2008-06-29

ロボットが言語を習得するという話

サイエンス・カフェではないのだが、国立情報学研究所の主催する公開レクチャーに参加してきました。テーマはロボット。1つは松原仁公立はこだて未来大学教授による年々盛り上がるロボカップの話題。もうひとつは岩橋直人教授(情報通信研究機構主任研究員)のアームロボットを使って言語と動作を習得する話。計2つのトークを拝聴した。



いずれも興味深い内容だったのですが、その中味の話は後日として、ロボットというと毎度私が気になってしまうことがあって、それを覚え書いておきたい。

私がロボットの話題で、つい夢中になってしまうのは、人がロボットに対してどのような期待を持っていたり、寛容性を示したり、許せなかったりするのかというその感情だ。一般にはそのことを「感情」と言うだろうから、そう書いてはいるのですが、ただ「感情」とはいっても、いろんな要素があるという気はしています。たとえば生物として本能的に警戒しているようなことも多い気がするし、あるいは「赦す」という場合に、自分を投影して(自分もそうだからわかってやる)なのか、それともまったく別の存在として(ロボットだから赦してやる)なのか、いろんな場合があり得るように思う。そして、それらはうわっと交錯する。

2008-06-28

他山の石としての「軽井沢」


軽井沢へやってきた。あまり出張は多くないのだが、たまたまこのところ続いているのである。東京からあさまに乗って、JRの軽井沢駅へ初めて降りた。どこといって変わり映えなんかしない、ふつうの、どちらかというとあまり大きくない、新幹線の駅である。

しかし、駅を降りると、たぶん他の駅とは違って、まるで駅に長野新幹線という蛇口がついて、きゅっとひねったように、ひとがざーっと出てくる。たくさんの人が道を歩いている。駅からの歩道橋なんか人であふれていると言ってもいいほどだ。私もその中のひとりだったわけだ。

街の雰囲気も案内看板も、おみやげやさんも、昼食に入った店内の小物も、どれも「軽井沢」のれんを強化すべく、感じよくまとめられている。空気もすがすがしい。

昨日の土井さんのセミナーもあって、どうして軽井沢と、その近所の軽井沢ではないところが違うのだろう、とふと思った。ブランディング? そうだろう。町おこし? そうだろう。外国人の避暑地? そうねえ。

だけど要するに、最も大きくて、全部にあてはまる、「根っこ(※初出)」にあるような違いは、言ってみれば「感じよくしようという気持ち」のようなものだろう。どういう目的でどういう効果を狙っているにしても、来た人に気持ちよく過ごしてもらおうとか、おしゃれであるとか、いい雰囲気にまとまっているというように感じてもらえなければ、それはもう軽井沢ではない。そこをちゃんとやることこそが難しく、それこそが町の資産なのだ。

軽井沢は季候がいい、という。もちろんそう感じるけれども、それが隣の町や村だって、きっと似たような気候であるだろう。いや、全国を見渡せば感じのいい季候の場所などいくつも見つかるはずだ。それなのに軽井沢が選ばれ、他は選ばれない。いつ、ここの人たちは感じよくすることが、人を集め、結局のところ愛される町になるということを学んだのだろうか……。そこで、ふと外国人の避暑地という歴史は、ブランディングに貢献してるだけではないのかもしれないと思えてきた。そんなところに案外外国人たちの功績が遺っているのかもしれないですね。

2008-06-27

今日、偶然に、空き地を見つけた。


今日は、土井英司さんの出版セミナーに参加した。自分の企画を整理したり、検証したり、それに土井さんの最近のご活躍振りをただ見学に行ったりと、いろいろ参考にしたく時々参加することにしているのである。

