ところで、この360度カメラの衝撃がよほど強かったらしくて、実はその晩、夢を見てしまった。
それはどうということない屋外の風景で、緑のなだらかな丘に、遠方には林が、画面の中央にはちょっとした人影を配した草原が、近景にはさまざまな植物の葉や小さな花が見えている。(夢の中の)私は、この風景をくるりと巻物をほどくようにひらりと取りだして眺め始めたのだが、どうもこの風景そのものはデジタルのイメージで、フォトショップの「ブラシ」の筆先を交換するような感じに、このようなイメージがいくつもパレットに入れてあって、好きなように取りだせるらしい。
と、よく見るとそれは動画でさえあって、また自分が手前を見たいときは手前の草のディテールにフォーカスして見え、人物に焦点を合わせたい時は近景がボケるような具合に使うことができる。草は相変わらず揺れている。
そして人物は自分とその家族であって、(夢の中では)どうやら、私たちをそういった差替のきく「風景」の中へ入れることができるようなのである。私たちはもちろんその風景をうまく──というのはリアルなものとして──知覚できているということになっているが、見ているのは別の視点、もっと俯瞰的で、彼らを──たとえば物語に合わせて──自由に操れる視点である。
分身といえば、他の肉体を自分自身として生きるわけだが、このように自分を他人のように眺める(体験をする)こともできるわけだよなあと思った。
ただバーチャルをバーチャルに生きるなら、セカンドライフみたいなものかというと、これとも違って、バーチャルとリアルの私は主観的には同一で、一方客観的に見ると別に見えるという見え方を見せてもらっている感じだ。(セカンドライフには別人願望のようなものを私は感じるのだが気のせいだろうか)。
むしろこの夢の中の技術の場合は、バーチャルの中の私は、まったくもってリアルの私に「見えなくては」成立しないので、そこは同じにできている。ところが自分としてはふだん、自分自身をそのように客観的に見ることはないので、そこにさざ波のように違和感がある。もしそのような存在ならば、このように動いたらどうだろうか、と私は私の人生に「他人」として参加したくなる。(どうせ「私」なんだし!)そこにちょっと物語が動き出す、そんな幻想もあるのである。
ああ、単にピクチャを用意して、筆先と同じようなツールとして……と考えると、そう遠くない間にできてくるだろうなあ。
だが夢というのは、そうこう思ううちに、覚めることになっている。
夢はもっと長かったのだが、思い出せるところを思い出しているうちに、これはきっと360度カメラが引きだした夢だったんだろうなあ、と思った次第である。
夢をみた ジョナサン・ボロフスキー,オン・サンデーズ イッシ・プレス このアイテムの詳細を見る |
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