2008-12-03

文系・理系の間に川は流れる?

観覧車

文系理系という区分は、私にはあまり対称性が感じられない。理系はこういうものだ、という話ならできるかもしれないが、だがそもそも、私は理系ではない。どう考えても、これはあまのじゃくなことになりそうだ。

しかし理系と文系(というものがあるとして)の間に橋がかからなければ、結論から言って、人間というのは困るんじゃないかと思う。たとえば昨日まで隣に暮らしていた外国人のなんとかさんの祖国と、今日から国交断絶なんてことになったらやっぱり居心地悪いことになる。そうなると私の周りにはそんな外国人はいないからいいんだというのは偏狭で、きっと誰かがお隣りさんなんだろうなってことはコドモにだってわかる。

というわけで、前回引用した東野圭吾『さいえんす?』(角川文庫)を読みながら、隣人としての理系、についてちょっと考えてみよう。

この世界、つまり文系の世界に入って痛感したのは、科学技術について関心を持っているのは、世間のごく一部にすぎなかったということだ。無関心などというレベルではない。全く無知といっていいほどだ。
──東野圭吾『さいえんす?』(角川文庫)より

無関心は最大の敵というやつである。科学技術というものの恩恵は受けていても、その重要性を認めなければ、必然、科学技術を担う人も重要視されない。めんどくさいことは誰かがやってくれている、という感覚になるのが轍である。これはかなり技術寄りの話だけれども、いきおい、科学だってそうなる。

科学的整合性というものについて、ほかの人は自分ほどこだわらないのだな、と思ったのはこの時だけではない。
──東野圭吾『さいえんす?』(角川文庫)より

リアリティは、科学的にあり得る、正しいことの中にある。当たり前である。それが世界である。──「ですよね?」と理系が言う。「ええ」と文系が言う。そういいながら文系は続ける……「いや、そうは言ってもね、」というように。

たぶん理系にしてみれば、なかったことにしようとしてるな、と思うだろう。(確かにそうなんだけど。)(つづく)

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