2011-03-17

いろいろな集金活動が立ちあがっているようだ。

今回の地震は、地震そのものがたいへん大きな規模の自然災害であり、しかも地震発生から非常に短い時間で、大規模な津波が到着した。地震だけでも、たとえば比較的記憶にあたらしい阪神淡路と比べても、規模がちがう災害に見舞われた。ということはわかっているようで、ではどのくらい大きくて、その大きいところでのどのくらいの違いが、どれだけの被害の違いを生むのかといったことは、私にはあまりよくわからない。

そこで知り合いの科学者の方などにちょっと聞いてみたりすると、やはりもうぜんぜん違う規模なんだよ、というふうに教えてくれたりする。科学者のいいところは、そういう本当は体験しなければわからないようなことを、頭の中ででもこういう数値であれば規模はこのくらいだろう、と予測し、イメージできることだ。そして「実際に体験している人はすごかったと思うよ」という想像力と、実際にはまだ未検証であることも忘れない。

そういうわけで、まずは非常に大規模な地震と津波だったということを覚えておこう。そして平時からあんなにも備え、自分たちや地域の人たちを救おうとしていた被災地の人たちが、多くの身近な死と生活の基盤の喪失を体験しなければならなかった──このことに、やはり私は特別な同情を禁じ得ない。

というのも、私はテレビを見ないので極めて断片的な情報しかないのだが、災害発生からあまり時間が経過していない段階で、被災地の人々がマスコミに話しているその様子がとても静かで落ち着いているので、これはどうもお金が集まらない、と思い込んでしまった。こういう東北のことを私たちは、これまでも、あまりにもすぐに忘れてしまってきたのではないか。

東京ではそのあと、なんだかよくわからない間にスーパーの棚が空っぽになるなどいわゆる「買い占め」が起こったが、これはある意味、東北のことを一度自分と「切り離し」たためだろう。私はうまれてこのかた東京近郊に暮らしているけれど、いま、これほど東北を近いと感じたことはない。彼らの平板な話しぶりに、東京弁の来し方を聴く思いがする。──こういったことが今回の地震に対する私の反応の心情的、あるいは感傷的かもしれない側面の概要なのだ。

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