2008-07-10

リョーシ猫のふかふか読み。



作家の金井美恵子さんが、そのエッセイの中で、本というのは最初の1、2ページを読めばだいたいわかる(1ページだったか、2ページだったか、……正確には覚えていません。こんど調べておきます)という趣旨のことを書いていた。

ビジネス本が「趣味」という夫に、つい「良書を読むための条件は、悪書を読まないことである」と言ってしまうリョーシ猫であるが、悪書を読まないためには、最初の1、2ページで悪書かどうかが判断できればきっと都合がよいであろう。

私が思うには、最初の1、2ページを読んでもわかるのは、書いた人がどういう人で、この本を書いたについてどういうつもりか、ということである。その人がこの先どういうことをするか(この先何が書いてあるか)は、しかとはわからないが、どういう人かはわかる、というわけだ。どういう人かは、本を読む動機としてはとても大事なことだから、誤解を恐れずに言えば、金井美恵子さんが書かれていることはよくわかる。

だが一旦本を離れてみると、何者かであるよりも、たとえばいわゆる肩書きよりも、その人がなにをするか、その行いのほうが大切だという考え方には、たいへん共感する。でもって本へ戻ってきて、私はこんなやつだけど、これからいろいろ芸するから見てくれよ。見ないで帰ってしまって、おもしろくなかったって言われてもあんまりじゃないか。──ということになりかねないわけだよなと。

だが、あえて言えば、そういうことも含めて、「どういうやつか」というのが、テキストのすべての中に、そして最初の1、2ページには「特に」現れているように思うのだが、どんなものだろう。

ついでに猫が、ちょっと興味を持ったものを、片手の肉球でちょんちょんと触って、それっきりどこかへ行ってしまう、あの仕草をどうも思いだすのだが。(というわけでふかふか読みってば。)

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