2008-09-15

正確であろうという努力または意志について。

理論物理学者のリョーシカに、以前私が、池谷裕二さんのホームページのことを話していて、その後逆にリョーシカから池谷さんのウェブページにこういうことが書いてあったという話を聞いた。それは何かというとニューヨークに降り立った池谷氏がタクシーに乗って行き先を告げたのだけれど、「ferry port」と「heliport」を間違えられたという話だった。

さっき見たら、こちらのURLにありました。
「カタカナ英語でいいんじゃない?」
http://gaya.jp/english/katakana.htm


詳しくはそちらをご覧頂くとして、私がとてもびっくりしたのは、さきほどその文章を読んでみたのだが、そこには、あまりにリョーシカに聞いたままのことが書いてあった! というそのことなのである。

どういうことかというと──なんだか説明するのが難しい気もしているのだけれど──まずは、そこに書いてあることが、何の故意過失による「脚色」なく、私に伝わっていたことに、私は驚いた。

確かに体験記のような部分であり、しかも具体例の部分だから、それほど伝言ゲームのようにぶれたりはしないだろう、とは私も思う。だが、内容がまったく同じでも出典を見たら印象が違ったということは、むしろよく起こることだし、さらにリョーシカは池谷さんの文章をまるまる憶えていて、部分的に同じところも多かったというわけでもないのである。

手短に言うと、リョーシカは池谷さんの文章を読んで「これ」と正確に掴んだものを自分の言葉で脚色なしに語っていたのだ、と思う。

正確に書くというのは、その「正確」をどこまで突き詰めることなのだろうか。実際のところ、私はさきほど、「はっ」というくらいに──大げさでなく──驚いたのだった。

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