2008-09-30

サイエンス・カフェ、ワールド・カフェ、動物カフェ。

ワールド・カフェというのは、必ずしも地球規模の環境問題とか、アフリカの内戦のような世界的な問題を取り扱うものではなくて、あるコミュニティでテーマを選んで問題解決へ向けてアイデアを出し合うさまざまなものが含まれるものだそうである。

最近のビジネス書は「対話」が隠れたキーワードになっているようにも思った。

思いつくままに書いていくと、とてもとりとめなくなりそうなので、ワールド・カフェの原則を紹介しておこう。これは文末に掲載の本のamazon.comのなか見検索ページで表示される目次に書いてあったものだ。

1 Set the Context
2 Create Hospitalbe Space
3 Explore Questions That Matter
4 Encourage Everyone's Contribution
5 Cross-Pollinate and Connect Diverse Perspectives
6 Listen Together for Patterns, Insights, and Deeper Questions
7 Harvest and Share Collective Discoveries

1は、以前このブログに書いた「はじめの定義が受け入れられない。」にも通じるように思われる。このことが参加者全員でセットできないと、本来、成功は望めない。この本ではそのことを最初にぴしっと言ってくれているわけである。

2については、私は最近、とても大切なことだと思うようになった。特に夫婦とか親子とかの関係が、夫婦だから親子だからいいことになってしまって、そのいい部分がたいへん損なわれているように思う。個人的に家庭問題があるわけじゃないのですが、またそのように「ない」と思えてしまっていることも問題だ。家の空気は快適ですか? 快適じゃないなら、快適にすべきなのでは?
(続きたいと思います)

ところで、動物カフェのお話はこちら↓
[STARBUCKS' FLY スターバックスの蠅] stories
お暇なときにご覧ください。

ワールド・カフェ~カフェ的会話が未来を創る~
アニータ ブラウン / デイビッド アイザックス / ワールド・カフェ・コミュニティ
ヒューマンバリュー

日本語訳 2007/9/28発売

The World Cafe: Shaping Our Futures Through Conversations That Matter

Berrett-Koehler Pub

こちらが原書版

2008-09-29

圧力鍋はほんとうに使われているのだろうか

非電化工房の藤村靖之氏が勧めていたこともあって──いやほかにも電気釜がかれこれ使用期間10年超になったとか、キッチンのスペース配分の問題だのと、あれこれあって──圧力鍋を購入することにしたのが、2、3ヵ月前のことだった。以来毎日といっていいほど、これで白米を炊いている。

なるほどこれは確かに、使用感として、電気炊飯器同等品である。私の場合は圧力鍋で炊き、残ったご飯は例の「炊きたてに近い味わい」の冷凍コンテナを利用して、いつも炊きたてに近い味わいを楽しんでいる。

私の圧力鍋はT-falの商品なのだが、買ってやや意外に思ったことは、これはかれこれ10年どころじゃないくらい前みたいな取説というか料理集ブックレットがついてきたことだった。

これほど「活用提案」しなきゃなんない商品も珍しいというのに、これではまるで、買ってくれさえすればいいんです、使わなくても、というメッセージとも受け取れたからである。

そこで気になってアマゾンで調べてみると、なんと「在庫切れになっていない」圧力鍋活用ブックはなんと3種類しか流通していない。

ほんとうは別のこと──今日宅配で届いた新米を炊いたこと──について書こうと思ったのだが、なんだかすっかりそれてしまった。そうなんですよ、圧力鍋はほんとうに使われているのだろうか? そのことがすっかり気になり始めてしまったのである。

2008-09-27

子供を受け入れてくれる施設のあるところ

これはまったく個人的な意見だが、もし世の中に自分では養育できなくなった子供を受け入れてくれる機関や施設があると考えられることは、自分の育児の体験からすると、心から救いに思える。

アメリカのネブラスカ州では、年齢にかかわらず子供を病院に連れて行き、世話をしてくれるよう頼むことができる法律が施行されたそうだ。

なぜ親が子供を養育できないのか、については、いろいろな理由があるだろう。養育できると思ったが、事情が変わってできなくなったということもある。お金がないから育てられないという経済的な理由もあるかもしれないし、そうでない理由もあるかもしれず、それらの理由のどれが最も正当であるかというのは、判定が極めて難しいであろう。

この法律について、私が個人的にいいなと思う点は、このような制度があるのだから、自分が子供を養育しているのは自分の意志であり、選択であるということを自覚できるからだ。そして何より子供が生き延びることができるから。

もちろんいろんな考えがあると思うので、いろいろな議論が活発になるのもいいことだと思う。

ニュースについて詳しくはこちらをご覧ください↓
chicagotribune.com
Father leaves nine children at Nebraska hospital

2008-09-26

現物そっくりパンフレット「胡麻油」編



商品そのものとか、そのパッケージをそのまま切り抜いたような絵のチラシやパンフレットなどを時々見かけませんか?──「原寸・現物主義」という記事を、先日ポストした途端に、近所のスーパーマーケットでこんなパンフレットを発見。店頭用のキャンペーンちらしで、比較的型も簡単です。

これは瓶を撮影して、その切り抜きを版下に使っていますね。微妙に解像度が低いのが味。ちなみにこの胡麻油、私も使っております。原寸より、ちらしのほうがちょっと大きいですね。

