2011-01-30

ほぼ日の記事を探すのが大変について。

昨日の投稿で、ほぼ日にある糸井重里氏の記事を探すのがたいへん、と書いたのですが、というのも──では試しに、ほぼ日の中にある記事のリストで、「糸井重里」の欄を見てください。こないだ数えてみた時、すでに360ぐらいあったと記憶します。

しかもそれは「シリーズ数」であって、「ウェブページ数」ではありません。

したがって、イトイ氏が○○について言っていた、ということをせっかく思い出しても、どのシリーズのどのあたり、ということを一緒に記憶していないかぎり、探すのがたいへんなのだ。

今や……

検索によって、自分が欲しい情報が、行ったこともない場所にあっても取り出せる。家の中でケータイがなくなっても、家デンでケータイにかければケータイがここだと叫んでくれる。

けれども家の中でちょっとしたメモだの本だのを探すとき──ほぼ日の記事探しは、これに似ているのでは?

しかもそれがフツーの家という規模でなくなってきたら──昔の村のお大尽の蔵、みたいになってくるのかしらん。そうするとやはり、誰かが江戸川乱歩みたいに整理しようと思うのだろうか?

2011-01-29

イトイ氏のコトバ論。

糸井重里氏の「コトバ」論は、滅多に読めないのですが、『イトイ式コトバ論序説』(序説、ってなつかしい。けどamazonになかった、なう)が、というわけで、すぐには読めない今、ここに少しあります↓

ほぼ日刊イトイ新聞
シミズとイトイのよりみちばなし。
http://www.1101.com/pansee/2006-01-17.html

※「シミズ」とは、「よりみちパン!セ」編集者・清水檀氏

なーんか、そっと置いてあるのを声高に言うみたいでよくないですが、これ、ほんっと探すのたいへんなので、ここにリンク置いときます。すみません。

ここにもマトリョーシカ!?

The Order of Things: An Archaeology of Human Sciences (Vintage)
Vintage

ミシェル・フーコーの著作。しかしこのマト、どうも入れ子になるにはサイズがそれぞれ近すぎるよーな。

2011-01-28

新幹線乗り場入場の清算にSuicaは使えない

機械はだれのもの?──みんなのキカイ2
学びもと:新幹線の駅員さん 

JR東京駅の在来線(JR東日本)の構内、新幹線入場口の手間に、そこまでの運賃を精算し、新幹線の乗車・特急券や入場券を購入する自動切符売り場がある。

そこで入場券を買おうと、ここまで乗ってきたSuicaを入れたら、

金額が420円
うち清算金額が290円

というようなのが出て、支払うように、というメッセージが出る。Suicaを入れているのになぜだろうと思ったら、その機械ではSuicaは使えないのだそうだ。(カードか現金と表示されるので、ますます混乱するのだけれど)

さらに問題はこの金額の2行表示で、試しに現金300円入れてみると不足であるという。そこで420円入れてやっとカードが戻ってきたのであるが──ではなぜわざわざ分かち書きされてるんだろ? つまり、「金額」から改札を入った時にSuicaからいくらか差し引かれた金額を除くと「清算金額」になりますよ、という表示のように見えるのだが……。

そこで新幹線(JR東海)の駅員さんにちょっと尋ねたら、

「あ、入場する時、引かれなくなったんですよ」と、即答。

そうなのか、となんか今日はやたらとのみこみのいい私(笑)。で、実感したのは、この会話、友達同士の会話みたいだよな、ってこと。機械はJRのものじゃなくて、機械を囲んで「こういうふうに動くんだよ」「あっ、なるほど」という、そういう感じなのだった。

2011-01-27

機械はだれのもの?──みんなのキカイ

学びもと:バスの運転手さん

クラウドっていうような時代には、機械も「みんなのもの」というぐらいの感覚が「ふつー」になるのかも。

きりりと晴れた土曜日の朝、バスに乗って「PASMO」で
「大人一人 コドモ一人」
と支払おうとしたら、運転手さんがボタンを押すのと私の「タッチ」が交錯して、うまく機能しなかった。「あっ」ということになったら、運転手氏が、

「私がボタンを押す前にタッチしたからですよ」

これはね、「産業革命期の工場における主要財産としての機械」というイメージだとそーとー頭に来るかも知れない。けれども「クラウド」と思うと、機械を囲んで、人と人が「あーそーか」「なるほどね、そういうわけなんだぁ」と会話しておればよい、という感じもする。なんかね、そういうのものどかでいいかな、などと珍しく思ったのであった。

手帳があると、知恵を出そうとする!?

「手帳」というくらいで、手に馴染んで、何かと書こうとする、そこが手帳の真骨頂、ということなのかも。

そこへうまく「しまっておける」(というのはノートよりさらに公開性が低いので)ので、まだ正しいとも、good idea!ともわからないものでも、気軽に書き留めておけるというわけだ。(手帳の公開制についてはこちらの投稿をご参照ください)しかも私の場合、誰かに読めなくなってもいい、という気持ちが働き、ノートよりもさらに「ごちゃ書き」になる傾向。

ただなんとなく……ちょっとやっぱりノートより狭いぜよ。ついでに、手帳はやはりノートと違って「埋めよう」という心理が働く。(ノートは大事なことだけを書いてどちらかというと「おしまいにならないよう」にする)──ということはつまり、手帳って私のキャパなのか!?

