2012-05-11

ウェブ上の憤死


以前から、運悪く死んでしまった人のウェブページはどうなるのだろう、ということが気になっていた。

たとえば人気ブログの書き手が、いつまでも生きているというわけではない。
もしメディアなら、誰かが同じようなテーマを引き継いで、表向きは何事もなかったように続けていける。けれどもブログの場合は、たとえば誰かが引き継いだとしても、生前のようにはいかないだろう。やっぱり何かが決定的に「止まって」しまうだろう。

SNSやデータベースに登録した場合もそうだ。あれはちょっと人物カタログのように見えるけれども、やっぱり生きている人が、自分の活動を少しずつでも追加しているから、そのツールが使われていることがわかるのだ。決してカタログのように静的ではなく、いつも動いている。

このようなケースは、今はさほど目立たないけれども、ある時期、たとえば20年、30年と経てば、よく起こることになっているかもしれない。

そのようなデータがどうなるのかというと、結局、アーカイブに入るだろう。ブログだろうと、SNSのページだろうと、データベースだろうと、特にそのページが消えることもないけれども、アーカイブの深い層の一隅を占めることになる。これまで「歴史に埋もれる」と表現されていたように、特に参照されることもなく「眠る」大量のデータが現れるわけだ。

ところで、そのように想像をたくましくしてみると、ふりかえって、では、いったい生きている人間らしい、ならではのウェブページって、何を発信するものなのだろうか?──それは「メッセージ」ではないだろうか。日付があり、状況がある中で発信されるメッセージ。ただの情報よりも、より強く、より濃く、メッセージ性のあるもの。

もちろんただの情報が必要なこともある。家電製品のマニュアルだとか、ソフトのインストールの注意点だとか、午後の降水確率や、大規模災害の続報等々……。けれども企業を含めた「私人(語義からずれて使ってしまってます)」が発信する場合、ユーザがなぜわざわざみにいくかといえば、直接に利害があるか、または単純に(生きている)人が何かやってるから、言ってるから、観に行く、読みに行くということだろう。これはこれまで「遊び」と表現されていたこととも重なってくる。(つと、話が飛びすぎてますが。)


このように考えると、たとえば企業サイトというものの制作方針も、また違ってくることがわかる。ちなみに先日勝間和代さんのサイトを久しぶりにみたら、監査と分析の企業サイトがなくなっていた。そもそもBtoBだけなら、ホームページなんか要らないというのも日頃感じることだ。


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