2008-09-25

製パン技術を楽しむ。

新しい製パン基礎知識
竹谷 光司
パンニュース社

詳細へ

料理の最大の目的とするところは、たぶんおいしいことであって、科学的だなどと言ってしまうとおいしさが半減してしまうかもしれない。でも、料理には技術を欠かすことができない。もちろんどんな仕事でもそうだと思うけれども、しかし料理の場合は非常に多くの因果関係を積み重ねるし、ものが相手であるし、といった特徴が、実際にはそれと意識されていなくてもベーシックなところで科学的な「手つき」を要請するもののように私には思えるのである。

粉もの屋は粉だらけ、といいながらピザを作ったり、プチパンを焼いてみたりしていた私は、ある日アマゾンで上掲の本を見かけ、躊躇なく購入してしまった。私はなんというか、比較的限定的な本の読み方をする方なので、こういう行動はかなり珍しい。だがそれにはかなりの良書の予感があり、また実際にそうだったのである。

たとえば、第一章「製パン原材料編」の扉の要約を見ただけで、そのすばらしさに、私は、もうかなり文字通り、ノックアウトされてしまった。曰く──

パン作りを1軒の家作りにたとえれば、原材料編は土台作りである。どんな小さな家にもそれは必要であり、まして大きな家にはそれにあった立派な土台がなければならない。土台さえしっかりしていれば、変化の多い毎日の中で、常に一定品質の製品を焼き上げることができ、さらに、新しい材料、機械、あるいはちょっとしたヒントから新製品を開発することもそう難しいことではない。まわり道のように思えるこの道が、実は製パン技術習得へのいちばんの近道である。

そういえば、こんなふうに私は料理の本だけは、書評らしきものを書いて、いい本だよ、と紹介するのがとても好きなのだった! だってたとえばここ以外に、いったいどこでパン作りを1軒の家作りにたとえているのを読めるだろう? しかもそのたとえは正しくて、正当で、まっとうなのだ! そしてもちろんこれだけじゃなくて、採り上げるときりがない、そういう“リョーリ的技術”のエッセンスがたっぷり詰まっているのである。

2008-09-24

社内便は飛んでいく。

今朝、朝食を食べていると、子供がふとベランダの向こうに何か鳥みたいのが斜めに横切った、というので、落下していったのか、と尋ねると、それだ、ちょっと見てくる、という。

子供が学校へ出て行ってからわかったのだが、カラスが、桜の木でもう最終ステージという感じで鳴いている蝉がふらっと飛び立つのを、空中から狙っているのであった。この様子には猫もだまっちゃおれんらしく、私の後ろから、やはり窺うように外を見ていた。

ヒトにとって「飛んでいくもの」とは、やはり地上からの視点で、斜め上方をうち眺めるようなのが具合がいい。

ところで社内便を「飛ばす」などというが、これはもちろん「飛脚」だの「郵便」だのが「飛ばす」という組み合わせをひいているわけなんだろうけれども、昔、日本の病院だとか、古いアメリカ映画とかでは、ビル内の文書やカルテの運搬に、空気圧のかかった透明のパイプにプラスチックのカプセルを流すシステムを使っていた。

病院であれを見ると、どうも病院という「体内」を巡る「循環器系」のように見えてしかたがなかったが、そうであるということは、やっぱり時々どっかで詰まったりするんだろうなあ、などと要らんことをついでに思ったりもする。

なぜカプセルのシステムがあるとわかるかというと、それは大概室内に露出していて、通過する際にボコッというようなちょっとした音がするからだ。そこで見上げると、カプセルはちょうど天井付近へ差し掛かっていて、またボコッという感じに階上へ抜けていく。それがまさに、社内便が「飛ぶ」原風景(!?)のように、私には思いだされるのである。

2008-09-23

原寸・現物主義


商品そのものとか、そのパッケージをそのまま切り抜いたような絵のチラシやパンフレットなどを時々見かけませんか?

オリジナルな形に切り抜くわけだから、通常の印刷よりもずっと制作費がかかる。それでもその形になったのにはいろいろな理由があると思うけれども、要するにその形がたいへん特徴的なので、そこを見て欲しいんだ、ということを訴えかけてくる印刷物である。

とはいえ、おうおうにして──というのはことのほか制作費がかかるので──メーカーや制作者の思い入れに反して、消費者は比較的クールに受け止める。

いや、それでも、世の中のパンフレットがぜんぶ長方形だったら、つまらないですよね。そこでそこをあえてやる、というところにまた新しい価値が生まれてくる。

私の貧相な広告制作体験に照らしても、広告にはこういった感じに問題を乗り越えていく局面がいつもあって、原寸大とか、商品のフェイク表紙のパンフレットというのは、これを象徴しているように思えてならない。

でもだから、というわけではなくて、現物・原寸なカタログというのが昔から好きで、ついもらってきてしまうのだった。これはスターバックスので、その前はシューズのメーカーの足形の蛇腹カタログであった。

2008-09-22

わからないもの見たさ。

自分の中で科学へ向かう気持ちとか情熱といったものがどこから由来するかというと、言うなれば「わからないもの見たさ」なのだろうと思う。

年齢に応じてついてくる知恵というものがどうもあって、それはいいものとは限らないのだが、ほらあるでしょう、○○年前の自分だったらこうは対応しなかっただろうな、というような、そういうものの集積が、世の中を理解可能なものにしていて、わからないことも「わからない」ではいOK、という具合に処理できるようになっていくように思う。

その一方で、そりゃ自分に知らない世界があるのはとーぜんだ、と大人は言うわけである。もちろんだ。コンゴについて、北極について、深海について。知らないことなんかいくらでもあるに決まっている。いやちょっとヨコのお隣さんのことだって、結構知らないことありますよ。

