2009-02-27

ロボット、ウルトラ番外編。

ヒューマノイドロボットを比較的気軽に見ることができる昨今であるが、「ロボットみたい」という言葉は、意外と長く生き残るのかもしれない。

今回はお茶の間な話でたいへん恐縮ながら、クラシックバレエというもののご近所的レッスンの場で、その踊る姿というか形というかいうものが、
「先生と違う」からはじまって
「盆踊りじゃないんだから」というのまであるなかに
「ロボットみたい」という発言が実際にあった、という体験談。

つまり、折しも私のすがたが「ロボットみたい」ということであったのだ。

でもって、よーくこのことを咀嚼してみたのだが、──そういうときには私の場合、どうしてもやはり『オズの魔法使い』的ロボット・バリエーションが浮かんでしまうわけなのだが、──このタイプで言うと、私の場合はきっとthe Tin Woodman(ブリキの木こり)に相当しただろうことが想像され(というのは、体がカタイからであります)、こういうものを見ると、ひとは「ロボットみたい」と思うのだなあ。そしてそのようにカクカクと動く人間のような機械というものが、かつて人に相当「衝撃」だったんだなあ。

……というわけで、人が何に驚き、面白いと思うのか、には興味が尽きないのでありました。

体なんとかしろよ、とも言うのではありますが。

2009-02-24

ロボットのおへそ、R25ウェブ版に。

作家で研究者でもいらしゃる瀬名秀明さんが、R25ウェブ版の理系を巡るコンテンツに登場されている。なんだか記事が短くて、もっと読みたい感じだが……というその記事はこちら。

第6回:理系なのに小説家ってどういうコト?
『パラサイト・イヴ』の瀬名秀明さんに
科学と小説について聞いてきた!
http://r25.jp/b/report/a/report_details/id/110000006272/part/2


ロボットのおへそのこともちょっと載っています。よかったらご覧ください。

さて。ところで。今、突然気がついたのですが、以前は、文章で何か説明したら、つまり「こちら」と書いてリンクを張れば済む、ということのなかった時代は、少々は説明していましたよね、引用したり、要約したり。その引用とか要約っていうのは、それ自体が問題ということもあったし、誤解を与えかねなかったり、歴史的に写経・写本が間違いの源だったり、といろいろまずいことがあって、確かに原文──今や他の言語でもいい──を引けることはこのうえない。それでも、その古い営みの中には、価値付けというアドオンな機能も含まれていたのでしょう。

読めば分かる。のか。

これ、考えてみると歴史的には比較的新しいことだけに、「そういうつもり」「伝わっているつもり」が案外ゆき違って、水溜まりを作っているようなこともあるのかもしれないですね。

2009-02-20

極上シュークリームのような池谷裕二さんのコメント記事。

遅ればせながら、ほぼ日の池谷裕二さんの記事、
「三位一体モデル」は、ものごとを分解して解析するための「ドライバー」。
http://www.1101.com/books/trinity/2006-11-22.html


を読みました。すばらしい機会、すばらしい瞬間を捉えた、鮮度の高い、ありふれているように見えて滅多に読めない記事だと思いました。またこういったものをウェブでアーカイブするということは、かえって古くならずに、出会った一人一人に新鮮という意義を持つことになるのかもしれません。

「理系」と呼ばれるひとびとは、理系ならではのスキルを持っているわけですが、そのスキルと「ツール」の取り扱いとは、とても近いものだという印象を私は持っています。「ツール」でよく使われる比喩は「ドライバー」です。村上春樹氏の『ファミリー・アフェア』では「はんだごて」。つまり「工具」に見立てられることが多いわけですね。

そしてツールの中でも特にユニバーサルなやつ、万能ツールというのが、より高い位置にある。こうなってくるとスキルのない者には「抽象度」のことのみのように思えてきてしまうわけなのですが、そうではなくてツールは、中でも万能ツールというのはまさに多方面に、「使う」ためにあるわけです──それを使って、さまざまな問題を解くことができる。

こういったことが、ビビッドに、ライブに伝わってきます。ああでもなくって、こうでもなくって、と池谷氏のパチパチ(神経回路のつながる!)とひらめく様子が、伝わってきます。

「ファミリー・アフェア」収録
「象の消滅」 短篇選集 1980-1991
村上 春樹
新潮社
amazon該当頁へ

2009-02-19

ケイタイってテレビになるのかなあ。


家の近所の小径を歩いていて、ふと。みんなが持ってて、みんなが使っていて、画面もついてて。

Tokyoは、外から見るとかなりのHi-Tec cityにみえているらしい。確かに外国へ行くと、便利で正確な日本のサービス(宅配便とか)がなつかしい! という経験をみなさん持っているのではないでしょうか。