今回の会場は神保町の専修大学のあたりで、再開発前は出版関係の会社や小さな商店が軒を連ねていた通りの一本裏だが、今やタワーの多い一角となっていた。

竹橋から神保町へ歩く途上で、偶然に空き地を見つけた。なんだか空き地の方から、わざわざ見つかりに来てくれたかのようだ。

2008-06-26

統計力学といえば、白紙も同然



先日、物理学者のリョーシカと街を歩いていたら、とある雑貨店の文具コーナーに、おそらく試し書き用というつもりだろう、洋書が一冊開いておかれていた。ひと目見て、リョーシカは
「statistical mechanicsじゃないかな、これは」
というのだが、果たして表紙を繰ってみると「平衡統計力学(equilibrium statistical mechanics)」と書いてあるのだった。
わからなければ、ないも同然、というたくましさは感じたけれども……ちょっとあんまりかな。

2008-06-25

空き地を探さなければいけない。



科学者の仕事ぶりを見ていると、研究というのはつまり誰もやったことない問題に挑戦したり、誰も解けなかった問題を解いたり、誰も言わなかったことを言ったりすることなのだとわかります。というより、誰かが既にやったことがあったり、答えが分かっていたり、既に誰かの意見であったりすることに取り組むのは、本来的に研究ではないのですね。

よくビジネス書を読むと、新規顧客の獲得とか、新規市場の開拓とか、すき間を狙って起業しようというようなことが書いてあるけれども、研究の場合には、もともと新規だけしかターゲットじゃないわけですから、言ってみればそれを専門にやっている。したがって研究と起業は案外発想としては近いのではないか。実際にも、産学連携とか大学発ベンチャーということが言われています。

そこで、ある新しい技術が具体的に産業にすぐに結びつくような例を追うと、その技術や成果の社会的なインパクトに応じて、注目度の高いドキュメンタリーになっていくかもしれません。

一方それとは別に、この新しい研究領域を発見する──言ってみれば“人類が初めて知りたいと思う“対象を見出す──というのは、どういうことか、について関心を持ってみたいと思うのです。なぜならそうすれば、特定の技術のゆくえについてではなく、より一般的で、私たちがビジネスや生活に使える思考ツールが得られるかもしれないから。

いや、それだけではありません。科学技術の開発というものが本来どのような活動なのかについて、多くのわかりやすい、示唆を与えてくれるのではないだろうか。

たとえば新しい領域を探すと言っても、いったいどこにあるのでしょう? 確かに──たとえば東京じゅうを見回しても──空き地なんかとても見つかりそうもないように思えますよね。しかし空き地というものがまるでないのなら、すると、今ある地面の取り合いになり、そこでの成果も、どうもビルの屋上に家を建てるような雰囲気になってきます。

とすれば、なんとか空き地を探さなければいけない。

そこでもし実際の土地ではなく、バーチャルな空間だったらどうでしょうか。土地探しよりもぐんと「拡張性」が高く、すぐにも「増設」できそうな気がしてきます。そういう意味では、人間の脳といい、研究領域といったものは、比較的自由に、平和的に空き地を探すことができる。

とりあえず、私はそこに、とても魅力を感じます。

2008-06-24

愛甲石田に東池袋「大勝軒」があった。



取材で愛甲石田へでかけた。多摩川を渡り、徐々に緑深まる沿線を、小田急線は走っていく。ロマンスカーも停まる「本厚木」から急行か各停でひとつ乗ると、「愛甲石田」に着く。

そこからは神奈川中央バス(かなちゅう)に乗るのだが、ここでは均一料金体系ではなく、距離に応じて、降車時に料金を払うシステムだ。駅前でうろうろしていると、切符売りの人が「どこまでですか?」と訊ねてくる。

「通信研究所」というと、250円だそうだ。地図を見ると明らかに歩けそうもないからか、小雨が降っているせいか、自分の家の近くの210円均一の関東バスより、なんとなく安い気がする。

さてバスは途中から川沿いを進むのだが、その途中「小野橋」というところに、なんと「大勝軒」の看板を見つけたのでした。さほどにぎわっているようには見えなかったが、いや、こんなところでお目に掛かるとは。