そこで科学はどういう意味があるかというと、私にとっては、そういうヨコにわからないことはおいておいて、タテに可能性を拓くものなのだ。過去へではなく、特に未来へ。

年齢とともに過去が増えるのは当たり前だ。と同時に、どうも年齢とともに、未来を想像する能力が減るような気がする。科学はそこをアグレッシブに破る知恵のようにも思うのである。

2008-09-20

時には科学から遠く離れちゃって。

科学のことをひとりで考えていると、どんどん科学から離れてしまう。やはり私が書きたいものも、書けるものも、いずれも科学からは離れているのに違いない。ここらでどっしりと、重いこしあんのあんまんとか、月餅みたいに、科学を注入してもらわないと。というわけで、明日はリョーシカのレクチャーである。うーん、重そう。

2008-09-19

いまどき真っ当なコピーライティング


食べきれないご飯を、おひつにでもなく、電気釜にでもなく、冷凍庫に入れておいて、あとで電子レンジで解凍して食べるというのが、もっとも炊きたての風味が活きる、と言われている。

そういう「常識」がいきわたったからか、最近それ専用の保存容器というのがよく出回っている。

先日、そのての商品をひとつ買ってみた。すると、そのパッケージに曰く

「冷凍すれば炊きたてに近い味わい」

「近い」ですかあ。「炊きたての味わい」じゃないのね。

いまどき真っ当な料理店 (幻冬舎文庫)
田中 康夫
幻冬舎

詳細へ

2008-09-18

BBM『ザ・コピーライティング』を巡って。

土井英司さんのビジネス本書評メルマガ「ビジネスブックマラソン」は1521号を数えたそうだ。現在はブログ形式でも読むことができる。

土井さんはこのメルマガが初号の頃のホームページのデータを保存していらして、以前キリ番の時に公開されたのだが、そのホームページには感動した。いやきっと私だけではなく、ホームページを自前で作っている人ならみんな、感慨深いものがあっただろう。それに、そもそもこういうものは滅多に公開されないものだ。

でもって、それはさておき、今号のおすすめ本はジョン・ケープルズの『ザ・コピーライティング』である。コピーライティングの本というのはおおまかに本質論と技術論があるが、メルマガでは、その2つがバランスよく盛り込まれた引用となっている。そしてまたもおおまかな私見なのだけれど、技術論のほうは主にコピーライターに役立つ一方、本質論は広くビジネス本として実用に資すると言えるだろう。

コピーライターの中にはコピーがどういうものかよりも、コピーを書くほうが面白いという人の方が圧倒的に多い。それに活躍している人というのがだいたいこちらのタイプである。

私についていえば、広告表現がどうして成り立つのかについてのほうにより興味があり、コピーライティングについて書かれたものでも本質論のほうが面白い。

というわけで、さまざまな理由から本質論のほうから2つ転載。

相手の興味を引く訴求ポイントはいろいろあるように思いがちだが、
どんぴしゃりのものは1つしかないのだ

重要なのは何を言うかであり、どう言うかではないのだ


「ビジネスブックマラソン」バックナンバーズ
http://eliesbook.co.jp/review/

2008-09-17

新しいドーナツ屋さん。

近所の通りに、ドーナツ屋さんができた。喫茶店、子供服屋さん、ガーデニング屋さんといった店が並ぶ界隈だ。週末、バスの中からもオープニングの大混雑ぶりがよく眺められたのだが、今日通過すると、客の姿はなく、店先にきれいに並んだドーナツがすっかり見えていた。オールドファッションドな、ベーシックな感じのドーナツたちだった。

ふうん、そういうドーナツだったんだ。と私は思った。でも大丈夫なんですかね、こんなに空いてて。

2008-09-16

建物は今でもシンボルなんだろうか。

world trade center
[響けブログ]という、私の別ブログで、このところ、2000年に行ったニューヨーク旅行について書いている。当時夫が撮影した入魂の写真群──なんとフィルムカメラである──と、2008撮影のGoogle Street Viewの画像を見比べながら、1つの投稿でワールドトレードセンター崩壊前後のニューヨークを同時に訪ねようという趣向だったのだが、これがどうしたことか、好評でないのか、アクセスが伸び悩んでいる。そんなことがあって、これはどうも、古い知識であり情報なんじゃないかという気がしてきた。

あながち古い話ばかりしているから、という意味ではない。ワールドトレードセンターという建物がかつてあり、その中で多くの人が働き、世界に少なからず影響を与え、そのことがまた街の一部であったという時期が、かつてあった。そしてそのような記憶が、建物そのものの記憶と分かちがたく結びついていたはずである。──この「結びついているはず」というところが古いのではないか?

