2012-06-10

言いたいことは常に仮説である。



はじめ、タイムテーブルということについて考えていたんです。
ことばや文字の変化の歴史を年表で整理する。
なぜそう変化したと考えられるかについて、
それぞれそのような様相を説明する研究を挿入する。
そのように整理すれば、うまくパズルがはまって、
統一的に理解できたような気になる。

だけれども大学の講義というものの記憶をたどると、
ごく「入門」ものは除いて
たいがいは、そういうふうには進まない。
統一的な俯瞰図そのものを講師が「言いたい」ということは
ほとんどなかったよな、と。
むしろ、実際に個々の研究にあたってみたときに、
統一的な理解のパズルの一片という期待にそむいて、
なんか独自な、
それぞれに違う論旨のベクトルを感じとってしまう、
そこで初めて個々の研究について、ああ、本来、この研究は
こういうことが「言いたい」んだなと思う。

この「言いたい」とは、つまり「問題意識」ということで、
この問題意識が、問題を立てる。
それに対してこれが答えなんじゃないか、
という考えが生まれる。

そんなふうにして、静的なタイムテーブルは、
常に動的な「仮説」に、脅かされている。

……と、ここまでは
講義や学問に関連した話だったのだけれども、
そこでふと、これをぐっと拡げて考えてしまいます。
すると、言いたいことっていうのは、
もしかして、常に仮説なんじゃないだろうか。

ふだんの生活の中で自分が言いたかったり、
他人がなんだか主張したりしてる、
……というこの「主張」というのも、
どうもその、言う「姿勢」のようなものばかり目立つけれども、
内容を見ればやっぱり「仮説」じゃないか、
というふうに見えてくるのです。

たいがい、検証されてないし。
逆に仮説じゃなかったら、
たとえば「天気がいいねえ」なんてのは
本人にとって別に言っても言わなくてもいいことだろうし。
特段に言いたいのは、つまり、
それが仮説だからじゃないだろうか。

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