2008-09-06

わたしもつい、宅配だって猫である。

『グーグーだって猫である』とインプットすると、日本語の使い手の脳内のシナプスが点滅しまくって、どうもいろんなコトバを引きだすようである。

考えてみれば、これは「吾輩は猫である」だけではなくて「雲は天才である」とも関係があるんじゃないだろうか? とか。

すると「いやわたしだって」とか、「そうじゃないよ、イヌだって」とかですね、きりがないのである。(リョーシ猫の「わたし」も先週はつい調子に乗ってしまったのであった。)

と思っていて荷物の「再配達」を設定しようとヤマト運輸のホームページを訪れたところの、「宅配だって」ならぬ……

「宅配は猫である。」スペシャルサイト
が立ちあがっています。CMもあるようです。おもしろいです。

宅配員の悲喜こもごもといったものもうまく盛り込まれていて、(野良)猫というイメージが安全着実にお届けする者というイメージと合わないじゃないかという逆風もあるかと思いますけど、だけどのっけで「宅配は猫である。」って言っちゃってるんだからしょうがないじゃないですか、という説得力。

ちなみに『吾輩は猫である』の英訳は、「I am a cat.」と言うのである。改めて聞くとちょっと衝撃的ですよね。(極めて個人的な話で恐縮ながら私はこの日本語の動物の擬人というものが大好きなのであります。)して、「吾輩は猫である」は擬人だが、「配達は猫である」は擬人を超えている。

そう言うと猫というのはヤマト運輸のことでしょう? と言われるのだが、もちろんその通りです。しかし考えてみれば、ヤマト運輸=猫というのは、かなりの英断である。「クロネコ」ではあるけれども。ついでにそんなところからも、このアイデアがそもそも「宅配トラック」に注目したものだということがわかる。

話がずるずるとあらぬ方向へ進んでいて恐縮だが、「宅配は猫である」のおかげではっきりしたことがある。『グーグーだって猫である』の「○○だって」でも、「吾輩は」の擬人でもなく、どうやら「猫である」がカギを握っているらしい、ということだ。これはHaikuの世界にも……ということで今日はいい加減にします。

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