2008-07-24

再読『イトイ式コトバ論序説』


もうほんとに80〜90年代っぽい話で、恐縮なのですが。

その昔、「夜中の学校」というシリーズ番組があって、広告批評の編集長(だったと思う)氏がセレクトした講師が、それぞれの持ちネタというか分野について、30分の連続講義を行うというものであり、それをほとんどそのまま本にしたのが、これまたシリーズで刊行されていた。

その一冊が赤い表紙の「イトイ式コトバ論序説」で、それは糸井重里氏がコピーライティングの「原論」のようなものを少なくとも何回か分は大系としてまとめた稀少なものなのである。

先般からこれをちょっと参照したいなと思っていたが、とある経緯で手元に寄せて再読できることになった。読んでみて抱いた感想は、抱いてみて、以前のものとまったく同じだということが改めてわかった。ただ以前はここのところがどうしてもわからないなといういくつかの点があり、今もやっぱりわからないのだが、これを読んだ限りではわからなくてよいということに、今回は気づいたのだった。

もっと言うと、この本は「コトバはコトバの素の集まりである」と要約できる。

そして先を急いじゃうと、このようにどこまでも「コトバ」であると考える──たとえばコトバの素は、「感じ」とか「状態」のそれぞれの内容であって「コトバ以前」という言い方もできるわけだ──の方法は、とても遠くまでいけるということを、改めて実感した。

そうすると、先日書いた「私はことばにしなくちゃいけない。」というのはどうだろう?──ということになるに違いない。サイエンスの最先端で、最初にコトバにしたのは誰か──草陰の名もなき花の名を言いし、その人のことだ──というと、これもやはり科学者なのだということに、断じてなるはず、である。

作りだし、あらしめたのは科学者である。
で?

この「で?」というところを、科学者と一緒に考える。そんなところにもサイエンスコミュニケーション活動に、「広告」的な要素を感じます。

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