そんなTokyo Cityでは、みんな画面のついたケータイを見ている。しかし、テレビもそうだけれどもそういうモノって、比較的高価ですよね。

2009-02-16

文化庁メディア芸術祭@国立新美術館へ行った。


前回はロボットのおへそが変な終わり方をしてしまいました。イナムラ先生がロボットに憧れている……というのは私の言葉足らずで、ふだん何気ないように見えて、実はロボットへの思いがすごい──ということが言いたかったのを補足いたします。つまり、ロボットの身になってみるとこうであるとか、そんなロボットをこうしてあげたい、というふうにふだんからあれこれ考えているのに違いない、イナムラ先生なのであります。

さて、昨日、「文化庁メディア芸術祭」へ行ってきました。なんと最終日だったそうである。なかなか混んでいました。

文化庁メディア芸術祭第12回(Japan Media Arts Festival)
http://plaza.bunka.go.jp/


一番印象的だったのは、写真を撮ってもいい、という点。このおかげで、たいへんインタラクションレベルがブーストしていたように思います。

アート部門の大賞はこちらの作品↓
Oups!
Video Presentation
作者: Marcio AMBROSIO(ブラジル)
http://plaza.bunka.go.jp/festival/2008/art/001017/


参加者は、スクリーンと対面する位置に立ち、スクリーンを眺めると、その中にいろいろな動くアイテムが音とともに現れます。ニワトリ、イヌ、といった動物から、植物、食品といったもの、スピーカーやラジカセなどの電気製品や磁石、切り抜いた人の顔や全身など、どれも日用品またはテレビなどで見慣れたもの。それに対して人間が反応すると、絵もまた反応する。

人によってでてくるものが違うのはある程度人を判別しているようで(参加者=1人にしか対応していない)、また人の頭、手などの部位をなんらかの形で理解しており、また人のアクションもたとえば(体を)振れば(絵が)落ちるというようにいくつか認識しているようである。すると、絵に対して反応するというよりも、こうしたらこうなるんじゃないかな、とひとが思い始めるのも面白いのだった。

うーん、それって「ロボットの見方」をスライドして理解できるなあ。といいますか、私の場合「ロボットの楽しみ方」と言ったほうが適切と思います。

と思っていたらさっそく、文化庁メディア芸術祭のサイトにロボットたちが登場していました。テクノロジーとアートの融合と聞くと、かなり敷居が高い気がいたしますが、「ロボットの楽しみ方」の方をゆっくり拡張させていくことで、案外近づけるかもしれません。

ウェブ企画展<日本のメディア芸術>
変わる・超える・表現の未来
Vol.2「夢と技術」〜未来を描くジャパニーズロボット〜
http://plaza.bunka.go.jp/museum/webmuseum/


[ ロボットのおへそ SPECIAL ]
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2009-02-13

『ロボットのおへそ』10 ロボットというリアリティ


『ロボットのおへそ(稲邑哲也・瀬名秀明・池谷瑠絵著、丸善2009)』をご紹介する、当「科学と広告のブログ」の連載も、ついに今回がひとまず最終回。たいしたことは書けないけれども、本をご紹介して、その中身についてちょっと想像してもらえたら、という趣旨で、共著者、ご関係者のみなさまにもお知らせして始めた次第──ま、実際その通りでたいしたことないことばかりなのではありますが、最終回ということでぜひおつきあいいただければと思います。

私自身、この本づくりの前後で、一番変わったことは何かというと、ロボットの見方、これに尽きると思います。ロボットの見方と言っても、ひとつしかないわけではないし、この本を読めばすべてがわかる!というわけでもありません。むしろ、ロボットというものがいかに生まれてきたのか、を知ることもおもしろければ、純粋に工学的なおもしろさや、情報処理的な手腕といったものも肝心なところだし、ロボットを理解するのに脳科学が参考になるかと思えば、進化論がヒントを与えてくれる……こういったことがすべて「ロボットの見方」にかかわってくるのです。あえて言えばロボットとは──知的複合体のようなものなのではないでしょうか。

さて。で、これをどう読み解くか?

