2008-06-21

「多少の縁」などと、意味ありげに。

前回のつづき)
いわゆる表現論としてなら、軽く読み過ごすかもしれないのに、なぜ私にとって清塚さんと瀬名さんの投稿が琴線に触れたかと考えると、たぶんそのバックグラウンドと関係があるんじゃないかと思います。

クラシックの音楽家、演奏家である清塚さんが、その極めて苛烈な積み上げが身上であるようなクラシックという分野をしょって、学んでから意味がないならなかったと言えばいい、と。

清塚信也official blog「ライオンの手紙3」2008.04.06より
初めは一本のシンプルな綱なのに、色々と巻き付けて結びつけてたら、どうやって解けばいいかわからなくなった。
それが学問の始まりだ。
いや、綱をとくという行為自体に、意味がついたのかもしれない。
(中略)
でも、学問は必要だから、怠ってはいけない。
学問は、学んでおいてから、何とでも言えばいい。
意味がなかったなら意味がなかったと。



作家である瀬名さんが、作家を応援する最良の方法について語るのを聞いて。

瀬名秀明の時空の旅「聖者は口を閉ざす」より
リチャード・プライス、なぜこの作家をこれまで読んでいなかったのか。急いで邦訳書籍すべてを揃えた。しかしこの著者は数年に一冊、長篇を著すのだから、こちらもそのペースで読めばよい。一生かけてこの著者の本を読み続ければよいのだ。


ひとつには、(表現として)よいものはよいのだから、使い手たればよいという考え方があると思います。ところがこれらは、そうはしないで、自らなおも謎へ向かっていく。だからそれらを読むと、つい釣り込まれる。そういう私は、その先でなんかもっと、自分が「より好きなもの」がありそうだと予感しているのだと思います。

で、ここからかなり脱線ですが、私のそういうところがコピーライターの資質として、かなりマズイ。というのも見つけるのが大事か、自分の表現が大事かっていうのが、本末転倒してないとも限らないからです。そしてその感じは「科学と広告」にもぴたりとはまってしまう。しかしそれを、多少の縁とも感じたのでありました。

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