2012-06-04

さとうさん、どうしてますか、るえねこです。




自分のコドモが小学6年生になった。そうなって初めて、そういえば小学校の記憶のほとんどが小学6年生の時のものではなかろうかと思い当たった。長く暮らした「学校」というものをいよいよ離れて、よくも悪くもひとつにまとまっていたものがそうじゃなくなるのだ、といったうすら寒い感じ。これからどうなるんだろうか、といううすら自由な感じ。──6年生の一年の暮らし方というのは、案外重要なんじゃないか。

それに関連して、最近よく想い出すのは、小学6年生の時に流行っていた──このテーマだとひとつには、私の世代にはおなじみ仲良し女子2名によるピンクレディというやつがあるわけだが──もうひとつ、自分にとってもっとずっと重要な記憶が、学級内で回し読んでいた「漫画」である。

これは、さとうさんという女子が書きおろしてくれる連載もので、ノートにして、もう何冊も何冊もあった。新作はみんな読みたいので、さとうさんのそのノートが、授業中でも構わず飛ぶように回っていった(笑)。登場人物は猫たちで、猫というのは、当時流行っていたキティをパロッたもの。そのキティが何人も出てくるのだが、そこは当然、人物設定がほどこしてある。

人物設定は、クラスメートを反映させたもので、7,8人ぐらいの常連登場人物(猫)がいたと思う。私もそれなりの役が与えられていて、「るえねこ」という、ま、そのままの名前ではあったのだが、るえらしいキャラが与えられているわけである。各号というかそれぞれの漫画の「回」ごとに採り上げられるトピックは、学校で起こった軽い事件のようなものがうっすらと引用されていることもあるし、しかしおおむねフィクションというつくりで、とはいえ登場人物が誰であるかは──ふしぎなことに「誰のことを指す」という意識化はなんとなく宙に浮いたまま──性格付けや物語における役割のようなものとしては、自身クラスメートである読者にとっては自明という、興味深い読み心地になっていた。

いや、その読み心地がおもしろいからこそ、みんな新作を読み、新作がなければ旧作を何度も読み返したのだ。

また、さとうさんが、興がのって、忙しく書いたときは、消しゴムで消した鉛筆の書きあとがまだ濃く残っていて、そういうときには筆跡もだらっと歪んでいたりして、でも書き直しもなくきれいに書いてあるほうがいいというわけじゃなくて、そういう筆跡にはそういう雰囲気が宿って、それも悪くない。たとえばそのような筆跡が、たくさんの登場人物がわっとあつまってがさがさっという雰囲気になったりする場面をうまく描いたりもする。漫画というのはそういうもなのだな、と小学6年の私はしきりと感心したりした。

実は、このことを想い出したのにはもうひとつ理由があって、それはここのところ読んでいる藤井先生ご著書に、源氏物語のような物語の登場人物と読者というものの関係で、いままでふにおちないと思っていたことで、今いろいろと理解できたことがあったためだ。源氏物語が書かれ、読まれる空間から、──コドモなりにシビアな現実世界がありながら、そのさなかに別の空間を切りひらく、作者と読者がいた小学6年生の学級のことを想い出したのでした。

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