2008-08-26

昔の原稿に遭遇して、昔の名前を思いだした。

とても昔にウェブ用の料理本の書評というものを10書いた。細かい仕事を覚えているのは仕事量が少ないせいに違いないけれども、料理本の書評だけを10も書くというのは面白いと思ったし、だいたい書評を書くのも初めてだったので、そのおいそれとした気持ちを、よく憶えているのである。

しかしそれっきりウェブで見たことはないなと思っていたら、旧姓だったためにサーチに引っかからなかったのだった。こないだエゴサーチ(自分の名前等の固有名詞を検索すること)したら、ひとつだけネット上に残っていた原稿が見つかった。転載しても問題ないだろう。

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TEBA MADNESS—男の料理 手羽
西川 治
マガジンハウス

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『TEBA MADNESS 男の料理 手羽』
西川治/マガジンハウス/1996年/1359円

 料理というのは、ホント、人柄である。いや「舌柄」と言うべきなのかも知れない。
 著者の料理はどれも、大皿に大量に盛られ、さまざまな食物が鮮やかに見え隠れしており、あるいはこんがりと色づいており、味もしつこくない程度に濃密だ。そして、およそ蓼食う虫の好きずきを超え、誰もに必ずや「うまい!」と言わせるレシピなのである。
 今こんなことを言うのもナンだが、私は昔、こういう本をばかにしていた。
 こういう、というのは、まず本職の料理人じゃない(著者は高名な写真家である)。また国内外に師弟関係などがあって技を継承しているのでもない(というのはウソで、実際には世界各地の料理人と交流をお持ちである)。来る日も来る日もだしをとるだけの修業時代や、「素晴らしい」と言われるまでソースを練ったなどという逸話もない。……詰まるところ、ちょっと器用な素人じゃないか。
 しかし、である。そういった偏見は「うまい!」という動かしがたい現実のまえで、粉々に砕け散った。さらにそこから一歩進んで、「西川治の料理は必ずうまい」(すべての料理を試したわけでもないのに)と言い切ってしまおう、と私は思う。
 なぜか。
 彼はまず、人が気になる、うまそうな食材を見逃さない。そもそも「手羽」という食材そのものが料理ごごろをくすぐるわけだが、それに取り合わせるものも味噌、オイスターソース、高菜、にんにく……と、ちょっと目につくような食材は、必ずどこかのページで盛り込んでくれている。しかも、一度にひとつとは限らない。
「(パルミジャーノを)マスタードと一緒にオーブンで焼いてみた。このふたつが出あうのだから、まずいはずはない」
 次に調理法もカレー、鍋、煮込みご飯、ラーメン、炭焼きと、ロングランの人気者が目白押しだ。しかも一品中にして、濃厚さとみずみずしさ、脂っこさとさっぱりが共存する。そしてまたもや、一度にふたつとは限らない。
「栗だけでは味も単調だし、料理にリズムがない。ならば里芋を入れてみようとおもった。おなじような形でおもしろい。だが口に入れたときの感触が違う。一つは舌に滑らかでやわらかい。一つは、ホクホクとさらりとした歯応えがある。その二つのリズムに手羽の粘りつくような感じがおもしろい」
 言うなれば、うまいものの合議制。著者は素材から調理まで、すべての段階において「うまい」を選びとっているのだ。そして、著者の追求の旅は、さらに続く。
「単純だとはいっても、そこには複雑に絡みあった味蕾の神経を充分にたのしませてくれる微妙な味がある。この味覚を感応できるのは、オノレの舌の熟成度しだいだ」

2000-07-02/根本瑠絵

それで、これまでの旧姓というものに関する態度を改めることにした。根本池谷と言ってしまうのである。自然じゃないのは気に入らないけど、私の旧姓は根本で、結婚後は池谷ですと説明するのはもっと面倒だ。これまでは、どちらかを選ばなければと思って現在の池谷を採用してきた。それはいいが、その時、過去を切り捨てる気持ちがあったのはよくなかったと思う。根本瑠絵と池谷瑠絵はつながっている。

子供が保育園のとき、一緒に通う子供の中に素敵なおかあさんがいて、その人が夕暮れの帰り道の雑談で「私、旧姓がタムラというんですけどね」とふと漏らしたときに、いい話だなと思った。ほんとうはその時に気づくべきだった、と思った。

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