2008-06-23

「まさか」と「あたりまえ」のあいだに。

先日、取材で、量子の研究者たちに、現在の研究や将来の展望、グループ研究のメリットやコラボレーションの成果などについて、いろいろ話を聞く機会がありました。

量子情報処理の将来について、なかでも印象的だった答え。

──確か2年前にも同じ質問を受けたんだけど、
その時と比べると、
ずいぶん楽観的な考えに変わってきている。
つまり、量子コンピュータはきっとできる、
と思うようになった。

80年代、誰がこんなMacを使うようになるって思った?
誰もイメージできなかった。

それと同じようなもんだと思うんだよ。

今はとてもできそうに思えない。
でもそういうものでも、
僕らみたいな研究者が研究を続けていけたなら、
きっとできる──

すると誰かが言った。

──20年後にはMacの量子バージョン?

まさか。

ちなみに、その「まさか」を、IBMが広告にしたことがあるそうだ。1996年、題材は量子テレポーテーションだが、それが可能になればコンピュータから宇宙まで変わる、という趣向で、IBMの科学者の取り組みを語るものであったらしい。

2008-06-22

サイエンスは、よくサブテーマだったりする。

先日コドモを眼科に連れて行った。余談であるがここはある意味、かなり珍しい眼科である。というのも、待合室には必ず、ボリュームをしぼったハワイアンが流れている。その待合室はつい何ヶ月か前に改装したばかりなのだが、それは玄関ドアや診察券入れや、とにかくそこらにある調度のたぐいをウッディかビーチな雰囲気にする、という極めて表層的なもので、古い建物そのものはびくとも変わっていない。来るのは主に老人か子供だ。待合室の人々は、いつもとてつもなく暇そうにしているので、忙しい人は診察券を出してから出直してくるようにしているほどである。

私も出直してはきたものの、まだ待ち時間があり、あまりにヒマだったので、コドモに算数の問題をつくることにした。リョーシ猫でもわかる、簡単な函数の問題だ。それでも最近の子供はすぐに「わかんな〜い」「学校で習ってないもん」とくる。そこで解き方のヒントを話していたら、なんと待合室のほぼ全員のコドモとオトナが反応するのだった。

なんだ、算数とはいえ科学も結構人気があるじゃないか。

しかしよくよく人々の反応を思いだしてみると、誰ひとり「どういう問題か」とか「自分が解いてみたい」という方はいないのだ。小さいコドモが算数の問題をやっている風景に反応しただけなのである。

つまり、この場合メインの関心はおそらく「教育的母子像」みたいなやつで、それを「算数」が効果的に色づけているというわけなのだ。「算数」は素敵な脇役かもしれないが、真ん中にどっかり座ってはいないのです。

よくある気がするんですよ、こういうの。

たとえば科学者の話というのはほとんど「歴史」の話であったりする。たとえば「ラジウムを発見した」というのは「仏教が伝来する」と同じように、まず年号とともに記憶されるのである。

その先は想像力だ。仏教伝来のほうは、なんとなくストーリーが見えてくる。聖徳太子、仏教に反対する勢力と蘇我氏の戦い……等々。一方のラジウムはどうだろうか。つまり、ラジウムを発見した、だからどうしたのか。

ちなみにパリには現在もラジウムの発見者である「ピエール&マリー・キュリー(Pierre et Marie Curie)」という名の地下鉄の駅があるそうです。

2008-06-21

「多少の縁」などと、意味ありげに。

前回のつづき)
いわゆる表現論としてなら、軽く読み過ごすかもしれないのに、なぜ私にとって清塚さんと瀬名さんの投稿が琴線に触れたかと考えると、たぶんそのバックグラウンドと関係があるんじゃないかと思います。

クラシックの音楽家、演奏家である清塚さんが、その極めて苛烈な積み上げが身上であるようなクラシックという分野をしょって、学んでから意味がないならなかったと言えばいい、と。