そこで、まずは第一の有効な手がかりとして、対談で瀬名氏が紹介されていることのなかにロボットの見方があります。次に稲邑氏の考え、それを実現するものとしてのイナムラ・ロボットがあります。

ところで──とっても横道に逸れるようですが──、ロボットの本を読んだり話を聞いたりしているとき、私たちの頭の中には、別のロボットが出てきて、そのイメージが一人歩きしている……ということはありませんか? それはアトムだったり、お茶を運ぶからくり人形だったり、私のように「オズの魔法使い」だったり、もちろんマジンガーZや鉄人28号かもしれません。そのように私たちがすでに持っているロボットのイメージが、この話といったいどう関係してくるのだろう? 往々にしてそんなふうに考えが進んでいきます。しかし──とっても現実的な観点から言うと──、このようなイメージを、現実のロボットにうまく重ね合わせるのはかなり難しいです。

それよりも現実のロボットから「ロボットの見方」の手がかりを得て、その双眼鏡を携えてロボットのいる作品世界を逍遙するほうが、はるかに楽しめるように思います。(たとえばマンガ「ドラえもん」を読んで、この猫型ロボットが「不思議にもできること」と「意外にもできないこと」の境目はどこか?……というようなこともとても奥深く感じられます。)一方、より現実的に身近なところでは、たとえば家事や介護などの作業を受け持ってくれるようなロボットの存在が、私の実感としてはかなり“あっという間に”、リアリティを増してきています。私たちの暮らしにどんなロボットが必要とされているのかによって、同時に、私たちの社会が照らし出されていくという側面も見逃せないでしょう。

そして、ロボット研究のゆくえばかりではありません。

実は、私、ロボットのお話を聞いているときにこう聞いてしまったことがあるのです。
「イナムラ先生、もしかして、ご自分のことをロボットだと思っていませんか?」
「!?」

このばかげた質問がどうして出てきたのかというと、なんとかおしまいまでに、言い訳を考えたいわけですが──ひとつにはまず、この本に関わって以来、私は「もし○○がロボットだったら」と考える面白さを知ってしまったのです。

何かを「ロボット」に見立てると面白い。──どういうことかというと、たとえばオズのブリキの木こり(the Tin Woodman)は、わざとロボットのように(もう一方のかかしは、わざと藁でできているように)動いたり踊ったりするのが、ミュージカル映画のひとつの見どころになっていますよね。「ああ、あれはロボットだからああいうふうに動くのだよ」というのが、どうも人はおもしろいのです。

これと同じに、何かがロボットに見える、何かをロボットと見なすということは、究極的には「そうなるように作ったからそうなっている」ということであり、人間がどうしたいと思ったか、あるいはどういうものだと考えるかを、見ること・見せてもらうことに、どうも他ならないようである。そうでないと、ブリキの木こりは「わざと」ロボットのようだから面白い、というところに説明がつかないように思うのです。

私たちの脳はいったいどうなっているのだろう、という自然のしくみを知ろうというのが脳科学ならば、あくまで図式的に言えば、ロボットは、人間としてはどうしたいのか、が知りたい、そんな探求であるようにも思えてきます。──ただ、いつも限りなくひとに憧れてはいるのですが。

さて、イナムラ先生は、日常生活で何かを考えるときにふと、ロボットだったらこうするだろうからこうしておいたほうがいいよな、とかいうふうに、きっと時々お考えになるのです。──それがなんだか、ロボットに憧れているようにも見えるのですが。

[ ロボットのおへそ SPECIAL ]
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2009-02-12

『ロボットのおへそ』9 オズの魔法使い

昨日は祝日でした。投稿もお休みしましたが、実は祝日だからというわけではなくて、今回はオズの魔法使いというタイトルで、少しくだけた、言ってみればイナムラ・ロボットの核心から限りなく逸脱するような話を、と思いながら、ドロシーことジュディ・ガーランドのさまざまな映像をウェブで見まくっているうちに、気がつけば日付を越してしまっていたのでした。

『ロボットのおへそ(稲邑哲也・瀬名秀明・池谷瑠絵著、丸善2009)』は「オズの魔法使い」に関わることが書いてある本かというと、基本的に何の関係もありません。ただ1つだけ「20世紀の主なロボット文化関連年表」という年表があり(本をお持ちの方は5ページをご覧ください)、ここに「オズの魔法使い」という作品が登場したのが1900年であることが載っています。

