2011-05-24

本とは何か。

宿題で読んでいるこの本↓

ウェブ×ソーシャル×アメリカ <全球時代>の構想力 (講談社現代新書)
池田 純一
講談社

はたいへんなボリューム。その中に……

単なる意匠としてのデザインは後景化する。
(中略)
設計≒問題解決としてのデザインが前景化する。

──池田 純一『ウェブ×ソーシャル×アメリカ <全球時代>の構想力』より


を読んだところで、あとがきの副題
「ウェブ時代に本を書くということ」
が目に入ってしまう。

ウェブの時代に本を書くことは難しい、とてもインテンシブな試みにならざるを得ない。
──池田 純一『ウェブ×ソーシャル×アメリカ <全球時代>の構想力』あとがきより


この「インテンシブ」というのは、どうだろう、「集中を余儀なくされる」というほどの意味だろうか。sigh。

自分もつられてひと息いれて、で、思ったんだけど、本を書くことがそうなるのは、つまり、本の「デザイン(前景のほう、あるいは狭義になるけどタクティクスとしてのデザインというか)」が固定化しているからなんだろう。

一方で同じ本の中で、オープンソースでは「別の行為で生計を立てなければならない(前掲書)」点がよく指摘されることが述べられ、この問題が著者・作品というソースにも敷延できることは折り込み済みだろう。このことはかなり以前、梅田望夫氏のベストセラー『ウェブ進化論』で(きっぱり)ふれられていたのを、鮮明に覚えている。本が手元にないのですが、古い自分のブログに書いた元原稿が残っていて──「『ウェブ進化論』の161ページには、先進国の表現者が「飯を食う」ことについて書いてある」──とある。この件について、このお二人の話し方がとても印象深いのは──もちろん現実に別に本業をお持ちであることとも関係あると思うけれども、この問題は、そのくらいの距離感でないととても議論にならない、という面があって──そんな立場の違いにも、議論へも、配慮がなされているからだ。

書くだけが生業で、などというのは、かつて「そう見えた」だけで、またウェブ時代の本は相当なデザイン力(「単なる意匠」でないほうのデザインですね)が必要になるじゃないだろうか。必要なのは「本とは何か」の想像力。む、といえば簡単だが、ふりかえればほら、本をかぐというパフォーマンスなんかもそのように解読できたり。

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