実際問題として、自分でさえ、建物と物語の結びつきはかなり風化しているように思われる。建物が建っている写真を見ても、その物語や事情といったものが、思うように喚起されないのだ。──というわけでつまり、建物を単なる人工物ではなくそのような物語の一部として読み取る情報処理のようなものがわれわれの中で廃れてきているのではないか。

ただよく考えてみると、それが風化というものであって、今にはじまったことじゃないという気もする。しかしながら、それにしても早いというか、明らかにその風化はスピードアップしているのではないだろうか。そもそも9・11の報道にしてからが、今年はずいぶん地味なものだったように思う。土地や建物が蔵する物語/情報喚起力でニューヨークの摩天楼を語ることが古くさいならば、それがシリコンバレーだって同じということになるはずである。

9・11の報道も、2008年の焦点は、ずばり大統領選である。確かにこちらもまた、今に始まったことじゃないという気はするのだけれど。

2008-09-15

正確であろうという努力または意志について。

理論物理学者のリョーシカに、以前私が、池谷裕二さんのホームページのことを話していて、その後逆にリョーシカから池谷さんのウェブページにこういうことが書いてあったという話を聞いた。それは何かというとニューヨークに降り立った池谷氏がタクシーに乗って行き先を告げたのだけれど、「ferry port」と「heliport」を間違えられたという話だった。

さっき見たら、こちらのURLにありました。
「カタカナ英語でいいんじゃない?」
http://gaya.jp/english/katakana.htm


詳しくはそちらをご覧頂くとして、私がとてもびっくりしたのは、さきほどその文章を読んでみたのだが、そこには、あまりにリョーシカに聞いたままのことが書いてあった! というそのことなのである。

どういうことかというと──なんだか説明するのが難しい気もしているのだけれど──まずは、そこに書いてあることが、何の故意過失による「脚色」なく、私に伝わっていたことに、私は驚いた。

確かに体験記のような部分であり、しかも具体例の部分だから、それほど伝言ゲームのようにぶれたりはしないだろう、とは私も思う。だが、内容がまったく同じでも出典を見たら印象が違ったということは、むしろよく起こることだし、さらにリョーシカは池谷さんの文章をまるまる憶えていて、部分的に同じところも多かったというわけでもないのである。

手短に言うと、リョーシカは池谷さんの文章を読んで「これ」と正確に掴んだものを自分の言葉で脚色なしに語っていたのだ、と思う。

正確に書くというのは、その「正確」をどこまで突き詰めることなのだろうか。実際のところ、私はさきほど、「はっ」というくらいに──大げさでなく──驚いたのだった。

2008-09-13

自走式自動車は安全か

もし自走式自動車が街中を走り始めたら、こないだのGoogle Street Viewの車を見た! のように、ああそういう車、見たよみたいになるでしょうね。

でもって未来のこと、っていうのはほら「来年のことをいえば鬼が笑う」にも似て、たぶんあまり粋なことじゃないのだろうけれど、このことについて少し考えてみた。

当然、安全性が問われる。そして仮に安全だとわかっても、ほんとうにそうなのか、と私たちは思うだろう。

ところで、ごく日常の感覚として、私たちはなぜ車を運転するのだろうか? たぶんほとんどの人が車を運転する「ため」ではなく、何か別の……たとえば配達とか、移動する手段としてとか……といったことのために運転しているだろう。「運転するのが楽しいから」というのだって、運転が目的というよりは、その楽しい気分を味わうためと言えなくもない。

ところが自走式自動車というのは基本的に「運転するため」に作られるわけである。そこが第一であり、「それは安全でなければならない」に違いない。もし自分が自走式自動車を作るとしたら──そういう立場をイメージするのは本当に骨が折れるけれども──やっぱりそう考えるに違いない。

実際に作る人は、きっと選ばれた優秀な研究者なので、「運転する」のほうも「安全に」のほうもちゃんと検証して、大丈夫というものを作っていくはずである。ほんとうに大丈夫かどうかは私にはわからないが、もし大丈夫でないようなことがわかったら、その人たちは優秀ではなかったのだということにもなるし、プロジェクトを支えていた資金にも決定的な問題が生じるだろう。それが大丈夫かどうかについては、社会的・経済的な監視付き、というわけである。

かくして原則的には、人類の粋をかけて安全を第一に作られ、しかも人間がもっとも真剣に(他の何かのためにではなく)専一に「運転する」自走式が街を走るようになるはずなのであるが、では万が一それが「人間が操縦式」の自動車と事故になったらどうするのか、ということも社会は考えておかなければならない。これについて誰の責任かというのは、開発者ということはあまりないだろうけれども、それが公道を走ることを認めた人なのか、事故の原因についてどのような言い分が認められるのか、自走式自動車が機械として提出可能な実況証拠について、どれだけ真理が認められるのか……等々あまりに難しいので、私にはわからないが、気になるのは、もしも不幸にして当事者が亡くなった場合に、相手が自走式だったということがとても理不尽に、納得のいかないものに思えるのではないかということだ。

車に乗る、運転するということにはリスクがある。どんな人でもそれを賭して運転しているのであって、避けることはできない。ところがその「自走式」の責任者は、その現場にいないではないか──このことが生物としての人間には、なんというかちょっとずるいことに思われるんじゃないかと思うのです。

この場合、問題はどこにあるのかというと、バーチャルとリアルの対立ではなくて──比喩的に言えば、ということに過ぎないのですが──バーチャルとリアルと生命の三角関係のようなところにあるのではないか。バーチャルとリアルはすでに別々に存在するのではなく、袖振り合うものになっている。ところがそこに「生命」が登場すると、まるで違う二人、といったものに見え始めるからである。

2008-09-12

市民講座とEnglish lectureに参加して机の配置について考えた。

昨日は国立情報学研究所(NII)の市民講座に参加した。大山敬三教授による「データ社会とウェブ ──膨大なデータから見えてくるウェブ社会の姿とは?──」というレクチャーである。NIIの市民講座は毎回たいへん盛況で、参加者の年齢層も若い人あり、40歳代ありと、参加者の笑い声にも活気がある。

