2008-06-22

サイエンスは、よくサブテーマだったりする。

先日コドモを眼科に連れて行った。余談であるがここはある意味、かなり珍しい眼科である。というのも、待合室には必ず、ボリュームをしぼったハワイアンが流れている。その待合室はつい何ヶ月か前に改装したばかりなのだが、それは玄関ドアや診察券入れや、とにかくそこらにある調度のたぐいをウッディかビーチな雰囲気にする、という極めて表層的なもので、古い建物そのものはびくとも変わっていない。来るのは主に老人か子供だ。待合室の人々は、いつもとてつもなく暇そうにしているので、忙しい人は診察券を出してから出直してくるようにしているほどである。

私も出直してはきたものの、まだ待ち時間があり、あまりにヒマだったので、コドモに算数の問題をつくることにした。リョーシ猫でもわかる、簡単な函数の問題だ。それでも最近の子供はすぐに「わかんな〜い」「学校で習ってないもん」とくる。そこで解き方のヒントを話していたら、なんと待合室のほぼ全員のコドモとオトナが反応するのだった。

なんだ、算数とはいえ科学も結構人気があるじゃないか。

しかしよくよく人々の反応を思いだしてみると、誰ひとり「どういう問題か」とか「自分が解いてみたい」という方はいないのだ。小さいコドモが算数の問題をやっている風景に反応しただけなのである。

つまり、この場合メインの関心はおそらく「教育的母子像」みたいなやつで、それを「算数」が効果的に色づけているというわけなのだ。「算数」は素敵な脇役かもしれないが、真ん中にどっかり座ってはいないのです。

よくある気がするんですよ、こういうの。

たとえば科学者の話というのはほとんど「歴史」の話であったりする。たとえば「ラジウムを発見した」というのは「仏教が伝来する」と同じように、まず年号とともに記憶されるのである。

その先は想像力だ。仏教伝来のほうは、なんとなくストーリーが見えてくる。聖徳太子、仏教に反対する勢力と蘇我氏の戦い……等々。一方のラジウムはどうだろうか。つまり、ラジウムを発見した、だからどうしたのか。

ちなみにパリには現在もラジウムの発見者である「ピエール&マリー・キュリー(Pierre et Marie Curie)」という名の地下鉄の駅があるそうです。

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