい)。



上がシェフによる見本、下が実作。

2008-08-02

ウワサのドーナツやさんのトラックが。


通い慣れた横断歩道を信号待ちしていると、高速から降りてきたトラックに、見覚えのあるロゴがプリントされています。トラックはあっという間に右折。

街中を走るトラックって、確かに広告効果があるんだよなあ。

2008-08-01

ダジャレ王。


近所に、かなり急な坂になっている場所があるんです。道の片側は公園で、こんもりとした緑に、せみがいっせいに鳴いています。毎日日射しが強いですよね。そこでふと見上げると、このポスターです。

ふう。