ところで私は昨日たまたま同じ日に別のレクチャーをもうひとつ受けた。こちらは英語の論文の書き方などに関するもので、日本人向けに「common errors」とかを教えてくれて、参加者の質問にも答えますよというものだった。

実は英語のレクチャーのほうは、自分の席からスライドが見えにくい上に、資料が配付されなかったこともあって、何か気にかかるものがあった。それが何か、しばらくわからなかったのだが、はたと気づいたのは、そう、席や机の並べ方なのである。

私たちがふだんレクチャーを受けたり、打合せをするときに、というのは日本でということになるわけだが、机がどう配置されているかというのはだいたい決まっている。絵に書くとだいたい下図のような感じで、まあ形としてもレクタングルで、直角直角に並べるのが基本だ。

そのほうがきちんとしているというイメージがあるからだというのはわかるが、たとえばこんなふうにすることで、その人の話に触れたい、聞きたいとか、気軽に質問しようとか、話し手と聞き手が対立的な関係じゃなくて一緒に目標をみよう(それがレクチャーなら「共通の理解」という目標でもいいわけだ)というように雰囲気が一変するのではないだろうか。

すると日本人である私はすぐに、それじゃ主催者が机を並べるのがたいへんだ、とすぐ思ってしまうわけなのだが、考えてみれば「会社は誰のものか」ではないが「レクチャーは誰のものか」といえば参加者のものなのだから、参加者が手を加えるのだってよいのである。誰がやるべきかではなく、どのようにしたらそのような雰囲気が作れるだろうか、といささか思った次第である。

ところでこの市民講座、この秋まだまだ開催されます。詳細はこちらから
[国立情報学研究所 市民講座2008年度]
http://www.nii.ac.jp/shimin/index-j.shtml

2008-09-11

画像収集車、グランド・ゼロをゆく

Google Street View という新しいツールで、Ground Zero界隈をうろうろしていて、当たり前のことだが、そうか、ストリートビューでは車が入れないところの写真は撮れないのだということに気がついた。たとえばセントラルパークの中はあんなに広いけれども、車が通れる道路の画像しかない。ついでに、人間と違って、この中継車ならぬ画像収集クロールは、道の両サイドを同時に収集するのである(だから車線が多いと左にはバスが、右にはタクシーがという状態になってしまうことさえある)。

Wall Streetも、再開発中というか、トンネル内の画像になっていたり、そもそも車が入っていけないエリアになっている通りも目立つ。こういうのはなんとなく、画像収集クロール車が立ち往生しているようで、愛らしい感じさえするのだが。

しかしいったんズームアウトすれば、きゅうくつなウォール街は一気に遠のき、Street View 対応であることを示す青い印のついたニュー・ジャージーやロングビーチがいっぺんに視野に入ってくる。確かに車が行けないような場所をいちいち細かにかまってはいられない。画像収集クロール車が行かなければならない場所はまだまだあるのだ。

ついでに車社会といえば、東京の場合は通りを撮っても、十分な情報が得られるかのか、どうだろうか。なにしろ地下のほうが'ショッピング本通り'のようになっているエリアもあるし、'駅中'の充実ぶりは、おそらくもう駅の中に街、通りがあるような状況だ。自分が東京について情報を持っていて、ニューヨークについて乏しいという決定的な理由も与るとはいえ、東京の「ストリート」が多重化、多層化しているのは確かだろう。

夫が言う、「車のナンバーや人の顔を消してるらしいよ」
グーグルのことだ、そんなめんどうなこと、手でやっていないよ、断じて!

しかし、こういうときこそコツコツとこの新しいツールを使ってやろうというのが、"人間らしい"と私は思う。機械を使えば使うほど、ロボットを使えば使うほど、じゃあヒトがやるべきなのは何なのか、いよいよ顕れてくるのである。

※ところで、私が実際にニューヨークへ行ったのは、同時多発テロ(2001年)前の、2000年でした。旅行記はこちらへ……[響けブログ]「ニューヨークのパレードとWTC」

2008-09-10

Google Street View で訪ねる 9/11の記憶

Google Street Viewが公開されたというニュースで、夫がすごい写真の枚数だというから、どうせ買ったんだろうと私は適当に答えてしまった。根拠がまったくないわけじゃなくて、以前、グーグルは写真を買っていたのだ。グーグルマップスの画像でGoogleでないクレジットを見かけたことがある方も多いに違いない。

まさか、と夫が私に新聞の記事を見せた。Google Street Viewの撮影車がそこには写っていて、つまりこの最新のタクティクスで、ストリートビューの画像を集めていたらしいのですね。知らなかった!

いやしかし、である。かくいう私も実は、写真を買ったからって、じゃあ誰がその画像と地図をつなげるんだ? という疑問に自分で答えられないでいたんです。航空写真ならそのままマップだし、万が一人間の記憶違いがあっても、辻褄が合わなければすぐわかる。だが、その写真が地図上のこの点だなどと誰がひとつも間違えずにマップできるだろう? グーグルがそんな面倒な人海戦術を使うわけがない。──そうか、GPSか。

ワールドトレードセンター跡地
「でも車を運転しているのは人間でしょ?」と夫は言う。

そこで私はpenの特集号「夢のロボット!」にたまたま掲載されていた自動操縦車を見せてあげた。これはセンサーをたくさん搭載したり、きっと交通法規を理解したりして、要するに自走できるシステムがついた自動車なのである。つまり車を自動操縦にすることだってできる。やろうと思えば。

