先日英語教師の人と話をしていて、彼女はいつも「日本人はなぜ英語ができないか?」を語っているのに、突然話題が「なぜ日本語が」のほうへ転じたわけで、それがなるほど、と、おもしろかった。
面白かったのは、ひとつには、結局のところ、コドモの時に習ったのならばできるだろうけれども、言語というのはひとつのシステムであって、それをまるごとやりなおさなきゃなんないっていうのが、おっくうだ、という話だったことだ。これはまったくユニバーサルな意見と言えるんじゃないだろうか。日本人が英語ができない、できない、といったって、だって日本語では「そうは考えない」のだから仕方がないというわけである。
もうひとつは、この話が、私はかつて初めて英語というものを学校で習うことになったときに持った感想という、古い記憶を呼び起こしたのである。私の頃は「英語」の授業が始まったのは中学に入ってからだ。最初に習うのはアルファベットである。でもって、apple で、boatで、 catだ──と、そこでどう思ったかというと、「いやあ、自分は日本語が先でよかったなあ」と思ったのだ。アルファベットが26文字だからいいようなものの、これから漢字を覚えるんだったら、これはきっとやってられないよなあ、と。
ほんと人間って似たことを思うものですね、こんな場合には。
2009-05-20
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