さて、そこで改めてオズの魔法使いのほうを見てみると、ブリキの木こり(the Tin Woodman)という登場人物がロボットともとれるキャラクターです。このロボットのようなものは、「こころが欲しい」と言うのが象徴的です。それから物語の最後に「オズの魔法使い」というのが実は機械仕掛けにすぎず、その正体は年老いたペテン師であることがわかります。これはつまり、魔法であったり、声がとどろいたりすれば怖いけれども、おじいさんが操縦したり、しゃべった声を増幅したりしているのなら怖くない、ということですよね。ちなみに「Wizard of OZ法」という名の、機械か人間かに関わるテストの手法もあるのだそうです。

『オズの魔法使い』の特に、1939年のミュージカル映画は、たいへん楽しく魅力的です。しかし『ロボットのおへそ』を通じて、今度はロボットという切り口でも、もう一度楽しめることがわかるのではないでしょうか。どうぞお試しください。

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2009-02-10

『ロボットのおへそ』8 道具というパートナー

『ロボットのおへそ(稲邑哲也・瀬名秀明・池谷瑠絵著、丸善2009)』をご紹介するシリーズもついに第8回目になりました。さて今回は、本からは離れて、まずはこんなロボットから。

お掃除ロボットのiRobot社の新製品、雨どい掃除ロボット「iRobot Looj」のデモ
iRobot Looj - Inventor discusses gutter cleaning robot

お掃除ロボットのルンバは、最近すっかり有名になって、類似商品もいろいろと出回ってきました。それに比べるとこちらの新製品の方は、私たちの日常生活では、雨どい掃除なんて、それほど需要のあるもののようには思われないのですが……ところがどうやらアメリカでは事情が違うんですねえ。

この新製品「Looj(ルージ?)」のクリップを再生すると、Youtubeでは、右欄に関係のあるビデオクリップが並びますが、そこにこのルージのような方法ではなく、かなり「アナログな新機軸」、すなわち巨大なトングのような道具とか、チューブを差し込んでバンバン葉っぱを飛ばすマシンとかいったものが、ずらりとリストされるんです。おそらく自作したか、改造したか、なんらか工夫して実演し、ビデオに撮ってアップしたのでしょう。Youtubeからうかがい知る限りでは、いやあ、この雨どい掃除、実はみんな苦労してる作業なんだ、と思われるわけなんですね。ひとと道具(ツール)の関係について、とても典型的に、考えさせられたりします。

iRobot Looj 関連映像としても、少し前まではデモのビデオがほとんどだったのですが、最近はこれに加え、実際にこのルージを購入したユーザが、自宅の雨どいで走らせてみた! という映像もたくさん寄せられていて、この「雨どいジャンル」、なかなか盛り上がっています。

このように、これまでの流れを変えるような新しいツールが登場すると、単に買う?買わない?というだけにとどまらず、いろんな角度から賛否両論がわき起こり、そんな中から次第にその実力が評価されていき……というふうになりますね。

そこでそろそろテーマの「道具(ツール)」へ移りたいのですが、この『ロボットのおへそ』をつくる初期の頃にイナムラ先生が、ロボットについて「ひとに一番近い究極のツール」と言われたのが、実はたいへん印象深かったんです。その「究極の」とは何か……という議論はまたいろいろだと思いますがそれはちょっとよけておいて、というのも、私が驚いたのはごく初歩的なことで、つまり「ロボットがツールである」というのが、私にとっては決して当たり前じゃなかったわけなんです。

一般的に言ってひとがツールを手にすることによって、それが画期的であればあるほど、その作業なり研究なりひとが取り組んでいることが、ぐんと発達します。「火」などはちょっと大昔すぎるとすると……たとえば全文を「記憶」でき「検索」できることで、言語学とかシェイクスピア研究といったものもすごく変わったのではないでしょうか。……さらに未来へ行けば、リョーシ猫お得意の(!?)量子コンピュータなんかは「今世界中にあるコンピュータ全部を集めたぐらいのパワー」と言われていますから、いろんなものがドラスティックに変わるのかもしれません。

しかしここで起こっている「変化」って、何なんでしょう?

変化の中身はいろいろでしょうが、それまで人がやっていたのをコンピュータやロボットに任せられるようになるいうことは、人がやらなくてもよくなった部分がでてきたのに違いありません。外部化したのだから、人がもともと内に持っていたその能力は使われにくくなるわけで、すると当然失われるものも出てくるだろう、と考えられます。たとえば、ワープロを使うことで手で漢字が書けなくなる、思い出せなくなるなんていうのが、それですよね。しかしこれがまずいことだと言うと、たとえば私が個人的によく思うのは東西南北の方向感覚なんかは、人によっては退化したというか必要がなくなって能力がなくなったんじゃないか……とか、ひとにも「しっぽ」があったのに要らなくなったからなくなった、という話があります。仮にそうだとすると、「しっぽ」がなくなったのはまずいかどうかというと、どうもあんまりまずい気はしない。

すると、新しいツールによる「変化」をどう受け止めるべきなのか?