「ふうん」

Google Street View という新しいツールで、私がまずは最初に見たのはニューヨークだった。WTC跡。朝のラッシュ時だろうか。通勤らしい人々が、WTCの跡地を通り抜けておそらくメトロの入口の方へ、急いで歩いていく姿が映っている。

※ところで、私が実際にニューヨークへ行ったのは、同時多発テロ(2001年)前の、2000年でした。旅行記はこちらへ……[響けブログ]「セプテンバー、そしてニューヨーク。」

2008-09-09

タワーとたくさんの平屋。


前回「平屋とタワー」についてふれたが、実はイーウーマンサーベイというウェブコンテンツに、大道芸人で数学者のピーター・フランクルさんが登場して、こんなことを書いている。

数学は高層ビルに近い構造です。途中の1階部分でも抜けたら全体はWTCのように崩れます。一方の文学はたくさんの平屋が並んでいるような構造です。徒然草を読まなくても三島文学の専門家になれます。

ものごとには『「広く浅く」と「狭く深く」の2つのやり方』があるとフランクルさんは言う。そして数学はどちらかというと「狭く深く」なのだそうだ。

ところでこのいわゆる「タテとヨコ」という区別は、「本音と建前」にもなんとなく似ていて、そうやって切っておけば済む何事かのような気がするのも、いなめないことと思う。だがフランクルさんが言っているのは、まったくその通り、そのままの話だと私には受け取れる。そしてこれらを、いろんなふうに思う。

たとえば、「狭く」は誤解されやすい。なぜそこから始めるのか。以前書いた「はじめの定義が受け入れられない」とも通じるところかと思います。

「途中の1階部分でも抜けたら全体がワールドトレードセンターのように崩壊する」
というのは「細かいことにこだわる」というのとは違う。実際ピーター・フランクルさんは同じ原稿の中で「数学が苦手な人のなかでは、細かいことにこだわらない人の方が多い気がします。」とも言っている。

誤解を恐れずに言えば、数学が「途中の1階部分でも抜けたら崩壊する」のは、「狭く深く」が故に不可避なだけであるというのがひとつ。もう一つは1階と2階、15階と16階とは著しく違うという認識が前提されなければならない──そこへいくと平屋の隣同士は「細かいこと」なのである、という認識だ。実際人間はタテに飛躍するのはたいへん難しい。ちょっと隣を覗いてみるのとは違って。

このように見ていくと、この記事がとても親しみやすい数学入門になっていることに気づく。これを読むことで、そうか数学ってそういうものなのか、というふうに思えるからだ。どんな分野でもそうだけれども、それでいったい何をやっているのか、という抜本的なつかみが悪いと、なかなか進みがはかどらない 。科学を相手にするときは、そんなふうにてこを利かせながら進むのがコツというべきだろう。

2008-09-08

オカピのこと、絶滅した哺乳類のこと。

ズーラシアンブラスという素敵なバンドがあって、そこから「オカピ」というものを私はより詳しく知ることになったのだが、ズーラシアンとオカピと動物園ニュースについては、[響けブログ]http://blog.goo.ne.jp/hibikeblog/をご覧ください。

それでもって最近乱読傾向に入っていて、何を読んでどう思ったのかすっかりわからなくなってしまったのだが、その残暑厳しき真昼にふと、集中豪雨を待ちながら、「哺乳類のなかで、どうして人だけはこんなに密集して生きることができるんだろう?」と思ったである。

一方で、絶滅した動物には哺乳類が多いことも知った──せっかく知った気がしたのに、それをどこで知ったのだかさっぱりわからなくなってしまった。そのためにさっきからかれこれ小一時間もいろんな本をひっくりかえしているのに、だめなようなので、ぜひご容赦願いたい。

さらに、恐竜の時代が終わって、われわれがよく知っている、つまり標準的な動物図鑑に載っているような種の一覧にたどりつくまでに、非常に多くの哺乳類が絶滅していったらしい。その動物たちについての本は、さっき注文したところだ。

オカピが生きていくためには、熱帯の森林がなければならないわけだけれども、なわばりとしてたとえば半径何キロメートルといったエリアが必要であり、それは他の動植物とかぶってもかまわないけれども、重なってはならない種の組み合わせもあるはずだ。そうやって地球の陸の表面を陣取り合戦していくと、どうしたって地面が足りなくなる。

集積して生きるというのが、なにやら新しい知恵のようにも思えてくる。

平屋でなくタワーというのは、案外新しい発想なのかもしれない。

2008-09-06

わたしもつい、宅配だって猫である。

『グーグーだって猫である』とインプットすると、日本語の使い手の脳内のシナプスが点滅しまくって、どうもいろんなコトバを引きだすようである。

考えてみれば、これは「吾輩は猫である」だけではなくて「雲は天才である」とも関係があるんじゃないだろうか? とか。

すると「いやわたしだって」とか、「そうじゃないよ、イヌだって」とかですね、きりがないのである。(リョーシ猫の「わたし」も先週はつい調子に乗ってしまったのであった。)

と思っていて荷物の「再配達」を設定しようとヤマト運輸のホームページを訪れたところの、「宅配だって」ならぬ……

「宅配は猫である。」スペシャルサイト
が立ちあがっています。CMもあるようです。おもしろいです。

宅配員の悲喜こもごもといったものもうまく盛り込まれていて、(野良)猫というイメージが安全着実にお届けする者というイメージと合わないじゃないかという逆風もあるかと思いますけど、だけどのっけで「宅配は猫である。」って言っちゃってるんだからしょうがないじゃないですか、という説得力。