清塚信也official blog「ライオンの手紙3」2008.04.06より
初めは一本のシンプルな綱なのに、色々と巻き付けて結びつけてたら、どうやって解けばいいかわからなくなった。
それが学問の始まりだ。
いや、綱をとくという行為自体に、意味がついたのかもしれない。
(中略)
でも、学問は必要だから、怠ってはいけない。
学問は、学んでおいてから、何とでも言えばいい。
意味がなかったなら意味がなかったと。



作家である瀬名さんが、作家を応援する最良の方法について語るのを聞いて。

瀬名秀明の時空の旅「聖者は口を閉ざす」より
リチャード・プライス、なぜこの作家をこれまで読んでいなかったのか。急いで邦訳書籍すべてを揃えた。しかしこの著者は数年に一冊、長篇を著すのだから、こちらもそのペースで読めばよい。一生かけてこの著者の本を読み続ければよいのだ。


ひとつには、(表現として)よいものはよいのだから、使い手たればよいという考え方があると思います。ところがこれらは、そうはしないで、自らなおも謎へ向かっていく。だからそれらを読むと、つい釣り込まれる。そういう私は、その先でなんかもっと、自分が「より好きなもの」がありそうだと予感しているのだと思います。

で、ここからかなり脱線ですが、私のそういうところがコピーライターの資質として、かなりマズイ。というのも見つけるのが大事か、自分の表現が大事かっていうのが、本末転倒してないとも限らないからです。そしてその感じは「科学と広告」にもぴたりとはまってしまう。しかしそれを、多少の縁とも感じたのでありました。

2008-06-20

「感動」はどこから来ると思うか?

これから2つのブログを引用するのですが、ごく短く、ぎりぎりの長さで引用します。すると、そこだけ読んだんで誤解しちゃった、ということも起こりやすいので、ぜひご本人のブログで全体の趣旨を確認してくださいね。

引用元はこちら:
清塚信也official blog
瀬名秀明の時空の旅

清塚信也official blog「ライオンの手紙3」2008.04.06より
人が感動する事には、幾つかのマニュアルがある。
音楽でいえば、和声だったりメロディだったりリズムだったり、色々なパターンがある。
人が感動するパターンがあるから、僕らは近道をするためにそれらを学ぶ。
でも、人って僕たちの事だ。
だから、本当はそんなの勉強しなくても僕らの中にあるということだ。
つまり、人間が猿から進化したときに、何らかの理由で創り上げた感覚なんだ。
人間が自ら創りだしたものなのに、創っておいて複雑になり過ぎて、今それがどんな仕組みかわからなくなった。


瀬名秀明の時空の旅「聖者は口を閉ざす」より
しかし読者である私は、この長い長篇の中でただ一度だけ、自動的にツボを突くこの安手のドラマのシーンで涙を流したのである。人間はそれほどまでに自動的な機械なのだ。

さて清塚信也さんは、新進気鋭のクラシックのピアニストで、すでに「のだめカンタービレ」の影の主人公(演奏)や映画『神童』の演奏・演技指導などでも活躍されている。そのブログに「ライオンからの手紙」という素敵な3連の投稿があって、上記は、その3からの抜粋。

引用のもう一つは、『パラサイト・イブ』をはじめとする小説やロボットに関する著作等で知られる瀬名秀明さんの書評ブログ「瀬名秀明の時空の旅」にある、リチャード・プライスの『聖者は口を閉ざす』に関する記事からの抜粋。

口さがない量子ネコも、今回はなんかもう、この2つを並べて読んでいただくだけでオッケーのような気がしてしまっているのであるが、そうもいくまい。実はいま、量子ネコの頭の中はかなり空っぽで、1つのフレーズだけがぷかりと浮かんでいる。それは……

袖振り合うも多生の縁

というフレーズ。

なぜ「袖振り合うも多生の縁」かというと、まず清塚さんは音楽家であることについて語っているし、瀬名さんのほうは書評の文章であって、これらはお互いにおよそ関係がありません。それなのに、この2つはどこか「袖振り合う」。どこかというと「われわれはどこに感動するんだろう?」というところです。その中でも清塚さんはシステムにフォーカスしており、瀬名さんが今フォーカスしているのはトリガー(引き金)である。