というのは案外難しい問題で、言ってみれば対処方法というものがあまり開発されていないように思われます。ただ私たちユーザはいずれにしてもそのツールを使うだけなので、それだからわからないということがあるかもしれず、一方、ツールを作っている人にはまた違った視座から、物事が見えているかもしれません。

『ロボットのおへそ』では、それほど頻繁にツールの話が展開されているわけではありません。しかし、ロボット博士のイナムラ先生の考える「ひとにとってツールとはどういうものか」という視点からも、ぜひページをめくってみていただければと思います。

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2009-02-09

『ロボットのおへそ』7 忘却係数とは何か

さて前回のつづきです。

この『ロボットのおへそ(稲邑哲也・瀬名秀明・池谷瑠絵著、丸善2009)』を作る過程で、私はイナムラ先生のお話を聞いているうちに──というか、みなさんも読み進めるうちに感じられるんじゃないかなと思うのですが──ロボットを作るのってどうも簡単じゃなさそうだな、と思えてきました。

どうしてかというと、ロボットは、何かにつけて人間がわかるようには簡単にはわからないから。たとえば何かをロボットにさせよう、と思った時に、それをさせるためにはまずこれができなきゃならない、あれがわからなきゃいけない、あれとそれが区別できなきゃいけない、というようなことがいくらも出てくることが、だんだん予想できるようになるからなんです。

そういうことは優秀なロボット研究者がやっているんだから、彼らがなんとかするだろう……という気がするのも、確かに自然ななりゆきかもしれません。しかし、そうは言ってもものによっては途方もない感じがするものも少なくないのです。

たとえば家の中で、よくこんな会話ありますよね──
「僕の腕時計知らない?」
「朝はテーブルの上にあったと思うけど」
「それがないんだよ」
「ええと、じゃあ洗面台の横かなあ」

こんな時私たちは、もう瞬時に、腕時計がどこにあるかの「確からしさ」の程度をかぎ分けています。朝見たけれども、それからだいぶ経っているからあるとは限らない。そこにないとすれば、よくある場所としては洗面台の横が確率が高いだろう……云々。言葉にしてしまうとやや情報が減るのではないかというくらい結構複雑で緻密な感じに「ありそうな場所」をお互いイメージしながら会話を続けるわけです。──そういうことを、ひとは、しょっちゅうやってますよね?

ところで今日のテーマは「忘却係数」というもので、これは第5章の「あいまいさを乗り切れ!」に、少しだけ出てきます。さて上の会話の「ありそうな場所」を表現する際に、「朝はあったけれどもそれっきり見ていないから“それなりに”ないかもしれない」というあたりを、この「忘却係数」というアイデアを使って考える──するとたちまち、なんかロボットにも出来そう!と拓けるように思えてきませんか?

いやあ、今日は忘却係数が高くてさ、などとさっそく人間にも適用してみたりして……すると今度はロボットとひとのスリリングな関係に、ふと触れてしまったような心地もして。

「おへそ」を軸に、いろいろとロボットの見方を楽しんでいただければと願っています。

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2009-02-08

『ロボットのおへそ』6 フィードフォワードって何だろう?

さて今回の『ロボットのおへそ(稲邑哲也・瀬名秀明・池谷瑠絵著、丸善2009)』紹介は、「フィードフォワード」の話。

「フィードバック」って言葉は、よく使うと思います。現場の声をフィードバックして製品企画につなげて、みたいに使うわけですよね。でも本来的には「フィードバック」の対である「フィードフォワード」のほうは、さほど使用例を見かけません。ちなみにググると、250倍以上の差があるようですよ。(日本語の場合)

[ google.co.jp 検索結果件数 ] ※2009年2月8日現在
フィードバック 18,000,000
フィードフォワード 68,100

[ google.com 検索結果件数 ] ※2009年2月8日現在
feedback 896,000,000
feedforward 1,090,000

「フィードフォワード」の話は、『ロボットのおへそ』の第5章「あいまいさを乗り切れ!」に出てきます。そこで、これは本の中に書いてあるのですが、ある日イナムラ先生は、ある経験から自分はいつもなんて「視覚によるフィードバックに頼って暮らしていたんだろう!」と気づくのです。

