2008-12-04

隣人としての理系

観覧車の顔

(前回のつづき)
「ずっと前からさ、隣に住んでるのにひどいじゃないか」と、しかし、理系はあんまり言わない。むしろ「科学的整合性というもの」がわからないのだからしかたがないな、と思う人のほうが多い。さらにその内容についてもちゃんと説明しようとしてくれる隣人が多い。

ただ実は理系にも盲点がある。科学技術に関心がない人、科学的整合性にこだわらない人は、世の中大多数なのである。なぜそんなにもたくさんいるのに、それまで気づかないのか、というところがヘンだと思いませんか?

この理由として私が思い当たるのは、まず第一にフォーカスしているものが違うということだ。たとえば科学的整合性を見ているときに、会議に出ている他の人が「ランチに何を食べようか」と考えているかもしれないことは、思いも寄らないだろう。では何にフォーカスするかといえば、語弊はあると思うけれども、簡単に言ってしまえば、解けそうな問題である。それによって科学的な世界が一歩進むことができるようなところへフォーカスしたいわけだ。すると一般にあきらかに、いかにも解けそうもない問題は、日常的にどんどん視野から外れていく運命にある。

したがって、私たち大多数そのものが、理系にとって解けない問題なのかといえば、たぶんその類なのである。でもだからといって早合点してはいけないのは、彼等は何も感じないのかといえばそんなことはあるはずない、という点である。興味がないだけで、それは社会性とは別の話題だ。それに理系だって結局は気付いているのだ、大多数が科学的に考えないし、ほとんど無視してるんだな、ということに。なんだかんだ言って、むしろ、およそのところはわかっているように私は思う。つまり文系の文系たるところは混沌としているけれども、混沌としていることをよしとするなら、だいたいこんなとこなんだろうね、というふうに。

そこへ行くと私たち大多数は、理系が持っているいろんなツールを持っていないし、使い方もわからないし、その当たり前な正しい世界をうまくイメージできない。理系の理系たる中味については、おまかせっきり、というわけである。しかしここでも理系はそれを独占して「あげないよ」と言ってるわけではなく、それどころか「みんなのもの」だからどんどんやってください、と思っている人のほうが多い。

とはいえ、「科学者」ならばともかく、「理系」と括ってしまうと、私にはどうも血液型判定とか兄弟姉妹の性格特性みたいな話にも思えてしまう。理系の中にもおそろしく幅があるし、「日本の理系は」という話なのか、世界じゅうそうなのかという問題もある。そのようにいろいろ難しいので、今回でおしまいにしようと思います。

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