2008-09-13

自走式自動車は安全か

もし自走式自動車が街中を走り始めたら、こないだのGoogle Street Viewの車を見た! のように、ああそういう車、見たよみたいになるでしょうね。

でもって未来のこと、っていうのはほら「来年のことをいえば鬼が笑う」にも似て、たぶんあまり粋なことじゃないのだろうけれど、このことについて少し考えてみた。

当然、安全性が問われる。そして仮に安全だとわかっても、ほんとうにそうなのか、と私たちは思うだろう。

ところで、ごく日常の感覚として、私たちはなぜ車を運転するのだろうか? たぶんほとんどの人が車を運転する「ため」ではなく、何か別の……たとえば配達とか、移動する手段としてとか……といったことのために運転しているだろう。「運転するのが楽しいから」というのだって、運転が目的というよりは、その楽しい気分を味わうためと言えなくもない。

ところが自走式自動車というのは基本的に「運転するため」に作られるわけである。そこが第一であり、「それは安全でなければならない」に違いない。もし自分が自走式自動車を作るとしたら──そういう立場をイメージするのは本当に骨が折れるけれども──やっぱりそう考えるに違いない。

実際に作る人は、きっと選ばれた優秀な研究者なので、「運転する」のほうも「安全に」のほうもちゃんと検証して、大丈夫というものを作っていくはずである。ほんとうに大丈夫かどうかは私にはわからないが、もし大丈夫でないようなことがわかったら、その人たちは優秀ではなかったのだということにもなるし、プロジェクトを支えていた資金にも決定的な問題が生じるだろう。それが大丈夫かどうかについては、社会的・経済的な監視付き、というわけである。

かくして原則的には、人類の粋をかけて安全を第一に作られ、しかも人間がもっとも真剣に(他の何かのためにではなく)専一に「運転する」自走式が街を走るようになるはずなのであるが、では万が一それが「人間が操縦式」の自動車と事故になったらどうするのか、ということも社会は考えておかなければならない。これについて誰の責任かというのは、開発者ということはあまりないだろうけれども、それが公道を走ることを認めた人なのか、事故の原因についてどのような言い分が認められるのか、自走式自動車が機械として提出可能な実況証拠について、どれだけ真理が認められるのか……等々あまりに難しいので、私にはわからないが、気になるのは、もしも不幸にして当事者が亡くなった場合に、相手が自走式だったということがとても理不尽に、納得のいかないものに思えるのではないかということだ。

車に乗る、運転するということにはリスクがある。どんな人でもそれを賭して運転しているのであって、避けることはできない。ところがその「自走式」の責任者は、その現場にいないではないか──このことが生物としての人間には、なんというかちょっとずるいことに思われるんじゃないかと思うのです。

この場合、問題はどこにあるのかというと、バーチャルとリアルの対立ではなくて──比喩的に言えば、ということに過ぎないのですが──バーチャルとリアルと生命の三角関係のようなところにあるのではないか。バーチャルとリアルはすでに別々に存在するのではなく、袖振り合うものになっている。ところがそこに「生命」が登場すると、まるで違う二人、といったものに見え始めるからである。

1 件のコメント:

ビジネスマナー さんのコメント...

とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。