そうなんです。私たちは目で見て、そこにカップがあるから手を伸ばす。手にちょっと当たっている感覚と目で見てそうなっていることからギュッと掴む、というようにして、特に意識もせずアクションを「制御」しています。……と考えると、ではロボットの場合はどうなるでしょうか? たとえばロボットの「目」からカップが写っている映像が入ってきても、人間が思う「カップ」とイコールではありません。単に映像にすぎず、そのままでは何の意味もない。それでもロボットに人のように行動させるには、ロボットくんも何であるかわからなくちゃいけなくて、次にこれができなくちゃいけなくて……といろいろ課題のあることが想像できるのではないでしょうか。

もともと「フィードバックとフィードフォワード」というのは、ロボットでは重要なタームのひとつ。だからこそ、イナムラ先生は、ロボット研究者として「なんて!」と驚くことになったわけなんですね。

ところで、ここからは私の感想なんですが、自分はこれまで、どうも「フィードバックはいいこと」のように思っていたフシがある。つまり、何らかの状況に対応して行動を起こす(フィードバック)のはわかるけれども、フィードフォワードというのは、ちょっと"向こう見ずな"行動なんじゃないか、という感覚。だけどひとは本来、このフィードバックとフィードフォワードという2つを組み合わせて行動を起こしているはずである──と、考えると、実は確実性が低そう見える「フィードフォワード」こそ、新しい可能性をもたらすものかもしれない、というように「フィードフォワード」の担当部分が見えてくるわけなんです。

というわけで、「フィードフォワードって、すごい!」という、私の感想でした。──イナムラ先生の驚きのほうは、ぜひ本書でご確認ください。

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2009-02-07

『ロボットのおへそ』5ーひとが得意なこと。

ロボットのことを考え始めると、ロボットがある存在であるなら、ひとってどういう存在だろう、というほうへ、知らず知らず、考えが向かいます。

この本でも、ロボットがどんなところが得意で、また不得意なのかという点がまとめられていますが、ひととしては、「もしロボットがちゃんとやってくれるなら、ロボットのほうがいいや」と思う作業は(私だけかもしれませんが)結構多いのです。

お掃除ロボットなんていうのは、まったく、その典型的な例。

たとえば『ロボットのおへそ』という本が一冊あります、そこに何が書いてありましたか……なんていう場合も、ロボットなら全文記憶できるのです。そういうのはもう、人間ワザではどうにもマネができません。でもそんなのできなくたっていいし、むしろそういうことはロボットに任せて、人間は別のことを考えよう……。

じゃあ、人間が考えるべきこと、やるべきことって何だろう?

……と、まあ、そんなふうに考えが進んでいくわけなんです。

ちなみに──少なくとも「丸暗記」というようなアプローチでは駄目なのだから、たとえば本一冊ならば、人間は論旨を一枚の図解にするとか……というように考えたのが、ちょうどこの本の制作期間にあたっていた頃に書いたブログのこのポスト「マインドマップ「適用」ボタン」(2008-09-02)

現在、ロボットは──たとえば携帯電話と比べると──あんまり身近ではないメカに過ぎないように見えるかもしれません。しかし、ロボットをより詳しく知ることで、それじゃあひとはこんなところを工夫しよう、というような発想を生み出しやすくなるようにも思うのです。

ひとと、ロボット。もっともっと突っ込んだ論考が、以下にあります。
瀬名秀明『デカルトの密室』スペシャルサイト
http://www.shinchosha.co.jp/wadainohon/477801/kougi.html


デカルトの密室
瀬名 秀明
新潮文庫
amazonへ


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2009-02-06

『ロボットのおへそ』─アウトラインを少々。


連載で『ロボットのおへそ(稲邑哲也・瀬名秀明・池谷瑠絵著、丸善2009)』をご紹介しています。実はこのシリーズ、ウェブ上で何か書いたほうがいいと思って始めたはいいのですが、やはり責任重大に感じ、自分でもやたらと堅苦しい書き方に。しかし4回目を数え、なんとかリラックスしてきました。ああ、やっぱりこのくらいのラフさでないと書き続けられないかも、でございます。

そんなわけで今日ものっけから話が前後するのですが、先日、東京大学生協書籍部へうかがった話を書きました。稲邑先生は現在所属の国立情報学研究所へ移るまで、この書籍部から少し歩いたところの工学部棟でずっと研究されてきたのです。工学部棟の中にはかつては、イナムラ先生が作った「デリバリーロボット」もいて、私がビデオで見たデモ映像もきっとあの棟内で撮影されたものと思います。

