2008-10-16

痛みはどこに在るのか?

体に痛みがある時、よく「切られるように痛い」とか「石が入っているようだ」といったように表現する。日本語は、「腹黒い」のように、非抽象的な表現が本領だそうだから、そういった点も影響しているのか、誰でも広く一般に、こういう表現を使いこなしているように思う。

しかし、一方で「石」だと思うと、頭の中でその痛みが本当に「石」になってしまい、それがかえって悪影響ということも多い気がする。卑近な例で言うと、わたしは最初「人工とうせき」というのが「投石」だと勘違いしてた。というのも、腎臓に「いしがある」という言い方をするので、てっきりその「石」だと思ったのだ。ついでに出産中に「せっかい入れます」と言われたときも「石灰」を入れるんだな、と思ったりした。イメージは「アルカリ」で、「タルカムパウダー」である。もちろんそれは全然間違い。本当は「切開」で、石じゃなくって医師の「執刀」を意味したのであった。

痛いで笑える場合はいいけれど、しかしそうは言っても、笑っているより、正しい認識によって痛いの呪縛から逃れられた方がよいのではないだろうか。これも実際に体験したことがあるのだが、架空の痛みを痛がっているということもある。わたしの場合は自分の体なのだがちょうど見えない位置にあり、傷がふさがっているにもかかわらず、約半年も実際に「痛いと感じて」いたという体験があるのだ。

その痛みは、実に唐突に終わった。つまり、鏡を使って傷が存在しないのを見て、わたしは「信じられない」と思い、そこから1日以内に、ぴたりと痛くなくなったのである。もともとは確かに痛かったのだが、そのうち「痛いはずだ」とか「よくならないんじゃないか」とか「まだ悪いに違いない」といった増幅作用のようなものだけが残ってしまい、どこかで本来痛いかどうかは、どうでもよくなってしまった──そんな経緯だったのではないだろうか。冷静に考えれば、長くとも2週間程度で癒える傷だったに違いないのだった。

ところで先日、抗ガン剤の副作用で脚が痛いという義母に、その話をえんえんとして、「つっぱるような気がする」というのを、本当に痛いかどうかは意外といい加減なものであるからなるべく気にしないようにして、少し歩いてみてはどうですか、と勧めた。しかし彼女にはそういうのは効かないのだった。
「瑠絵さん、ちがうのよ、私のはほんとうに痛いのよ」

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