そこで多少の縁です。ほんとうは僕らの中にある、僕らが感動する回路は、複雑になりすぎてそれがどうなっているか最早わからなくなってしまったのだとすると、その回路に図らず、不意にスイッチが入ってしまうという事態も十分考えられますよね。その時の僕らはまさにロボット状態、つまりそれがなぜか、なにかよくわからないままに、感動している、ということになる──というふうにつなげて読んでみることができるのです。すると、この二つ、実はかなり近いことが語られているのではないか。(つづく)

2008-06-19

だから、また、半分仕事で会おう@happy wedding



先日高校時代の友人が結婚パーティを開いて、正直お互いに顔を見ても名前を思い出せないような高校時代の友人が5〜6人集まった。

帰りにみんなでアフタヌーンティーでお茶を飲んでいると、だんだんにあっちの箪笥が開き、こっちの靴下の片いっぽうが見つかって、そうこうしているうちにスカーフやら制服やら、畳の上に広げてみたり透かしてみたりというように、記憶のふたが開かなかったり、閉め忘れたりということが、大がかりに始まっていったのだった。

なんかこう、次々に思いだすんだよね。その場にいなければ絶対思いださないし、今でさえその場の時間は過ぎ去ってしまい、何を思いだしたのかが最早定かではない。

しかしまた、私の場合に限ったことなのか、女性に限ったことなのか、あるいは全部そうなのか定かではありませんが、やはり別々に暮らしてしまって長く経っていると、会って話をするといってもなかなか難しい。一緒に何かやる、特に仕事を一緒にやるような機会があると幸せだよなあと思うのだが、いかがでしょうか。

糸井:
やっぱりさ、仕事にかこつけた方が、
いっぱいしゃべれるんだと思うよ。

糸井:
だから、また、半分仕事で会おう(笑)。



イトイ氏は「半分」って言ってますね(笑)。

2008-06-18

量子の研究者と村上春樹。

先日、これはmixiの日記にも書いたのだが、ウェブの打合せで、アメリカ人の量子の研究者とひょんなことからHaruki Murakamiの話になり、そのアメリカ人が自説を展開するので、すっかり頭が混乱してしまったのだった。

ただこれは、見方を変えると、彼らはまだHaruki Murakamiを発見したばかりであり、だからホットに語っているのである。

一方、私たちはもうとっくに村上春樹を知っており、望むならば全ての作品を読むことだってできる。……ということはつまり、村上春樹のおかげで私はとっても先端的であるということを発見したのであった。

科学と接していて面白いところのひとつが、この世界史の自転をリアルに感じられることと言えるかもしれない。このように、一般には、言語の違いが、結局は専門家レベルでも、社会の対応の遅れにつながってしまうのだ。しかし、科学は違う。科学者は言う、ひとつの大発見は「瞬時に世界を走る」と。

『ほぼ日刊イトイ新聞』を読む。

昨日の投稿
「ほぼ日」10周年を迎えてのごあいさつ
また10年後の自分に、感謝されたい


こういう糸井重里氏みずからのフォーマルな文章は、コピーライティングの教科書だ──と書きました。で、それがどうしてかについて、ごく手短に。

量子猫こと「わたし」が思うに、このテキストは、吉本隆明さんの「何回言おうがいいじゃないか」にちなんでいますね。

 「10年が経ったわけです。」
 「10年は経ったのですけどね。」
 「毎日10年続ける」ということをやってきました。
 ばかのようにでなければ続けられませんでしたね。

「10年」と「続ける」が積み重なっているのに気づかれましたか? こんなふうにはふつう重ねない、しかも重ねられた感じがしない、のはどうしてか。というお手本として読んでみてくださいな。