さて、お店へ入ると、『ロボットのおへそ』、なんと入口の平台に並べていただいていました! ご担当者にお話を聞くと、
「本を届けに行くと、廊下ですれ違うのが……ロボットだったりするんですよね」

いやあ、まさにリアルなお話。ほんとに特殊な本屋さんだなあ。(店内の品揃えもすごいんです)


というわけで、今回のテーマはアウトライン、つまり本書の構成をご紹介したいと思います。『ロボットのおへそ』をお手にとっていただけると裏表紙に、簡単な目次が記載されています。以下のようになっています。

第一章 瀬名秀明氏を迎えて1 ロボットの「おへそ」をつくる
第二章 脳科学とロボティクス
第三章 イヌはどんなところが賢いか
第四章 「まねる」と「まなぶ」のダイナミクス
第五章 あいまいさを乗り切れ!
第六章 瀬名秀明氏を迎えて2 ひととロボットが暮らす未来

このうち、前回ご紹介した瀬名氏と稲邑氏の「対談」が、1章と6章です。間違いなく、瀬名氏だからこそ聞き出せた内容であると同時に、対談であるとか平文の原稿であるといった「形式」の違いにはあまりこだわらず、そのまま通して読んでいただけるよう構成されているのも、もう一つの特徴です。

[ ロボットのおへそ SPECIAL ]
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2009-02-04

『ロボットのおへそ』─なぜ「対談」なのか?

こんばんは。このたび発売になりました『ロボットのおへそ(稲邑哲也・瀬名秀明・池谷瑠絵著、丸善2009)』のご紹介をシリーズで書いております。さて、その第3回目にあたる今日は、この本に含まれる「対談」についてです。

前回は、イナムラ先生と瀬名氏のサイトやブログをご紹介して、瀬名氏のブログが「こたつ」デザインであることもご紹介したのですが、どうもこの「こたつ」、東北ではJRに「こたつ」のある列車が登場したり、宮城県にある駅構内の一角に「こたつ」コーナーが設けられたりと、もしかするとかなりの盛り上がりになっているのかもしれません。

というのも、瀬名ファンの皆様にはご周知のことと思いますが、作家・瀬名秀明氏は仙台に在住され、東北大学機械系特任教授としてもご活躍なのです。というわけで、この本には研究者としてもロボットにとても高い関心をお持ちの瀬名秀明氏と、国立情報学研究所准教授の稲邑哲也氏の対談が収められています。

しかし一般に「対談」というと、読みづらい、あるいは読み心地が悪いものというイメージをお持ちの方もきっといらっしゃるのではないでしょうか?

この対談の役割として、たぶん最も重要なことは、稲邑氏のロボット研究はどんなチャレンジなのかを示していることだと、私は思います。それには、ひとつには、ロボットという研究分野を俯瞰する視座を示すのが有効です。そして、イナムラ先生がどういう興味や関心を抱き、現在のユニークで重要な研究へとつながっていったのか、その内的な動機と研究成果のヒストリーを、瀬名氏が聞き出してくださっています。これらによって、本の中盤で展開される稲邑氏の取り組みや議論が、体験的に理解でき、研究がどんな評価に値するのか見通すこともできる──そうなれば幸いです。

しかしながら、ひとくちに「ロボットという研究分野を俯瞰する」といっても、一朝一夕に得られる視座ではありませんよね。それは長年にわたりロボットを取材してこられた瀬名さんならではのもの。一方、対談の現場では、そんな瀬名氏が「今はじめて知りました!」、またある時は稲邑氏が「へえー、そうだったんですか」というようなネタもいろいろと飛び出したのでした。

[ ロボットのおへそ SPECIAL ]
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閑話休題、2月もやはり「家でやろう。」

東京メトロマナーポスター2月家でやろう。

『ロボットのおへそ(稲邑哲也・瀬名秀明・池谷瑠絵著、丸善2009)』のご紹介に、先日、イナムラ先生の母校でもあります本郷の東京大学の中の書店へ行ってまいりました。東京大学本郷キャンパス内には最近新しいカフェやコンビニエンスストアなどが次々にオープンし、なかなか居心地のよい空間になっています。そんな中に、本屋さんもあるんです。

東京メトロ本郷三丁目駅

さて、その際、丸ノ内線の構内で、2月の東京メトロマナーポスターを発見。バレンタインという季節を採り入れ、テーマは優先席。コピーワークは、先月に引き続き「家でやろう。」でした。しろめがねのおじさん、いつの間にか足を怪我しちゃったみたいですね。