ちなみに『吾輩は猫である』の英訳は、「I am a cat.」と言うのである。改めて聞くとちょっと衝撃的ですよね。(極めて個人的な話で恐縮ながら私はこの日本語の動物の擬人というものが大好きなのであります。)して、「吾輩は猫である」は擬人だが、「配達は猫である」は擬人を超えている。

そう言うと猫というのはヤマト運輸のことでしょう? と言われるのだが、もちろんその通りです。しかし考えてみれば、ヤマト運輸=猫というのは、かなりの英断である。「クロネコ」ではあるけれども。ついでにそんなところからも、このアイデアがそもそも「宅配トラック」に注目したものだということがわかる。

話がずるずるとあらぬ方向へ進んでいて恐縮だが、「宅配は猫である」のおかげではっきりしたことがある。『グーグーだって猫である』の「○○だって」でも、「吾輩は」の擬人でもなく、どうやら「猫である」がカギを握っているらしい、ということだ。これはHaikuの世界にも……ということで今日はいい加減にします。

2008-09-05

サイエンス・カフェに期待していること。

期待というのか、実現したいという話なのか、むしろ夢というのべきであるようなかなりバーチャルなものなのか、ということはちょっと問わないでもらいたい。『ニッポンには対話がない』ではないけれども、日本に対話がないのであれば、そもそもサイエンス・カフェというものが成り立たないからである。そこで現実には例がなくても、サイエンス・カフェというものがこうであったらいいだろうということを、まさしくないものねだりに訪ねていくことで、新しいゴール、新しい実現のかたちを鮮明にしていく作業は意味があると思う。

と、自分でもどうもややこしい文章を書いてしまったが、要するに、サイエンス・カフェがこうだったらいいね、というのが今回の話です。

で、どうだったらいいのかというと、そこにはやっぱり不文律というか、もともといろんな立場、いろんな考え方ありの大人が集まって気持ちよく過ごすためには、何らかのルールが要るのだということがひとつ。

そう思っていたら、ほんもののカフェ「スターバックス」に務めていた人がスターバックスの企業理念を解説した『It's Not About the Coffee』にちょうどいいことが書いてありました。

この本は、amazon.comで目次と本文の一部等が読めるのだが、それをかなり雑に訳したものを以下にご紹介します。これは、スターバックスは10の法則(principle)に基づいていて、これが成功を収めている、その10とは何かという流れで紹介される、つまりスターバックス10の法則である。

1 自分はなにものかを明確に
2 成功にとらわれず、何をするために自分がそこにいるのか考えること
3 自由に発想すること、これを自分にも相手にも奨励しよう
4 信頼性を築こう(結局はそういった関係性が成功を支えるのだ)
5 耳を澄ませ(聞く態度こそが解決の近道)
6 責任ある発言を
7 考える、感じる、行動するは、みんな大事だが、まず行動を
8 憶せず進め
9 リーダーシップを発揮しましょう
10 夢を持ちましょう

It's Not About the Coffeeより

これ、そのままサイエンス・カフェ参加の心得のようにも読める、と思ったのですが、いかがでしょうか?

大事なのはカフェのルールであり、それからがサイエンスなんだよなあ──と最近思っているのである。

It\'s Not About the Coffee: Leadership Principles from a Life at Starbucks

Portfolio

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ご参考:STARBUCKS' FLY(スターバックスの蠅)blog

2008-09-04

期待集中!「山でやろう。」


「海でやろう」がやりたいために「家でやろう」があったのでは? とウチ(ワ)で冗談で言い合っていたほどの「海でやろう」のおもしろさであったが、みなさんご覧になりましたか?(画像はこちら)

して、季節的にもそろそろ次のバージョンだな、と思っていたところにでてきたのが「山でやろう」である。大きなリュックにかくれているおじさんが面白いが、全体にはいまいちか。個人的には、キノコなんか出てきたりしてもおもしろかったかも。だけどこうアテンションの高いところでヒットを飛ばすのはなかなか大変なことだと思います。

2008-09-03

ものごとの、小さな変化。

『ニッポンには対話がない』は、三省堂が版元なのだが、最初三省堂の店頭で見て、結局買ってしまった。図書館にリクエストしたがなかなか順番が来なかったからである。海外と日本の教育や社会の根底にある考え方の違いに関する見解を書いた本の中で、少しいままでにないものだと思うのだけれど、そのような本が順番待ちになっているのだ。

で、その直前に読んだ『R25』の高橋秀実さんのコラムの中にも、ちょっと気になることが書いてあったので、ググってみて高橋さんのインタビューを発見した。あたりだった。高橋秀実というひとの魅力の一端が、ほの甘いビスケットの屑のようにぽろっとこちらへこぼれてきた。以下引用。

わたしは面白い話を書こうというのではなくて、当たり前のことが当たり前であるが故に面白い、その辺が描けたらいいなといつも思っているんです。

会社から帰ると、出ていったときと家の中が同じで当たり前。昨日と今日が同じに見えるというのは、何もしなかったのではなくて維持する作業があるんですよね。元通りにしている人がいたり、そこに労力が使われているということが忘れられている感じがするんです。特に男の人はその辺の感性が鈍いような気がする。

「本当に当たり前なのかな」という疑問を持とうとしているんです。

※上記の引用元はこちら
http://www.hohjinkai.or.jp/interview/0703.html


ある社会で、かなり「当たり前」であることに、ごく平凡な──もちろんいい意味で──疑問を抱くこと。「消費トレンドは女性に訊け」のような取り組みとは明らかに異なる、「日常生活」の掘り下げが、ここにはあると思いました。

