2010-11-19

「そうですか」とアンドロイドは言った。

平田オリザ+石黒浩研究室(大阪大学&ATR知能ロボティクス研究所)のアンドロイド演劇『さようなら』東京公演を、あうるすぽっと(豊島区舞台芸術交流センター)ホワイエに観に行った。

観劇から少し時間がたって思い出すのは、アンドロイドの「そうですか」とか「はい」とかいったリアクションのことばや様子であることが多い。

ところでこのお芝居は、アンドロイドが人に「朗読」してあげるというシーンで始まる、約20分ほどの短いものだ。そこでまず、観客は「朗読なのか」と息をのむ。なるほどこれは、人類が作った人類が読んで価値あるものは電子化して、フリー化して……という発想のかなり先をいくように思われる。オーディオブックではまだ遠い。誰かが読み聞かせをしてくれる、「朗読」にはそういうケアが入っている。──と、ことほど左様に、私はいつのまにか、「朗読」とはどういうものか、を検討することになる。文学の諸形式、アートの諸形式が、ロボット/アンドロイドによって、再定義されていく。

しかし、これは実は上演の後、石黒先生が技術的な課題の話をしているのを聞いて突然気づいたのだが、朗読とは何か、といった定義が──現に芝居の中で行われていくに拘わらず──アンドロイドを可能にしているプログラムそのものの中には書かれていない! のではないか?

たとえば、もし人間の言語の文法や諸規則をプログラムで書き起こして、翻訳機を作ったら、その「言語とは何か」「言語のルールとは何か」は、きっとプログラムの中に書かれているはずであり、それこそがエッセンスであろう。ところが、アンドロイドの場合は、いくらルールを書き込んでも、それ自体はいわば「本質的でない」と思われる事柄の束かもしれない。

言い換えると、人間の叡知であろうと予期されたものが、「本質的でない」と思われる事柄の束かもしれないのだ。じゃあ人間(の叡知)って何なんだろうか?

さあ、ここでもう一度石黒先生の本へ戻ろう。あるいは舞台の上の出来事を思い出そう。

「で、あなたはどう思う?」と、舞台の上の「人間」役の女優さんが言う、アンドロイドに向かって。

ロボットは涙を流すか (PHPサイエンス・ワールド新書)
石黒 浩,池谷 瑠絵
PHP研究所


ロボットとは何か——人の心を映す鏡 (講談社現代新書)
石黒 浩
講談社

2010-11-18

メトロマナーポスター「またやろう。」11月


11月も「またやろう。」の4コマ。
そういえば、無印良品のメモ帳類が最近いっそう充実していて、todoリスト形式の縦長メモ、それから4コママンガのラフが描ける、4コマメモを発見。4コママンガってなぜか、タテ一列のほうが見やすい。

2010-11-01

データベースの中の死者

なぜ本を書くのか、同時代の人とコミュニケーションするため、後世に残ろうとなんて思っていない……ということがよく言われる。ああ、なるほど、と思う。

ネットの中にあるたくさんのことばがいきかっているのが、そのためなのか、というふうにも思う。

しかし、ときどきその中に死者が混じっている。

あらためて図書館を眺め直してみると、図書館にある本の著者のほとんどは死者である。どうだろう、8割ぐらい死者なんじゃないだろうか。

そこへいくとネットは比較的生きている人の割合が多いわけなのだけれども、このひょっとして死者の割合というのは、今後増えていくほかないように思われる。それに、著者本人がなんらかのかたちでネット上に発信していると仮定すれば、その人が生きているのか死んでいるのかがたぶんわかる。これは図書館の時と違うところだ。

ただ個人のデータベースは、個人がなくなったとき、誰が管理するのか? たぶん、「誰かがひきついでいくこと」あるいは「そういう人がいること」が大事なことになってくるのではないだろうか。