2008-06-28

他山の石としての「軽井沢」


軽井沢へやってきた。あまり出張は多くないのだが、たまたまこのところ続いているのである。東京からあさまに乗って、JRの軽井沢駅へ初めて降りた。どこといって変わり映えなんかしない、ふつうの、どちらかというとあまり大きくない、新幹線の駅である。

しかし、駅を降りると、たぶん他の駅とは違って、まるで駅に長野新幹線という蛇口がついて、きゅっとひねったように、ひとがざーっと出てくる。たくさんの人が道を歩いている。駅からの歩道橋なんか人であふれていると言ってもいいほどだ。私もその中のひとりだったわけだ。

街の雰囲気も案内看板も、おみやげやさんも、昼食に入った店内の小物も、どれも「軽井沢」のれんを強化すべく、感じよくまとめられている。空気もすがすがしい。

昨日の土井さんのセミナーもあって、どうして軽井沢と、その近所の軽井沢ではないところが違うのだろう、とふと思った。ブランディング? そうだろう。町おこし? そうだろう。外国人の避暑地? そうねえ。

だけど要するに、最も大きくて、全部にあてはまる、「根っこ(※初出)」にあるような違いは、言ってみれば「感じよくしようという気持ち」のようなものだろう。どういう目的でどういう効果を狙っているにしても、来た人に気持ちよく過ごしてもらおうとか、おしゃれであるとか、いい雰囲気にまとまっているというように感じてもらえなければ、それはもう軽井沢ではない。そこをちゃんとやることこそが難しく、それこそが町の資産なのだ。

軽井沢は季候がいい、という。もちろんそう感じるけれども、それが隣の町や村だって、きっと似たような気候であるだろう。いや、全国を見渡せば感じのいい季候の場所などいくつも見つかるはずだ。それなのに軽井沢が選ばれ、他は選ばれない。いつ、ここの人たちは感じよくすることが、人を集め、結局のところ愛される町になるということを学んだのだろうか……。そこで、ふと外国人の避暑地という歴史は、ブランディングに貢献してるだけではないのかもしれないと思えてきた。そんなところに案外外国人たちの功績が遺っているのかもしれないですね。

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