2011-01-26

用例から見ると「おられますか?」はOK

(昨日のつづき)

というわけで、NHK放送文化研究所/ことばQ&A「おられます」の記述にもあるように、

現在では必ずしも不適切ではない、と言われています。

というのが、「○○さんは、おられますか?」という用法の現在であるらしい。

ただ同時に、「おる」が本来謙譲語であった(出典同:NHK放送文化研究所)というのも、たとえば新潮国語辞典(現代語・古語、平成元年・6刷)によれば、

おる(居る)
自分を卑下する語。また他人の動作を卑めののしる語。


にも見ることができる。ところで、これには例文がついており、その出典が狂言なのだが、そうそう、狂言ってほら、よく「おる」の入った台詞があったような。

一方、古語辞典にあたると「おる」「をる」「いる」「ゐる」などとあって、「在」なのか「居」なのか……というわけで、本来謙譲語の「おる」が、上記の「居る」と一致しているのかどうか……となると、確定するのはこれまた大変です。

ただもっと言うと、どんなに状況証拠を集めても、確定の太鼓判を押すのが人間だとすると、実証といっても、「そう思う」もしくは一段上がって、言葉の「専門家がそう思う」というところでとまってしまうことを考えると、USAGEのことであんまり悩んでも……と私は思います。

そういうわけで、使用に関するいちおうの指針が出た! と考え、この話はおしまい!
御意見、コメント、大歓迎いたします。(NHKつながりで「にほんごをあそぼ」のこころで、ぜひお願いいたします。。)

ほんとうは誰の仕事でもない。


制作物の進行管理をしていると、かつて会社で一緒に仕事をしていた営業のKさんのことを思い出す。今まではこんなふうに思い出すことはあまりなかったのだけれども、最近、結構たびたび思い出す。

1週間先、1ヵ月先の予定というものを、いつもそれとなく関係者に伝えていたKさん。

その時は正直、私はうるさいなあぐらいにしか思っておらず、わかってるよ、と思っていた。わかっていることを知っているだろうに、とも思っていた。

だけどそうじゃなくて、ただそうしておくだけで、1週間先、1ヵ月先の進行の確実性がごく微量、増すのだ。たぶん1%ぐらいだろう。それでもそれがない場合に比べて、明日というまだ存在しないものが、ぼんやりとでも存在しはじめるのだ。

だからこういう機能は、結局カレンダーのようなものにも「リマインダ」などとして実装されている。だからこれは、きっと何かの知恵なんだ、と最近は思うのだ。

2011-01-25

手帳とGoogle Calendar

手帳の使いごこちを探るシリーズ(当ブログのカテゴリー(Bloggerでは「ラベル」と呼んでいるようです)というほどの意味なんですが)。

どうしてもGoogle Calendarと比較してしまうし、そうするのがわかりやすいと思われる。

で、
Google Calendarがシェア(共有)するものとすると、
手帳ってなんだかやたらと「プライベート空間的」!
ほとんど「ちらり」ぐらいの公開性しかないよーな。

そういう手垢というきたないけど、私的「コク」のようなものを集めようというところが、ほぼ日の投稿企画「なんでもない日、おめでとう。」の意図なのかもしれないですね。

それをどういう形で集めるか、というところにこそ、かっこよさが問われる時代、なのやもしれません。なんで手帳でここまで話がでかくなるか、とは思いますが、朝。

「おる」「おります」「おられます」

(前回の続き)

ところで前回の「おる」の話、「おる」の全部が謙譲ということもないだろうし、そもそも「おる」と「おります」を区別して考えなくていいのか、という問題もありそう。うーん、問題はいろんなところにありそう、なう。

どんどんusageを見てみましょう。
KOTONOHA「現代日本語書き言葉均等コーパス」
検索デモンストレーション
http://www.kotonoha.gr.jp/cgi-bin//search_form.cgi?viaTopPage=1


これを見ていて思ったのは、あくまで私の感覚ですけれども、「おります」というのは、例にもある「女将さんはおります」のように、主語は「○○さん」と呼ぶべき目上であるけれども、お客様という相手に対してもへりくだりたい、みたいなときについ言ってしまう、という感じに共感します。

けれども全体としては「おる」「おります」は、どちらかというと「〜している」みたいな感じのときが多いですかね。

一方、「おられる」が「おる」と「られる」の組み合わせというよりは、1つの単語として意味をなすものであるという考えは、なくもないようですが(詳しくは↓)、ひとつの単語かどうか? という問題はおいておくことにします。

NHK放送文化研究所/ことばQ&A「おられます」
質問:「おられます」という言い方は間違った敬語ですか。
http://www.nhk.or.jp/bunken/research/kotoba/qa/kotoba_qa_97100101.html


というわけで単語としてどう切り分けるか、という問題はスルーして、「おられます」の用例を見ると、これはもう、明らかに尊敬語として使われていますね。
(つづきます、あと1回にしたい)