それが変化だ。小さいけれども。

2008-09-02

マインドマップ「適用」ボタン

本を一冊まるごと入力して──というか原稿のテキストファイルを流し込めばいい──「マインドマップ適用」というボタンをクリックすると、要約が1枚の図解で出力される。

もしそんなソフトがあったとしても、それは自動翻訳に似たものかそれよりあきらかに劣ったものだろう。そのこと自体がどうかというのではなくて、本の編集を考えた時にそういうサマリもあるなと、『ニッポンには対話がない』を読んでいて、思った。

この本は元外交官でフィンランドの教育の日本に紹介した北川達夫氏と劇作家・演出家で演劇を通じた教育の実践も行っている平田オリザ氏の日本の教育現場(小中高〜大学生・新入社員ぐらいまで対象)についての対談である。

対談の本というのは、ネオアカの頃ずいぶん読んだ。どちらかというと莫迦みたいに読み込んだ。今思うと編集されてるんだから、それほど「読む」こともなかったかなと思うのだが。

その反省なのかどういうつもりかわからないが、最近はすごく軽く読むようになった。私の変化というよりは、時代に流されているのかもしれない。

以下、私がハイライトと思うもの。

p27
ヨーロッパの道徳教育では小学1年生から教えている──
「謝ること」と「許すこと」は人間に与えられた最後のチャンスなんだ

p52
演劇を通じた学びの場で──
「ここ、わたしたちみんなでこだわっていたけど意味がなかったね」

p140
「人間であるということ以外に共通点はないと思うくらいのつもりでしゃべらないといけない」
※補足:
・共通点はない(と思え)
・最終局面(魂の奥底)では同じ人間である

こういったことをあとから探しだそうとすると、紙媒体はたいへんなことになる。こんなにパソコンが当たり前になるまでは、本に備わったインデックス機能をデザイン面からも工夫することが多かったが、今思うとかなりクラシックである。というか、私たちがふだんデジタルに使い慣れているようなインデックス機能・検索機能を紙の本に実装するのは無理である。そうじゃなくて、とどのつまり、という別の叡知として「図解で1枚」みたいのを盛り込むといい、と思った。

ついでに──これが目次の代わりになって、amazonなどに表示できるといいなあ。これを見て、実際に読みたい人がテキストを買う。そこでこの図解がたいへんな宣伝塔になるところから、この図解技術が発達して……という魅力的な好循環。しかもこれは言わば手の内であるから、まさに実力勝負である。ここから副次的に、論旨が明確でない著者を淘汰することにもなる。それから著者が「おれはこのくらいのことしか言ってないですよ」という存在表明にもなったりする。(なんでここで突然主語がおれになるのかはちょっと見逃していただいて。)

2008-09-01

クロウトの道。


先日このブログで「シロウトの道」を書くときに、まさかクロウトの道について書くなどとは思っていなかったのだけれど、それが先日、夫の音楽の師匠でもあるドラムおじさんN氏のパーティがあって、今回はその時いらした写真家のミズタニさんについて書く。

水谷充さんはすでにさまざまなメディアをはじめ著書も多いので、作品はそちらをご覧いただくとして、一緒に取材などしていていつも思うのが、「ものおとがしない」というこのことである。もっというと「気配がない」。

写真家というのは、パパラッチというくらい(ってどういうくらいか不明だが)蠅のようにうるさかったり、その動きが迷惑だったりするものだ(往往にしてね)というイメージであったりするが、それは逆に援護すると、撮影のためのベストポジションへ移動した者が勝ちという世界でもあるので、ある意味しょうがない。ミズタニさんもかくのごとしである、いやカメラマン一般よりずっとずっとそうだといっていい。

ところがミズタニさんの場合は、まさに水のように自然で、まったくその場の空気が動かない。このひとは半透明人間なんじゃないか、というのが私の憶測である。

というわけでその日も、最前席にコドモと座っていた私の隣へやってきて、しばらくするとぱっと立ちあがり、さっと振り返って観客なんかも撮っちゃうわけなのだが、これがまたさっと立った瞬間に、それがなぜか観客はハッとしないんだよなということが、これまでの経験から手にとるようにわかるのである。

かくいう私も知り合いの方たちをデジカメに収めようと、最前席に陣取っていたわけで、このように同じ現場を撮るような機会に恵まれると、ほんとうに「何を撮ろうとしているか」から始まって、ひとつひとつ全てのプロセスがかくも違うんかい!ということを思い知らされる。今回の例でいえば、簡単に言えばミズタニさんはその日、その場かぎりのひとの表情を狙っていたのだし、私は「パーティ」のプログラムを順にそれらしく記録していたのだ。

実は私はこのような撮影の機会が案外多いのだが、ミズタニさんに隣に来てもらってはじめて、私は自分が何をやろうとしていたか、気づいたのだった。「それらしく」だ。で、何を撮るの? 何をphotograph to rememberなの?

そういえばイラストレータの佐々木悟郎さんが、音遊人という雑誌で「Songs to remember」という連載を書かれている。何を隠そう、その吾郎さんとN氏の素敵なバンド「RIVERS」こそ、パーティのステージで主役の一角を占めていたのだった。

[related LINKS!]
水谷 充 A PRIVATE VIEW
佐々木悟郎さんの記事