2009-06-12
数学の歴史を知ると、何の役に立つのかな。
昨日と今日の二日間、国立情報学研究所で年に一度のオープンハウスが開催されています。そこで昨日の基調講演、新井紀子氏(国立情報学研究所教授)の「役にたたなきゃ数学じゃない」を聴いてまいりました。
会場の一ツ橋記念講堂というのは、かなり広いホールなのですが、立ち見が出るほどの大盛況。古代エジプトから現代へかけて、いかに数学が、いわば計算しやすく発達していったかを「数学・論理学とは何か?」を礎に読み解いていくおもしろさに、熱心にノートをとる聴講者が多かったのも印象的でした。
詳しくは、またの機会に、先生の講演を聞いていただくとして──このたびは、今回聴講したひとりである私が、この講演から、こんなことを考えるのにいろいろと役立った、というのを書きたいと思います。
コドモの質問の代表例のようにして、よく
「なぜ数学を学ばなければいけないの?」
というのがあるではないですか。「大人になったら必要ないのに」と。
実は私も、中学の時にクラスで、まったくこの同じ質問をした人がいて、その時点ですでに私は、質問をしたクラスメイトよりも数学ができなかったにかかわらず、なんでそんなことがわからないんだろう、「数学的な考え方が身につくから」に決まっているじゃないか、と思ったのをよく憶えているんです。
ところが昨日の講演を聴いて、なんだ、自分はかつて「数学的な考え方」と言ったけれども、その内容がわかっていなかったじゃないか、と思いました。まったくもって、トホホ、な感じ。必要は発明の母…ではないですが、数学は、確かにこうすれば解ける、こう考えれば納得がいく、というふうに、つまり便利に役立つ方向へ開発されていったのだ、という筋道がわかるように説かれてみて、手順としての考え方だけでなく、いわば必要としての考え方に気づいたわけなのです。
するとこれは数学に限らず、さまざまなシステムやツールも、それがなぜそのようなしくみになっているのか、という知恵のかたまり、苦労の圧縮、開発の権化のような存在理由を証す部分が、今や私たちにとってとてつもなく遠くなり、まったく身近じゃないものになってしまって、本来のusageとか当初のポテンシャルといったものがわからなくなっている、ってことが、多いよなあ……と、ガクゼンとしてきました。
どうしてそれが問題かというと、別に歴史を知ること自体が目的ではなくて、結局「なぜ役に立つか」がわからなくなってしまったり、自分に直接は役に立たないものになってしまっていたりする。すると自分では取り扱わなくなる(私たちはふだん数学の問題には取り組まない)。だとしたら、そこへ至るまでの豊かな叡知をまったく欠いたままになっているのではないか──ということなんです。なんというか、せっかく現代人なのに!と言いますか。
叡知なんか必要ない、考えなくても使えるように誰かがしてくれればいい、という考えも今どきな感じがしますが、ほんとにそれで大丈夫なのかなあ。より重要なものほど、考えなしに使えるようにはならない──だってそれなら何だって「誰か」や機械がやってくれればいいですものね。それってうれしいかなあ?
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