リンクはこちらから
「ほぼ日」10周年を迎えてのごあいさつ
というのも、昨日書いたように「ほぼ日」のトップページから探すのは一苦労なので。上のリンクからどうぞ。

で、もっと重要なのは、この積み重ねによって、10年がどういうことだったのかを印象づけているところ。ただし、印象の内容については、読み手によってかなり幅のある受け取り方ができるようにもなっていますね。

 果たして、ぼくらは一丁前になれたのでしょうか。
 でも、さぁこれで一丁前になれた、と/思うことにします。
 自分らが一丁前であることを信じます。

と続いては「一丁前」のたたみかけ。ずいぶん続きますね。そういえばこの「続く」感じは、イトイ氏の希望のようにも読めるのです。

2008-06-17

テングザルの目と鼻について、「ほぼ日」と一緒に考える。

脚本家で映画監督の三谷幸喜さんと、ほぼ日のイトイ氏が、ブルータス提携で、対談をしています。何回かのシリーズですが、その中で、イトイ氏が言っています。

糸井:
僕は、もともと広告屋ですからね。
「この人は鼻です」っていう仕事をしてたんです。
その意味では自己否定なんです。
つまり、時代が変わったんですよ。


リョーシ猫こと私が、今回はこれを読んでみようと思います。

いや、ま、とっても難しいですよね。(というか、上記のリンクで前後の話を読んでみてください。)こういうのと量子と、どっちが難しいかな、なんて時々思ってしまうのですが、まあ余談はおいておいてと。

しかし何度か読んでいるうちに、要は構えすぎで、難しいと思わなければ、それほど難しくないんだとわかります。つまりですね、自分にわからないことはどうせわからないのです。時間をかけて相手の深さに付き合うより早く、自分でもわかることを自分に役立てるほうが得策になることが多いのです。

というわけで、これをエイヤで、私のサイエンスコピーライティングへの教訓として読んでみますよ。

設問:「天狗のように大きな鼻を持つ」テングザルという動物を例に、訴求ポイントとして顕著な「鼻」と、愛らしい「目」をどう宣伝するか?

※できればテングザルの画像を見てくださいませ、ぐっとリアルになりますから。

1 サイエンスの広告は、まだ「この人は鼻です」の段階かそれ未満
2 鼻と目の機能をしっかり使うこと
3 本末転倒しなければ大丈夫


最初に思いついたのが、3の楽観的な感想。おもしろがらせよう、という「本」が大事であって、そのおもしろさが天然か人工か、意識的か無意識的かは「末」、つまりどちらでもよい。

次に思いついたのが2。宣伝すべきものとして「鼻」は効果がある。「目」は時代に活かせるかもしれない。比較的長いファンを作るのにも向いている。使い分けること。

で1というのはむしろ一般的な認識あるいは前提として、確かにサイエンスという分野は、いわゆる表現の最先端ではない。

で、いよいよ教訓をぐぐっと展開してみますよ。

表現の最先端でなくても、サイエンスとして最先端であるならすでにすごいのだから、そこに注目しよう。

そこでひとつには、サイエンスそのものを鼻と考えて、目をつける(表現で魅力と動機をつける)コラボレーションを目指すのがよい。

もうひとつは、サイエンス(コンテンツ)の中にある鼻と目を見極めること。これは案外そのまま──つまり科学者は鼻に注目し、コピーライターは目に注目する──という気がするので、そういう時は糸井重里を引いて「いや、今の時代には、目なんですよ」と言えばよいのである。

それと。糸井重里論も「ほぼ日」が書いているんだなあということにも気づきました。やれやれ。

目指せ「土曜日のランダムボタン」!?

『ほぼ日刊イトイ新聞』が10周年を迎えられたそうである。おめでとうございます。

「ほぼ日」10周年を迎えてのごあいさつ
また10年後の自分に、感謝されたい


がアップされています。こういう糸井重里氏みずからのフォーマルな文章は、コピーライティングの教科書だったりしますので、ぜひチェックしてみてください。

ところがこの記事、あっと言う間に、トップページから消えてしまいました。

えっ! もう、リンクないの?

