掘っても何も出ない、とわかっていても掘り続けるような仕事は世の中にはあるだろう。掘ってるほうも、何も出ないことはわかっている。それでも何らかの理由によって掘ることになっているし、掘ればそれだけの仕事にもなる。
だがそれが研究の場合には、研究というのは何をやるかを自分で決めるというのが仕事の一歩であろうから、仕事になるとはわかっていても何もでないところを掘るのはどんなものだろう。
ところで今急に思い出したのだが、掘ると言えば、「芋掘り」という行事はなぜあれほどまでに数多く企画されるのであろうか? コドモが保育園の時に3回、小学生でも2回はあったような気がする。私たちの「掘る」というイメージは、そのうちのどれかへの参加体験で形成されちゃったような気がする。
2008-10-30
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