こうなると3月も「家でやろう」ということになるのかなあ。

2009-02-03

『ロボットのおへそ』─ロボット中級者の方へ

『ロボットのおへそ(稲邑哲也・瀬名秀明・池谷瑠絵著、丸善2009)』の発売を記念して、本のご紹介をしています。今日はその2回目です。

前回は表紙の読み解きのようなことで、イントロダクションを試みたのですが、なんだか最初からややこしそうだなあ、と思われてしまったかもしれません。いや逆にそんなことはいいから、それで? と思った方もいらっしゃることでしょう。

そこで先走って恐縮なのですが、よりロボットの専門的な話へご興味がある場合には、ぜひ以下のサイトへどうぞ。

稲邑哲也のページ
http://www.jsk.t.u-tokyo.ac.jp/~inamura/


イナムラ先生の業績リストやレクチャー関連の資料などが閲覧できます。ちなみに、ツールは、例のwikiですね。

それから瀬名氏のブログには、ロボットに限らずいろんな議論が盛り込まれています。また「瀬名秀明の博物館」ではイベント等での発表記録も参照できます。ぜひリンクからいろいろ掘り出してお読みください。

瀬名秀明の時空の旅(ブログ)
http://senahideaki.cocolog-nifty.com/book/

瀬名秀明の博物館
http://www.senahideaki.com/


ちなみに……瀬名氏のブログのデザインは時々変わるようです。以前は木洩れ日の緑の写真だったのですが……こたつの絵に変わっていてとても驚きました。(なぜ驚いたのかというと、なんとなく瀬名氏のイメージとミスマッチな気が……しませんか?)

ところで瀬名氏のロボットへの取り組みはどういうものかというと、あくまで私が感知した範囲で申しますと、研究者の間へ入って、ロボットを創り出す立場からゆくえを占う、といった感じでしょうか。具体的には、ちょうど昨年末に瀬名氏自身によって、ロボットへの取り組みについてまとめられたずばりの論考がありますので、ぜひfurther readingとしておススメであります。

瀬名秀明ロボット学論集
瀬名 秀明
勁草書房
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で、こういった「その先」はともかく、手短に言って、ロボットとは私たちにとって何なのか──と、そろそろその話へ進んでいきたいと思います。つまり、この『ロボットのおへそ』の中身について、です。──というわけで、次回へ続きます。

[ ロボットのおへそ SPECIAL ]
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2009-02-01

『ロボットのおへそ』─なぜ「おへそ」なのか?

『ロボットのおへそ(稲邑哲也・瀬名秀明・池谷瑠絵著、丸善2009)』が発売になりましたので、この本についてこれから何回かに分けて、本ができあがるまでの裏話などを交えながら、いろいろとご紹介していきたいと思います。

そこで、まずはタイトルにある「おへそ」ですが……ところで、ロボットに「おへそ」なんてありましたっけ? 

そういえばこの本の表紙には、その「ロボットのおへそ」が、うまく描かれていますので、ちょっと詳しく眺めてみてください。右上のほうにいる白衣の人物、実はこれがイナムラ先生であります。ピカリと光る何かネジのようなものを持っているのですが、見えますでしょうか? そして左下のほうを見ると、イナムラ先生、愛犬の見守る中、この「ネジ型おへそ(?)」をそっとロボットに取り付けています。よいしょ、っていう感じです。

というわけで、表紙のイラストをご覧いただくと、どうやらロボットにおへそがついたぞ、というように見えると思います。じゃあここでひとつ考える手がかりとして……このロボット、たとえば人間の暮らしにとても親しい存在であるイヌと比べて、どっちがどれだけ賢いんでしょうか?

と、その前に、「賢さ」の測り方って、何かありましたっけ?

比べようというのは、イヌとロボットの賢さです。となると、そもそも何をもって「賢い」と言えるのか、何か基準のようなものが欲しいところですよね。しかし考えてみれば「賢い」というのは、少なくとも人間から見て賢いと思えるかどうか、のことだと考えられます。すると、基準は「人間の賢さ」だ、ということになりますね。

じゃあ「人間の賢さ」って、いったい何を指すのでしょう?

……さて『ロボットのおへそ』は、そんな感じに本屋さんやネット書店に並んでいると思います。ではこの話、この先どこへ行くのでしょうか──私の考えはですね……あ、それよりも──ぜひ本書で、イナムラ先生の答えをご確認ください。

ではまた次回。

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