よくあるんですよね、これ。「ほぼ日」の記事を他人に紹介しようという時、再度読もうという時等々……えっ!と思う不便さです。

逆に言うと、ブログやホームページを毎日作ってアップしていると、なんというか、世間的な時間感覚を追い越しちゃうみたいなところがあるのだろうと思います。私の「もうないの?」は、ほぼ日の「もう十分じゃない?」なのかなあ、と。

ことほど左様に、どんどん先へ行ってしまう「ほぼ日」ですが、コンテンツを捨ててしまったわけではなくて、日々アーカイブしているのもまた「ほぼ日」です。その証拠に毎週土曜日には「土曜日のランダムボタン」が掲載され、膨大なアーカイブにランダムにアクセスすることができます。

そういうわけでなんでも自分でやってしまうほぼ日なのですが、実は「ほぼ日」について”語りたい”というのが、自分自身このブログを始めたい強い動機のひとつという気もします。ほぼ日のおもしろさを個人的に味わい尽くしたいと言いますか。

ええと、しつこいようですが、この「味わい尽くす」もほぼ日自身がやっていることのひとつです。たとえば編集の永田さんのお仕事を見ると、そのように私は感じます。じゃあ、「私」は何する人? と聞かれれば、目指せ外部「土曜日のランダムボタン」ってとこでしょうか。(今日は土曜日じゃないってば)

というわけで今回はすっかり「広告」でしたが、「ランダム」と言えば「科学」に通じますよ。科学のことなら、以下のサイトをどうぞ。



『週刊リョーシカ!』
http://www.famipro.com/ryosika/index.html

量子と科学をめぐる週刊!科学コンテンツ。
6月からは確率のお話を掲載しています。

2008-06-16

いま、このブログでやろうと思っていること。

科学と広告の話を書いていこうと思っています。科学は科学だし、広告は広告というわけで、かなり接点がない感じがするかもしれません。

では、広告が「そうだよなー」と思わせ、納得させるものだとすれば、科学は「えっ!そーなの?」と驚き、場合によっては耳を疑うものである──と言ったらイメージが湧くでしょうか。そして、かくも反りの合わない二人をなんとかしたいのが、サイエンス・コピーライターである、というのが私の考えです。

なぜなら、知ってみれば、科学というのはかなり面白いのです。それに──特に「最先端」と呼ばれる部分は──とても新しい、人類が昨日まで知らなかった発見に満ちちゃってる。いやもう、大げさでも何でもなく、最先端で活躍する科学者たちは、解けるかどうかもわからない、まだ誰も解いたことのない問題に、ずーっと取り組んでいるのですよ。

ところが簡単な話、科学者は科学のプロであって、広告のプロではありません。通常私たちコピーライターが扱う「新商品」どころではない「人類初」の発明発見も、結局のところ、科学者でない私たちには極めてわかりにくい話に過ぎなかったりします。

そうすると、せっかくのその、可能性としては大きなインパクトを持つはずの「新しさ」が、社会に活きてこない。わからなければ、なかったことになってしまいますし、たとえば具体的な技術やサービスとして出てきたときに初めてわかるようなことも多いでしょう。しかしサービスになってしまえばユーザとして使うだけですから、そこではもう、科学者が「考えたこと」そのものをうかがい知ることはできないのです。

まったく新しいものを世の中に紹介するには、広告的手法が、まさにバッチリ、適しています。科学の最先端を、そのエッセンスだけ、おいしいまま楽しいままにデリバリーというのが、私の、サイエンス・コピーの理想です。

サイエンス・コピーライター宣言。

ブログの新設は2年3ヵ月ぶり、リニューアルでないサイトの立ち上げとしても8ヵ月ぶり。今回は、いわゆる「仕事ブログ」でもあり、ちょっと緊張しています。が、とりあえずスタートアップします。


sciencecopywriter
Originally uploaded by rue_i

上から、小塚ゴシックProH、A-CIDゴシックMB101B、小塚ゴシックStdH。